第24話 身代わり(二)

第24話 身代わり(二)




「……こうだったかな?」

 紅は長い睫毛をそっと伏せて、ふたりが出会った日を思い出し、そして再び目を開いた。


「僕は、玄冬に《依頼》の取り消しをお願いしたい。少なくとも今日は、僕を守らないで」


 直人は答えた。

「玄冬は、《依頼》の取り消しを承諾する。少なくとも今日は、お前を守らない」


 守らない。そのことばを無機的に発することが、どうしてこんなにも苦しいのか、直人にはわからなかった。


 でも、紅が「少なくとも今日は」と付け加えたことに、僅かな希望を繋ぎたかった。――――どんな希望を?


「もう夜も遅いもの。…これから始まるのは、おまじないの時間だよ」


 少し待っていて、と言って、紅は直人の部屋を出た。

 紅にも自室があるのだと、当たり前の事を思い出した。


 紅は、出会って二日目の夜には、直人の部屋に勝手に自分の布団を持ち込んでいたのだし、その布団で寝たはずが朝には何故か直人の布団に潜り込んでいて、直人を抱き枕にしていた。


 紅と共に眠り、紅と共に目を覚ます。

 学校でも傍にいて、お互いが半身のように暮らす日々。

 直人は、紅が去る後ろ姿を、殆ど見た事はなかったのだと気付いた。


「なーおくんっ!これにお名前書いて!」

「…は?」


 紅が、あまりにもいつも通りの元気さでぱたぱたと戻って来たので、直人は今まで夢でも見ていたような気分になった。


 だが、差し出されたものを見て、沈黙した。


 和紙で作られた人型と、筆ペン。

 その人型を、形代かたしろという。


 一般人でも見たことがある者は多いだろう。

 神社で行われる大祓の時に、このような人型に名前と年齢を書き焚き上げて、一年または半年の厄を祓う。


「…年齢は?」

「名前だけでいいよ。お祓いとは違うから」

「筆ペンでいいのか?」

「本格的なのは、ちゃんと墨を擦って筆で書くし、もっと手順を踏むけどね。長くても一晩っていう程度なら、簡易版で大丈夫だよ」


 やはり、呪術的なものだ。

 忍が捜査を打ち切りたいと言ったように、紅は《人殺しの弥栄いやさか》一族の出身なのだろうか。


「直くんの、血をちょうだい。ほんの少しでいい。…ここに」


 紅は裁縫で使う平凡な針を差し出し、直人は自分の指をプツリと刺して、一滴の血をポタリと人型の頭部に落とした。


 紅がその道に通じた人物で、直人に害意を持っているのであれば、人型に自ら名を書くのは自殺行為ですらあるのだと、直人はわかっていた。


「ありがと。これでこの形代は、直くんによ」


 にこりと笑ったのに、それは少し困ったような微笑に変わった。


「…直くんって、まだ僕を信じていてくれるんだね」

「べにが、ソイツをどう使うのかはわからない。でも、俺を害する目的で使うのなら、べにが悲しみながらそうする人間だってことは、…知ってる」


 紅はの瞳が、驚きに見開かれた。

 そして、やはり微笑むのだった。


「ひふみよいむなやここのたり ふるべ ゆらゆらと ふるべ …汝はからの人型にあらず。命よれ。高天原直人の血を持ち成り代わり給え」


 紅は密やかに唱えると、直人の枕の上にふわりと人型を置いた。


「こっちに来て、


 直人は、不思議な思いで白い小さな手を取った。

 紅の身長は、学年の終わりに生まれたにしては、特に低いということはない。だからきっと、この手も殊更に小さいわけではないのだろう。


 でも、厳しい鍛錬を積みゴツゴツとした直人の手とは全く違う、そっと扱わなければ壊れてしまいそうな気がする、そんな儚いぬくもりに思えた。


 着いたそこは紅の部屋で、直人が足を踏み入れたのは、紅が此処で暮らし始めてから初めての事だった。


「ヒトガタさん、ここに隠れていて」


 部屋には予備の布団が敷いてあり、直人の体でも潜り込める空間が出来ていた。


「……来る」


 紅が、何かの気配を感じたように、障子が閉じられた窓の方を見た。

 そして、唇の辺りに人差し指を立てて、「しーっ」と言った


「絶対に、声を出さないで。絶対に、物音を立てないで。僕が、出て来ていいよって言うまで、絶対に出てきてはダメ。絶対に、僕を助けないで。お願い…お願いだよ」


 何度も繰り返された『絶対』と、切なる『お願い』。

 その言葉を最後に、押し入れの戸は静かに閉められ、暗闇が訪れた。


 紅もまた、信じていたのだ。

《依頼》ではなくても、直人は紅を守るように動く、動いてしまう人間だということを。



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