第32話 数持ちの思惑(二)

 宗寿の手が、紅の華奢な顎をくいと上向かせた。


「おとなしそうな顔をして、お前の母親もお前と同じ顔で父上を手玉に取ったのか?」

「まさか。私の母は身を隠して産んだ私を連れて、流離い続けた哀しいひとでしたわ。魂だけはやっと天に帰れましたけれども、俗世に残した娘のことだけは、天の母もさぞ心残りでしょう」


 ざわ、と周囲が揺れた。

 正妻でも側室でもない女が産んだ娘が数持ちになること自体が異例であるのに、紅は今『紅の母親は高天原識を拒み、最期まで高天原識のものにはならなかった』と言ったのだ。


 高天原識は、八坂蘭を側室どころか妾にすることすら叶わなかった。何年も探し続け、やっと見付けたのは蘭に瓜二つの娘・紅だけだった。

 それ程までの執着。紅は、母の身代わりに連れてこられた、天女の娘なのだ。


「……ですから、気易く私に触れないで」


 白い手が、ぴしりと宗寿の手を弾いた。

 触れてはならぬのは、宗寿が高天原識という盗人に似ているからなのか。


 それとも、《高天原の玖》は既に高天原家当主という《真の一番》のお気に入りであり、身の程を知れということなのか。


 ――――違う。紅は、既に高天原直人のものだからだ。そのひとつに尽きる。

 紅はそう語ることなく、ふわりと長い黒髪を揺らして背を向けた。


「待ちやがれ!この、ぽっと出の九番目が!」


 激した宗寿が、艶やかな黒髪を無造作に鷲掴みにした。

「生意気が過ぎるぜ。天女か何だか知らねえが、父上のペットの小娘なんざ、数持ちだろうと誰も敬っちゃくれねえし、守られもしねえと思え」


 紅は、髪を強く引っ張られても、大振袖という不自由な装いでも小さくよろめいただけで、痛みや恐怖の表情を浮かべることもしなかった。涼しげな声は、典雅な旋律のように、


「別に敬って貰えなくてもいいけど……守って貰えないのは、どうかなぁ?」


 と赤い唇が紡いだのと、宗寿の手から黒髪がはらりと零れ落ちたのはほぼ同時だった。直後に、宗寿が咆吼する。


「ぐあああッ!!うぐ…、この、《偽物》がぁ…ッ!」


 宗寿は、憎悪を剥き出しにした目で《七番目》を見た。右腕に激痛が走り、それは不自然にだらりと下がる。


「守ってくれてありがと、直くん」

 いつもの口調で、紅は花のように笑った。


「宗寿」

 直人は、紅を背後に庇って前に出た。


「紅のボディーガードは俺だ。御台様のご意向なんで、不満があるなら御台様に言え」

「………!」


(御台様が…?)

(何故…)


(どこの馬の骨ともしれぬ女の娘の後ろ盾に――――)


 ヒソヒソとした声だったが、直人には全部聞こえていた。

 後ろ盾云々は、直人も今日が初耳だったが、確かに庶子である娘を《数持ち》にして手元に置く為に、正妻の養女扱いするのは舌打ちしたくなるくらいいい手だ。


「《一番目》がみっともなく騒ぐなよ」


 膝を付いて呻いている宗寿を、直人は冷ややかに見下ろした。


「肩と肘と手首の関節、三点セットで外れてるだけだろ。とっとと病院か接骨院に行ってこい」


 直人は、会場のスタッフからマイクを借りると、一応断りを入れた。


「俺と《高天原の玖》は退席する。会場は三時間貸切だから、後は適当に楽しんでてくれ。此処で帰られると食べ物とか飲み物とか勿体ないんで」


 絶対、後は自分と紅と、ついでに宗寿や後継者争いの噂話で楽しむのに決まっている思いながら、直人は紅の手を取った。


「行くぞ」

「うふふ、結婚式のお色直しで、中座するのってこんな感じなのかな?」

「再入場はしないからな」


 背後から、宗寿が何か喚いているのが聞こえたが、面倒くさいので直人は雑音としてスルーした。のに、


 軽く振り返った紅は、ゾクリとするほどの艶麗な流し目で言い放った。


「……ああ、宗寿?私を一番目に天女と言ってくれた素敵な男なら、今私の隣にいるわ」






 振袖から着替えた紅が、直人の姿を見付けると、ぱぁっと輝くような笑顔になってぱたぱたと駆け寄ってきた。


「直くんお待たせっ!」


 そして、期待にワクワクした表情で直人を見上げる。


「足、辛くないか?」

「もーっ!直くん優しくって僕ときめいちゃうけど、そこじゃないんだよ!」


 紅の装いは、15歳という年齢相応に可愛らしい、ペールピンクのワンピースだ。首周りには花飾りがあしらわれ、ラウンドトゥの水色のパンプスも、バックルにお揃いの花飾りが付いている。

 もう自宅に帰るだけなのに、しっかりおしゃれしたらしい。


 実は、《数持ち》の小遣いは、15歳から女子の方が高額になる。男と違い、女はいちいち飾り立てるのが当然だからだ。

 男には必須でない宝石類も必要で、紅の白い首筋に馴染むホワイトパールのネックレスも一級品なのだろう。


「……よく似合ってる」

「えへへ、嬉しい!スーツの直くんも格好いいよ!」


 と言って、紅は直人の腕に飛び付いてきた。このまま腕を組んで歩くつもりだろうか?……このままだ。誰が見ても、イチャついているカップルなのだが。

 紅がにこにことご機嫌なので、直人はそのまま歩くことにした。


「べに」

「なぁに?」

「わざと宗寿を煽っただろ」

「もち、当然だよ、そんなの」


 紅は隠すつもりもないらしい。


「今日の僕、これっぽっちも露出しないでお洒落したのに、襦袢の内側まで妄想してそうなえろえろしい目で見られたら腹も立つよ」


 紅は可愛らしくむくれているが、直人はその言葉の背景も重さも知っている。

 紅を守るのなら、儚く崩れてしまわないように、支えてやらなければならないことも。


「無礼には、ちゃんと無礼で返してあげないとね」

「俺が言うんじゃ説得力無いけど、いちいち同じ土俵に上がったら、外野からは同レベルに見えるぞ」

「うん、だから直くんを見習って、ちゃんと見下してあげたよ」

「そうじゃない」


 紅の小さな頭部が、ぽすんと直人の腕にもたれてきた。


「……直くん、覚えておいて?呪いは一方通行じゃ済まないの。悪意なんていうのは、ずぶの素人でも使える、簡単だけど歴とした呪いなんだからさ。人を呪わば穴二つって言うでしょ?僕は土俵に上がるんじゃなくて、相手が勝手に掘った穴に親切に突き落としてあげるだけだよ」


 くすくすと、紅は笑う。

 軽やかに。そして呪わしく。


「それが、お前のの流儀なのはわかった。でも、むやみに敵を増やすな。お前は何もしなくても目立つ」

「お前じゃなくてべにだよ。直くんも目立って敵作ってるでしょ?直くんが宗寿くんより強いことを公衆の面前で証明しちゃって、目立つ僕のボディーガード宣言もしちゃったんだもん」


 直人は、今更やっちまった感に黙った。

 高天原家の中では、無能ではないがのらりくらりとして権力には関与しない無難なポジション、というのが直人の《設定》だったのだが。


 紅と出会ってから、調子が狂うことばかりだ。

 今まで積み上げてきた自分のイメージが、崩れ去るのは一瞬だったと思うと、溜め息を吐きたくもなってくる。


「直くん、ちょっとは嬉しそうにしてくれてもいいのに、つまんない」

「何のことだよ」

「素敵な男なら、今僕の隣にいるんだよ」

「……どうも」


 二度目の溜め息は、諦めた。

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