第36話 高天原の陸――睦(一)

 直人は、中学時代から自転車通学だ。


 住んでいる場所は離れでも、高天原家の車の一台くらい確保することは簡単なのだが、修験道の山に居た頃とは比べものにならないほど運動量は落ちた。

 通学くらい自分の足を使わないと衰える、というよりも体を動かしていないと直人が自分の体力を持て余す。


 という訳で、今日も紅は自転車の荷台に横座りして、むぎゅうと直人に抱き付いていた。

「直くん、もっと飛ばしてもいーんだよ?」

「どうせ信号で捕まる」


 既に余裕でスピード違反の原付みたいなスピードで走っているのだから、これ以上を求めないで欲しい。それに、


「上り坂だぞ」

「電チャリじゃないのにスピード落ちないもんねえ。平地なら百キロ出せそう」

「それは無い」


 多分八十キロは出せるが、紅を乗せていると危ないので出さない。


「あ、やべ」

「ん?どーしたの?」

むつみに見付かった」


 睦が毎日乗っている車は、黒ガラスだ。ついでに防弾仕様なのがいかにも高天原家だ。

 黒ガラスは外からは内部は殆ど見えないが、直人の視力は普通ではない。

 そして、


「直人君!二人乗りなんて危ないでしょ!!」


 と、黒縁眼鏡にキッチリ三つ編みの優等生・《高天原のろく》高天原むつみに叱られることになった。


「お説教の前に、初めましてだよ、睦ちゃん」

「え…、あ、ごめんなさいね。初めまして、紅ちゃん」


 紅は、にっこり笑った。…のに、圧を感じるのはどうしてだろうか、と直人はチラリと隣の紅を見た。


「僕ほどの美少女が空気になるくらい、直くんしか目に入ってないんだね」

「……そういうわけじゃ…」

「ふーん、僕に気付いていたのに、無視したんだね。直くんには面倒見が良すぎる優等生、って聞いてたけど、ホントに優等生なのかなあ?」

「…………」


 紅にのらりくらりとした口調で指摘されて、睦は気まずい顔をした。


 これはもう、習慣なのだ。

 直人が何か危険なことをしたり、授業をサボっているのを見かけたり、勝手に屋上への扉の鍵をチェーンごと解錠して屋上にいるのを見付ける度に、注意・指導を入れるのが、ひとつ学年が上の異母姉《高天原の陸》の性分なのだ。


「あはは、朝からケンカかな?おはよう紅ちゃん、直人」


 通りかかった伊織がやって来た。

「睦は面倒見の塊なんだよ。問題児の弟と心配性のお姉さん、ってとこかな」


 直人は、いつもの無表情で言った。

「今年はそれほど問題児じゃない。べにのガードの都合上、体育以外の授業はサボってない」


 睦は、思い出した。お披露目の日に、睦は直人や紅から離れた場所にいたので後から耳にしたのだが、直人が淑子の計らいで《玖》のボディーガードになったという話は、俄には信じ難かった。


 あの、直人が、淑子の指図で庶子の護衛を引き受けただなんて。

 でも、睦の目の前で、《玖》はぴとっと直人にくっついているし、直人もくっつかれるままにしている。


 それに、呼び方が――――


「…べに?」


 睦が怪訝そうに言ったので、紅が「殺すよ」と言い出す前に直人は言った。

「紅のこと。べに呼びは俺限定だから、睦は伊織と同じく紅でOK」

「その紅ちゃんのボディーガードが!保護対象と自転車の二人乗りなんてしちゃ駄目でしょ!?」

「伊織なら乗っけてもいいのか?」

「もう…誰が乗っても危険だから交通法規違反なのよ」


「危険じゃないよ」

 と、紅が直人の左腕にむぎゅうと抱き付きながら言った。


「直くんの身体能力を舐めちゃダメだよ。もう人類超えてるから。時速百キロ出しても、事故るより自転車が壊れるのが先だから。それでも直くんは、僕にかすり傷ひとつ付けずに華麗に救出してくれちゃうんだよ」


 睦は、こちらも見かけに寄らず問題児であるらしい《妹》に溜め息を吐いた。


「紅ちゃん…。自転車の荷台は、子供が乗ったチャイルドシートの重みが最大なのよ?」

「大丈夫だよ。直くんの自転車は特注した頑丈なやつだから。おまわりさんに呼び止められても、学生証見せて『高天原だ』って言えば見逃して貰えちゃうから無問題だよ。だから睦ちゃん、直くんを叱るの、?」


 直人は、紅が静かに怒っていることに気付いた。

 睦がお節介なのは、いつものようにスルーすれば済む。睦も流石に逆ギレ必至の柳子は避けていても、伊織と柳子の同母弟・あきらに対しても親しく『お姉ちゃん』として接している。


「べに、睦はお姉ちゃん気質とかいう奴で、まあ煩いけど常識人で無害だから怒らなくていい」

「ちょっと直人君!私は心配して言ってるのに」



「違うね」


 紅が、美しい黒い目を細めた。


「睦ちゃんは『心配していたい』んだよ。直くんに、しっかりして欲しいなんて思ってない。『危なっかしい弟』のままでいて欲しいんだよ。…そうでしょ?」


 睦は黙りこみ、伊織も口を挟まず興味深そうに見守っている。

 紅は、静かに、しかしきっぱりと抗議した。


「直くんは、ちゃんとしてるし、しっかりしてるよ」


「なのに、睦ちゃんはどうして直くんを悪く言うの?」


「直くんは、もうとっくに一人前の男だよ。半人前の男の子じゃ、僕を守れる訳が無いんだよ。僕を狙う奴は、お子様から質の悪い大人まで、うんざりするほど幅広いんだからさ」


「睦ちゃんだって、お年頃のレディーなのに、いつまでもおねしょしてるちっちゃい子みたいな扱いされたらイヤでしょ?睦ちゃんは賢いからいちいち喧嘩しないだろうけど、そういう無神経な人は《面倒くさい》から距離を取るよね?」


「直くんは、恩知らずじゃないし、睦ちゃんが思ってるよりずっと優しいから、睦ちゃんがどんなに失礼なお節介焼きでも嫌いにはならないよ。でも、直くんはそういう扱いされるのはもう嬉しくないし、煩くって《面倒くさい》んだよ」


 それは、直人の口癖。

 面倒くさい。放って置いてくれればいいのに、何故関わってくるのだろう?という疑問。


 でも、直人はその疑問の答えを探すことも面倒くさくて、睦が何を言っても聞き流すだけだ。

 ずっと、そうだった。


 それでも、直人は睦を邪険にしたことはない。

 お節介な『お姉ちゃん』を、許してくれていたのだろう。

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