第35話 高天原の捌――柳子(二)
柳子が直人と出会ったのは、三年前、中学に入学して何日か過ぎた頃だった。
侍女の噂話で、《高天原の漆》が帰ってきたと耳にした。
「ねえ伊織。そいつって、不義の子だからって追い出されたんじゃなかったの?」
「父上が《漆》の名を取り上げていないってことは、歴とした嫡子だよ。俺達も側室の子だけど、《数持ち》は嫡子だろう?」
そうだ。高天原家とは、そういう家だ。
しかし、柳子は気に食わなかった。
当主の子供達のランク付けには、3種類がある。
まずは《数》。生まれ順で《壱》が上位で、下に行くほど格が下がる。
もっと重要なのは性別だ。継承権を持つのは男だけで、女は政略結婚で役に立つしかない。
そして、どの妻の子供か、という序列。
唯一の存在・正妻が別格であり、当然に正妻の子が格上だ。
側室の子供はそれ以下で、子供の格は母親の実家の力や当主の寵愛に左右される。
《捌》の柳子は九人中の八番目で、下から二位だ。…気に入らない。
そして、女だから継承権を持たず、いつか家を出て行く身だ。…うんとハイスペで、柳子をお姫様のように扱ってくれる男なら、ちょっとは考えてあげる。
しかし、母の沙也香は、側室に選ばれてからずっと、4人の妻の中で最も寵愛されている妻だ。
つまり、柳子の優位性は、最も寵愛される妻の娘、ということに尽きる。
だから、正妻の次男でありながらその正妻に欠片も愛されていないらしい《不義の子疑惑》の子で、ひとつ数字が上の《漆》に興味を持った。
柳子は、自分は《漆》よりも上位なのだと、格の違いを思い知らせてやりたかった。
そう思って離れの方に向かってゆくと、継人が微笑んで誰かと話していて、そして立ち去ってゆく所だった。
そこには、柳子とあまり変わらない背丈の少年が、ぽつんと立っていた。
継人は異母兄でも柳子に優しい人物だが、あんなに慈しむように笑いかける姿は、初めて見た。
気に入らない。短気な柳子は、少年にむかってずんずん歩み寄った。
「あんた、見ない顔ね。使用人の子?継人兄さんは、誰にも優しいのよ。あんたみたいな卑しい生まれの子でもね!」
柳子は、ビシッと人差し指を突き出して釘を刺してやったのに、少年は柳子の方を見ることもなく背を向けた。
何という無礼であろうか?柳子は、思い切りムカついた。
「ちょっと!何無視してんのよ!!」
少年は、気怠げに軽く振り返った。
「…俺に構って欲しいのか?」
「な…!」
柳子は、思わぬ切り返しに真っ赤になった。
ムカツク、そう思っただけのはずなのに。
一瞬でもドキリとしたのが、自分でもわからなくて酌に障った。
取るに足らない子供に無視された。腹が立つ以外、柳子にとってどんな意味があるというのだろう?
「お前…」
少年は、無表情に言った。
「…面倒くさい奴」
柳子は、立ち竦んだ。
少年は、もう柳子を見てはいなかった。何事もなかったかのように、背を向けて去って行く。
柳子は、体が震えた。いつもの自分なら、一層腹を立てて罵倒してやるのに。
どうして、自分は茫然として、――――そして、心傷付いているのだろう?
面倒くさい奴、で片付けられた。
あの少年にとって、柳子は『相手する価値もない奴』だったのだ。
こんなに酷いことを言われるなんて、生まれて初めてだった。
今まで、我が侭なお姫様のように振るまい、それが当然の事として許されていた柳子にとって、初めての屈辱であり、言いようのない傷心だった。
ひっそりとおとなしそうに見えたあの少年の、醒めた目と放った言葉は、氷の破片のように、柳子の年齢よりも幼い心に突き刺さった。
「…柳子お嬢様」
背後から、いつも柳子の顔色を伺っている侍女の、いつも通りにおどおどとした声が聞こえた。
「あの方は、《高天原の漆》の直人様です。関わらない方が良いかと…」
「え…?」
柳子が興味を持ち、自分の優位を示し従えようと思っていた、あの七番目?
高天原家の《数持ち》とは思えないほど、陰に隠れるように目立たない印象の少年だったから、気付かなかった。
「ねえ、あいつって、どうして戻って来たの?追い出されたんじゃなかったの?」
「武芸の先生に付いて、鍛錬を積んでいらしたそうです。先日七年ぶりにお戻りになりました。この春から、柳子お嬢様と同じ、当千華学園の中学校に在籍しているようです」
それならば、柳子と同学年だということだ。
そして七年前と言えば、柳子が附属幼稚園の年長組にいた頃だ。幼稚園は定員が少ないので、二、三年一緒だったなら少しは記憶に残っていてもよさそうなのに、何も覚えていない。
「幼稚園に、あんな子いた?」
「いいえ…。直人様は、幼い頃は本邸ではなく離れで暮らしていらっしゃいました。武芸のお師匠様に連れられて旅立つまで、外部に出られたことはありません」
「…何よそれ…」
そんなのは、まるで――――違う、閉じ込められていた、長々しく言わなくたって、それだけではないか。
まだ十二歳の柳子にも、隠す大人の綺麗事が不愉快だった。
そして、『かわいそう』な身の上の《漆》の事が、何となく心に引っ掛かったまま、時は過ぎた。
直人は、学校には来たり来なかったりで、かといって不登校でもないらしく、寧ろ『掃除屋』とか『消し達』とか妙な噂が伝わって来る程度に案外逞しいようであるし、掴み所のない少年だった。
柳子は、ある日昇降口で直人を見付けたが、空気のように素通りされた。
「やっぱり《偽物》はなってないわね!まともなあいさつも出来ないの!?」
「…お前がまともな挨拶覚えろよ」
「なっ…何ですって!?」
柳子が言い返す言葉を見付ける前に、直人はそのまま立ち去った。
悔しい、と柳子は思った。
悔しい、悔しい、悔しい。
きっと、直人は腹を立ててもいないのだ。直人なら、腹を立てることすら面倒くさいだろうから。
柳子にとって、直人は会うたびに苛々して、会うたびに突っかりたくなり、突っかかるたびに悔しい思いをして終わる相手だった。
どうして、こんなに悔しいのだろう?
どうして、あんな格下に敵わないのだろう?
わからなかった。
どうして、いつも勝てなくて、自分ばかり悔しくて、自分ばかり傷付くのか。
柳子には、わからなかった。
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