第38話 高天原の陸――睦(三)
ふたりが行ってしまうと、伊織が言った。
「睦ちゃんって、伊達眼鏡だったの?」
「伊達は忍兄さんの趣味よ。私は別にお洒落じゃ、きゃあっ!」
伊織の手が、すいと眼鏡を抜き取った。
「ああ、懐かしいな。小さい頃の睦ちゃんを思い出すよ。せっかく可愛いのに、髪をバッサリ切っちゃうし眼鏡かけ始めたし、どうしたのかなとは思ってたけど、何かきっかけがあるんじゃないの?」
睦は伊織から眼鏡を受け取ると、困った顔をしつつ眼鏡をかけ直した。
《妹》の最後の言葉が頭をよぎる。
どうして、紅は知っていたのだろう?
それとも、あの僅かな邂逅だけで見抜いたのだろうか?
紅は素直に謝ったのに。笑顔で手を振ったのに、思い出すとゾクリとする。
――――元に戻るなら、今がチャンスだよ。
柳子ちゃんのイライラは僕に向いてるから――――
睦は、母に相談した以外は、誰にも言ったことは無かったのに。
伊達眼鏡も、誰にも見抜かれたことは無かったのに、幸か不幸か隠している意味は無くなった。
「……。私が小学校三年生で、柳子ちゃんが二年生の時のことなんだけど…」
その頃の睦は、ウエストラインほどの黒髪をサイドだけ上げて、紺色や茶色のシックな色合いのリボンを母に結んで貰うのが好きだった。
母・梓は高天原識の秘書であり、いつも多忙だった。だから、髪を結んで母がプレゼントしてくれたリボンを飾る、その短い触れ合いが小さな幸せだった。
「柳子ちゃんに、髪の毛に接着剤をベッタリ付けられちゃって…。それで髪を切ったの」
「うわぁ。柳子の奴、そんな子供の頃から本格的な嫌がらせしてたのか。ごめんね、睦ちゃん」
「伊織兄さんが謝ることじゃないわ。もう何年も前のことなのに、私が警戒しすぎていただけかもしれないもの」
「いや…柳子の成長を十五年見守ってきた俺でも、柳子が謝ってるとこ見た事ないんだよ…」
その、髪の毛バッサリの睦を見て、当時七歳児の柳子は笑って罵ったのだった。
「なんなのそれ~。ざしきわらしみた~い!ブースブースブース!!」
伊織は、遠い目になった。
「いやもう…本当ゴメン。我が妹ながら、その頃から悪役令嬢だったとは知らなかったよ」
「私も、鏡を見て座敷童ってこんな?って思ってたところだったから、仕方無いかなって……」
「そういう問題じゃなくない?」
その後、睦は知った。
母親が違う子供達は交流が少ないので、情報源は専ら侍女達の噂話だ。
仕える主が誰であろうと、彼女たちにはNoという選択肢はない。
当主の妻たちは、梓以外は高飛車だったり理不尽だったりで、子供はそもそも大人を困らせる生き物だ。噂話で憂さを晴らすくらいしか出来ないのだろう。
「柳子様が、入学早々に学校で大暴れしたそうよ」
「幼稚園で年長さんになって、やっと君臨できて落ち着いて来ていたのに…何が有ったの?」
「小学校から編入してくる子も多いでしょう?《高天原家》を知らない子が、柳子様の髪の毛を、十円玉とか銅メダルとか言っちゃったんですって」
柳子にとって、髪色の話題は地雷だった。
柳子の母・沙也香はやや茶色がかった美しい金髪。兄の伊織は金色寄りのライトブラウン、弟の了は隔世遺伝なのか天使のような金髪だ。
母の沙也香はクォーターでも、父である高天原識は黒髪なのだから、寧ろ伊織や了の髪色が明るく出たのであって、柳子の茶髪は順当だし高校生の今でも十分美しい。
だが、当時の侍女達が
「いっそ当主様に似て黒髪の方が良かったのにね」
「蜜花様や睦様の御髪は、本当にお綺麗だもの」
「睦様は、柳子様とひとつしか違わないのに、小さな頃から落ち着いていて、日本人形のように可愛らしい方よね」
「派手な装いは好まなくて、梓様から頂いたリボンを大切にしていらっしゃるのよ」
と言っていたのを柳子が聞きつけ、何人かの侍女がクビになった。
ついでに、『綺麗な黒髪』に落ち着いた色のリボンを飾っている柳子に八つ当たりを仕掛けたのだった。
その後も、高天原邸の日本庭園で鯉に餌をやっていたら、柳子に背中を押されて池にダイブした睦は、『可愛くなくなる』ことで自己防衛をした。
まずは可愛くないデザインの眼鏡を掛けた。髪の毛は、巫女候補だったので伸ばさなければならない。少し伸びてくると結び、更に長くなるとお下げにして漫画のガリ勉風味にした。
「睦ちゃん、俺が言うのも何だけど、今からでもデビューして青春を謳歌してみたらいいんじゃないかな」
「ありがとう。でも…」
睦は、呟いた。
「私は…。柳子ちゃんよりも、紅ちゃんが怖い」
「あはは、さっきの『殺すよ』は殺気立っててゾクッとしたよ。あの子も高天原って訳だ」
それだけだろうか?殺気立つ、という例え話ではなく――――
「あの子、本当に人を殺したことが、あるんじゃないかしら……」
伊織は、目を瞬いた。
「流石にそれは無いんじゃないか?父上じゃあるまいし」
「伊織兄さん…それ人前で言っちゃ駄目よ?」
高天原識は、冗談では済まない噂が、三十年経った今でもまことしやかに語られているのだから。
「伊織、ブスとつるんで何してるのよ」
そこには、波打つブラウンの髪の柳子が、不機嫌な顔で立っていた。
伊織は、ボソリと呟いた。
「直人…さては逃げたな?」
あの謎めいた弟の勘は、野生の獣のように鋭いから。
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