第40話 天女の分身

 静かな部屋に、墨をする音だけが聞こえる。

 その静けさを不自然に思うのは、紅がおしゃべりでいつも賑やかだからだろう。


 直人は、自分でも不思議だと思った。

 かつての直人に当たり前なのは、ただ静かなばかりの自分の部屋だったのに。紅との出会いから短い間に、あっという間に『当たり前』は違うものに変化した。


 直人はもう、完全に紅を《異質なもの》として感知し警戒する勘を失っていた。


 紅が、直人との境界線を越えて、直人の内側に入り込んでしまったのか。

 それとも、出会った日に気配に気付けなかったほど、直人は無意識に紅を自分の領域で包み込み、守るべき存在として巡り会ったのか。


 運命というものが本当にあるのなら、それは紅というたったひとりの少女なのだろうと、直人は思った。


「ん。これだけあれば、しばらくは足りるかな」


 紅が作っていたのは、形代だった。

 何枚もの人型に墨書きで紅の名と数え年が記されていて、ポタリと赤い血が滲んでいた。

 いつか紅が言っていた簡易版ではなく、本格的な形代なのだろう。


 直人が、紅の指先を押さえて血を止めて絆創膏を貼ってやると、紅は嬉しそうに笑った。


「懐かしいな。僕が怪我をすると、お母さんがこうやって手当てしてくれたの」

「手当てされるのが好きなのか?」

「ん…、何だかね、心がくすぐったくて、あったかい気持ちになるの。本当は、心配かけないのが一番いいのにね」


 紅は、畳んだ人型をお守り袋に入れて、直人の手に載せた。


「これ、直くんが持ってて。僕の分身だから」

「分身?」

「うん。僕自身も呪い返しの形代は持ってるけど、相手が生きてる人間だと効き目が弱いの。でも、僕に何か有ったら、この分身が僕の災厄を直くんに教えてくれるよ」


 紅は、殺すべき人間を炙り出すと言っていた。

 直人と離れて意図的に隙を作ることで、紅は自らを危険に晒して囮になろうとしているのだ。


 直人は、本当はそんなことはして欲しくない。でも、


「わかった。いつも持つようにする」

「えへへ、直くんが僕の形代を持ってるっていう事は、離れていても僕はずっと直くんの傍にいるのと同じなんだよ!」


 幸せそうな笑顔で、紅は覚悟を決めている。

 ならば、直人は紅とその覚悟を共にする。


「…ああ、ずっと一緒だ」





 次は体育の時間で、ふたりが別行動になるのはいつものことだ。

 そして、いつもの通りわくわくした表情の紅に、頭ぽんぽんをしてから背を向けると、後ろから女子がキャッキャと騒いでいるのが聞こえてきた。


 直人の聴力では、遠ざかっても聞き取れる。頭ぽんぽんくらい、周囲もさっさと慣れて欲しい。

 紅曰く、


「直くんが髪を切ったら、今更クールでカッコイイってモテてるんだよ!僕はクールなだけじゃなくて情熱的でカッコイイんだよって訂正したけど、何かムカツクーーー!!」

「訂正するな」


 直人はふと、《仕事》専用のスマートフォンの微かな振動に気付いた。忍だ。


『おい直人。どういうことか説明しろ』

「何のことだ?」

『紅ちゃんが二人いる。そうじゃないなら、有り得ない事に俺の完璧な追跡システムが誤作動してる』


 紅の――おそらく《弥栄いやさか一族》の『おまじない』は、気休めではない。それは、確かに実在するのだ。


 紅を残酷な運命が襲った時、直人だけが無事に『お呪い』に守られた。 

 守りたいものに、守られてしまった。


「誤作動じゃない。本人がどこにいるかは、監視カメラでわかるだろ」

『当然わかる。でもお前と一緒にいることなってるんだよ。紅ちゃんの特技は分身の術なのか?』

「俺と一緒にいる方が分身で、離れている方が本人だ」

『日本語で言ってくれ。英語でもいい』

「おまじないだってべには言ってる。そういうものだと思ってくれ」

『お呪い…ねえ。OK、そういう事もあるってことにしておくよ』


 ツッコミを入れてきた割に、あっさりと通信は切れた。

 この世界で、科学で解明されていることはほんの一部に過ぎない。いつか、科学者である忍自身もそう言っていた。


 現実に、日本中の監視カメラにその姿が映らなかった女がいた。通称・八坂蘭。

 そして、彼女と同様に、高天原識の捜査網から十五年逃れていた娘、旧称・八坂紅。


――――僕とあの男が出会ったのは、お母さんのお墓の前だったの――――


 いつか、眠る前に布団の中で寄り添いながら紅が話してくれた。

 母親の死後、その亡骸の傍で茫然として、正気を失いかけていた時に、見知らぬ女が現れた。


――――貴女の呪いは、半分解けています。だから、《一族》の元に来るか、俗世に生きるか、貴女が選びなさい――――


 紅は、母親の遺言を果たす為に、俗世に生きる道を選んだ。

 しかし、母親を失った紅は、独りぼっちになった。


《一族》と言いながらも、八坂家の墓というものは存在しなかった。

 ただ、ある寺の無縁仏が葬られる場所に、遺骨は納められた。


 行き場もなく、長い間無縁仏の塚の前で立ち尽くしていた、紅の背後からその声は聞こえたのだった。


――――蘭、やっと見付けた。見付けたぞ。やっと、お前に辿り着けた――――


 そうして、亡くなる時まで若く美しい姿のままだったという母親に瓜二つの娘は、高天原識に引き取られた。

 紅は、八坂蘭の《境界線の内側》という居場所を失った途端に、高天原識に発見されたのだ。


――――蘭は、自分が生き残りたいが為に他人を殺した。

 紅、お前がその証だ――――


 押し入れの中で聞いていた、高天原識の言葉。

 高天原識は、二度《人殺し》の八坂蘭と接触し、その一度目、三十年前の邂逅で殺人を《依頼》しているのだ。


 殺人を依頼する。その意味はひとつしか無い。邪魔な人間を消すこと、これに尽きる。


 当時の高天原識にとって、最も邪魔だった人物は、おそらく《高天原の壱》高天原永人ひさとだ。

 

 忍曰く、『あまりにも父上にだけ都合が良すぎるタイミング』で永人が死んでいなければ、側室の子で《四番目》の識が当主の座に上ることは不可能だった。


 次期当主の座を確実なものにした識は、天女のような《人殺し》に魅入られていた。

 魅入られ、妻にしようとしたが、出来なかった。

 

 永人の自殺に見せかけた他殺、という《依頼》を果たした蘭が、紅の言葉が事実なら『ご縁』が切れて、姿を消したからだろう。


 そうして長い間見付からなかった美しい女が、《依頼》でもないのに二度目に姿を現したのは、十六年近く前。


 高天原識が言うには、八坂蘭の目的は『高天原識の子供が欲しい』という

ことであり、その後はやはり幻のように消え失せた。


 そのまま、八坂蘭は、高天原識から永遠に逃げ果せた。

 15歳になったばかりの、ひとりで生きていくのには幼すぎる娘を残して。


 十月十日、蘭が慈しんでその身に宿し、密かに出産した子供。大切に愛し、隠し続けた一人娘。

 紅の父親は、本当に高天原識なのだろうか――――?

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