第27話 告白(二)

 (あれ…?)


 紅は、ぼんやりと呟いた。

 でも、その呟きは、声にはならない。


 今見ている世界は、誰かの夢の中だからだ。

 久しぶりだ。自分以外の人間の夢に入り込んでしまうのは。





「貴女は…誰ですか」


 青年は、思わずそう尋ねた。

 こんな雨の日に、母の実家の墓を訪れるのは、自分だけだと思っていたから。


「…失礼しました」


 青年は、きっと今、自分の頬は少年のように赤いのだろうと思った。

 こんな風に、あからさまに見蕩れてしまったのは初めてだったから。


「僕の名は、---------です。高天原周子の息子で、永人の同母弟です」


 おかしな名乗り方だと思われただろうか。

 青年が生まれた家は、戸籍に囚われない一夫多妻の一族だった。だから、母親が正妻か側室か、同じ父の血を引いていても同母兄弟か異母兄弟なのかは、重要な区別だった。


 そして、青年の視線の先には、こよなく美しい女が、雨に濡れるままに立っていた。

 腰まで届く黒髪。白い肌。口元のほくろが赤い唇に色香を添え、しかし彼女は奇跡のように清らかだった。


 その赤い唇が、言葉を紡いだ。

「私は…、-------という者です」


 名乗った声は、青年の名前と同様に雨音に掻き消されて、紅の耳には届かなかった。

 でも、次の言葉は、静かな声なのにくっきりと浮かび上がるように聞こえた。


「私が、永人さんを殺しました」


 青年は、立ち尽くした。

 生前に、自殺する前日に、兄が言っていた『天女のように美しくて、でも決して結ばれることは許されないひと』は、きっと彼女のことだと思ったのに。


「貴女は…兄を愛していたのではないのですか?」

「…………」


 世にも美しい女は、何も言わなかった。

 でも、違うと明言しないのなら、きっと――――


「永人さんが、言っていたわ。繊細なお母様と…体が弱い弟を、置いていくことだけが心残りだって」


 その母親は、兄は自殺ではない、他殺なのだと信じていた。

 証拠が出ない《犯人》を憎み、恨み、呪い、それ以上に悲嘆に暮れた。食べ物も喉を通らず痩せ細り、ひっそりと散った。


 残されたもうひとりの息子の為には、強く生きようとはしてくれなかった、弱く憐れな母親だった。


「母は、ずいぶん前に亡くなりました。兄と同じ墓に入りたいという遺言通り、そこに眠っています」


 母は、高天原家の後継争いの策謀に巻き込まれた長男を、高天原家の墓には入れたくないと言った。

 夫であり青年の父でもある先代の当主は、正妻の頼みを聞き入れた。


「僕の体が弱かったのは、子供の頃の話です。今は、同じ年頃の子供達と同じように活発に動けないことを、寂しいと思うことも嘆かれることもありません。寝込むことも殆ど無くなって、実家から離れて静かに暮らしています」

「…貴方は、永人さんに似ているのね」


 美しい女は、微かに笑んだ。

 憂いと共に、慈愛さえ感じるその女が、兄を殺したとはどうしても思えなかった。


「そう言ってくれたのは、貴女が初めてです。…兄は優秀で、優しい人で、たくさんの人に必要とされて、愛された人でしたから」


 自慢の兄だった。体が弱い子供だった青年には、自慢する友達もいなかったのだけれども。


「見かけも…違いますから」

「そうかしら。…貴方の優しい面差しは、永人さんを思い出すわ」


 美しい女が、青年の方へ歩を進め、近付いてきた。

――――違う、ただ、此処から去る為に、通り過ぎた。


「待ってください!」


 こんなに、必死に誰かを呼び止めたことがあっただろうか。

 青年は、怯んだ。自分は貧相な男だと思っていたのに、掴んだ女の手が、壊れてしまいそうにか細かったから。


 それでも、言わずにはいられなかった。


「兄に似ているのなら…、僕を、兄の身代わりにして下さい」


 出会ったばかりだ。

 でも、一瞬で知ってしまう心もあるのだと知った青年の、不器用な恋の告白だった。







(直くん…)


 その呟きもまた、声にはならなかった。

 まだ、意識が夢うつつを彷徨っていたから。


 でも、浴衣の生地越しに伝わる直人の体温が、これは現実なのだと教えてくれる。

 いつもは、布団を並べて敷いて別々に眠りに就くのに、夜中に目が覚める癖がある紅は、不安になって直人のぬくもりを求めてしまう。


 ぎゅっと抱き付いていると不安が和らいできて、もう一度安らかな眠りに戻っていけるから。


 でも、障子越しの昼の光に目を細めた時、紅は自分が直人を抱き枕にするのではなく、直人の腕にそっと抱き寄せられていた。


 直人は、まだ眠っている。

 直人がこんなにも隙を作ってしまうのは、紅が直人の鋭い感覚を発揮出来なくしてしまったからだ。


 紅の――《人殺しの弥栄》一族の特性は、自分と他人の境界線を曖昧にしてしまうことだ。

 だから、特に男達は、弥栄の女を自分の女だと思い込み、甘い蜜を吸い尽くし女を喰らい尽くしたい衝動に駆られ、人間が人間である証の理性や倫理観を破壊して、餓えた獣となり果てる。


 でも、直人は違った。

 幼い頃に放置されたことによる感情の欠落、その上に鍛え上げられた精神が存在する直人は、紅を自分の内側に入り込ませてしまっても、人間性を崩壊させることなく、ただ紅を優しく大切に扱うことを覚えてゆくばかりだった。


 あの後、狂った営みの気配が強く残る部屋から連れ出して、お風呂に入れてくれた。

 紅の体に纏わり付く醜い雄のにおいを綺麗に洗い流してくれて、直人自身は浴衣をずぶ濡れにしながら、一緒に浴槽に入って紅の体をそっと支えてくれていた。


 結局、ふたりとも裸になるしかなくて、直人は自分よりも先に紅の体を拭いてくれて、新しい浴衣を着せてくれた。

 紅は、素肌のままでいても、そのまま結ばれても良かったのに。


(直くん…僕を抱いてくれなかったなあ…)


 優しい残酷。でも、


(そういうところも、大好きだよ。…直くん)


 紅は、少し切ない、でもあたたかく幸福な気持ちで、再び目を閉じた。

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