第26話 告白(一)
直人は、静かに押し入れの戸を開けた。
夜明けの、まだ薄暗い部屋であっても、暗闇に慣れた直人の目には、はっきりと見えた。
力無く横たわるたおやかな白い体は、踏みにじられてもなお美しかった。
この少女にとって、天女に例えられるほどの幻想的な美しさは、罰か呪いであるかのように。
「よかった…ちゃんと、お呪いが効いてくれて」
目が合った時、紅の最初のひとことは、直人の無事に安堵することばだった。
紅は、自分がどんな目に遭っても、直人だけは守りたかったのだ。
紅は、儚く笑った。
「お父さんに見付かったら、直くんかお父さんか、どちらかが死ななきゃいけなかったよね…?」
紅は、知っていたのだ。
直人が、人間を殺せることを。父親もまた、息子を殺すことに何も躊躇わないということを。
「俺は死なない」
直人は、やっと、口を開くことが出来た。
「死ぬのはあいつだ。俺の方が強い」
「……物騒だね。そんなところも、…すきだよ、直くん」
差し伸べられた、細い両腕。
直人は紅の傍に片膝を付くと、その手を引っ張るのではなく、紅の肩を抱いてそっと起こした。
「優しいなぁ…直くんは。ウッカリ泣きそうになっちゃうよ」
「泣けばいい。……泣いても、いいんだ」
泣いて縋ってくれたなら、強く抱き締めることが出来るのに。
「泣かないよ。…だって、泣いたら、私が壊れちゃうもの」
紅は、笑った。
「聞いてたでしょ?僕は、無理矢理でも巧い男なら悦ぶんだよ。お父さんだって2回目だし、何なら最初に僕を喰らった奴はお父さんじゃないしさ。…小学生くらいの時かな。ふふ、僕は小学校なんて通ってないけど」
笑う。何でもないことのように。
「《僕の一族》はね、みんなこんな感じなんだよ。蜜の匂いが強すぎる毒花には、男がむやみに寄って来るの。…ただでさえそうなのに、《僕達》は、自分と他人の境界線を曖昧にしてしまうの。最悪、まともな男でも《僕達》の領域に入ると狂ってしまって、獣みたいに喰らいに来るの」
(僕の体を見て、欠片も欲情しなかったのは君が初めてだよ)
平凡に育った平凡な幸福を生きてきた少女なら、そんな事は言わないのだと、何故気付いてやれなかった?
紅にとって、この悲劇は何度も体験した事のひとつに過ぎない。幼い頃から甘い芳香を持ち、何度も踏みにじられてきたのだ。
紅は、自分を守って欲しいと直人に《依頼》した。
何から守るのか。その対象は『僕を喰らいたがる男たち全部』であり、『直人以外の全ての男』だった。
《依頼》の対価は、『私の全て』だった。紅は、依頼の対価に払う財産を持っていなかったから。
それでいて、紅は、自身の一番にして唯一の価値は、何度踏みにじられてもなお美しく咲き続けた、その白くたおやかな体だと思い込んでいるのだから。
紅は、直人が望めば、何の抵抗も無く殺されただろう。
《大好きな直くん》に、その悲しく苦しい命を断ち切って貰えるのなら、本望なのだから。
「…ねえ、直くん。僕を抱いてよ」
少女らしからぬ、艶のある笑みだった。
「僕はね、極上の娼婦なの。僕を抱いてくれたら、生きたまま天国に連れてってあげるよ?少々汚れていた所で、僕は天女の娘なんだもの」
「べに」
直人は言った。
「娼婦なんかじゃない。汚くなんかない」
「…………」
「俺に、本当の自分を見て欲しかったんだろ。俺が見たのは…聞いたのは、一方的に暴力を振るわれて、母親ごと貶められて、傷付いているべにだ。それなのに、無理をして笑っているべにだ」
何度も何度も引き裂かれててきた、その心に、届いて欲しい。
「べには、何も悪くない。べには、綺麗なままだよ」
「…………」
紅は、その瞳に直人の姿を映しながら、茫然としていた。
いくらかの沈黙の後、紅は、その赤い唇を開いた。
「……綺麗なら、抱いてくれたって、いいじゃない」
「俺は、あの下衆野郎と、同じことはしたくない」
直人は、苦渋を絞り出すような自分の声を、初めて聞いた。
今、きっと自分は、いつもの無表情を貫けていない。一体、どんな顔をして紅を見ているのだろう?
「直くんにとって…僕を抱くのは、お父さんが僕にしたことと、同じことなの?」
違うと、どうしてすぐに言ってやれなかった?
それでも、せめて、
「お父さんなんて、言うな!…言わなくたっていいんだ!!あんな男を、父親だなんて思わなくていいんだ!!」
こんな風に声を荒げる自分を、直人は知らなかった。
「……じゃあ、なんて呼べばいいの?」
その問いは、声は、ひどくあどけなかった。
紅は、もう笑っていなかった。必死の抵抗だった。
「お父さんって呼ばないと、僕はあのひとの《女》になってしまうんだ!あのひとの女にされるよりも、これっぽっちも愛されていない、大切にして貰えない、惨めで可哀想な娘でいた方が、僕は傷付かずに済むんだ!!」
「…ああ、そうだ。あいつは、べにを愛してなんかいない。べにを大切にしてなんかいない。べにの母親と重ねて、身代わりにして、べにを搾取しているんだ」
高天原識は、歓喜していた。三十年も捜していた女が、やっと自分のものになったと。欲望が満たされるまで、飽きる事なく紅を喰らい続けた。
(あの男は、人間ではないわ)
だから、淑子は紅を直人の元に逃がした。
「俺は、紅を可哀想だと思ってる。……大切に、したい」
「……。初めて会った時から、直くんはそうだったね。僕が可哀想だから、憐れんで、これからも大事にしてくれるの?」
「違う」
許されるのかどうか、わからない。
でも、直人はそっと、紅のなよやかな体を抱き寄せた。
「……俺は、本当に不義の子だったらいいのにって、思った。実の子だっていうのなら、俺は自分の体から、血の半分を抜き取りたい」
考えないようにしていた。
目を背けていた。
こんな言い方は、卑怯だ。
「……俺は、べにの兄貴じゃなければいいのにって、……思ってる」
こうして腕の中に閉じ込めていれば、何でも見透かしてしまうような、黒曜石の瞳と見つめ合わずに済む。
でも、腕の中で、紅は言った。
「…ごめんね。僕は、直くんのこと、お兄ちゃんって思ったこと、無いんだよ」
痛々しい涙声が、聞こえた。
「好きだよ、直くん。一度も本気にしてもらえなかったけど、…僕は、妹じゃない気持ちで、直くんのこと…大好きだよ」
「……。俺も…」
怖じ気づいて、先に言わせてしまった。でも、まだ間に合う。
「俺も、べにが、好きだ」
罪でもいい。――――罪じゃない。
紅の心を、癒してやれるのなら、墨でも白いと言ってやる。
「…もう、俺を試すな。紅が、本当の笑顔になれるのなら、俺は何でも叶えてやるから。…頼む」
柔らかな頬に触れれば、涙で濡れていた。
「泣いてもいいよ。べには、壊れたりなんかしない。…信じろ」
そっと、唇を重ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます