第23話 身代わり(一)

 球技大会で走り回って、友人たちと大いにはしゃいで、紅は疲れたのだろう。

 風呂に入って夕食を食べたあとは、直人の部屋ですやすやと寝入ってしまい、中途半端な時間に目を覚ました。


「…あれ……?僕、どーしてお布団にいるの?」

「畳の上に転がっていたから運んだ」


 素っ気なく聞こえる直人の声に、紅はにこりと笑った。


「今日、楽しかったねえ」


 紅がその科白を言うのは、今日何度目だろうか。

 帰り道も、夕食の時も、紅は何度も繰り返していた。


「直くんが、すっごく格好良くて、僕は、普通の女の子みたいに楽しくって……いい思い出になるんだろうな」


 初めて聞く、もう思い出にしているような口調が、引っ掛かった。


「来年もあるだろ。お前には、楽しい行事なんてこれからいくらでもある」

「直くんには、楽しくないの?」

「わからない」


 本当は、考えないようにしているだけなのかもしれない。でも、


「俺が『普通』じゃないから、高天原淑子は俺にべにを預けた。…それは、意味がわからなくても、聞き分けて欲しい」

「だから、なおくんは僕と絶妙な距離感を取るんだね。…優しすぎるよ。僕はお母さんを殺した。『普通』の女の子の訳が無いのに」


 紅は、身を起こして時計を見た。


「…もうちょっとで、日付が変わるね」

「もう寝ろ」

「無理だよ。変な時間に寝ちゃったから、眠くないもん」

「だったら、好きに夜更かししてろ。明日はどうせ祝日で休みだ」

「ふふっ、直くんは中学の頃は平日もお休みで、謎のサボリ魔だったらしいね。きっと、みんなが思ってるほど昼寝じゃないと思うけど」


 その謎のサボリは、大抵は《仕事》絡みだ。ただ、深夜の仕事の時の後は、昼を寝る時間にして調整していた。

 紅は、それを知ってか知らずか、正解に近いことを言う。


 今は、紅の傍にいることが《仕事》だ。

 ひとりの少女を守る《依頼》を受けて、その少女の傍に在る為に規則正しい生活をして、毎日学校にいくという、普通の高校生に擬態したような生活を送ることになるとは、1ヶ月前の直人は思ってもいなかった。


「シンデレラなら、もう少しで魔法が解けちゃうね」


 紅の声は明るくて、内容と乖離している。そういうことは、今まで何度もあった。

 直人は、紅の心の傷と、その痛みに対する麻痺を察知しながら、触れたことがなかった。


 殺人を迷ったことがない人間が、慰めの言葉を口にするのを迷う日が来るとも、思ってもいなかった。


「……べにの母親は、べにが『普通』の暮らしをするようになっても困ることが無いように、勉強だけはさせてくれてたんだろ。どういう遺言かは知らないけど、母親はべにを恨んでるわけでも憎んでるわけでもないんだろ。……だったら、べにが背負う罪は、何も無い」

「……直くんは、優しいね」


 優しいと、紅は言う。

 優しい人間に、殺人武闘団の頭領は、務まらない。

 直人は、師匠だった功が《ひとでなし》だったのか、わからない。


 でも、功は直人には厳しくも優しかった。

 少なくとも、直人はそう信じた。


 母親から見放された憐れなちっぽけな子供を、生きた殺人兵器に育て上げるのは、本当に優しい人間には出来ないと、解っていても。


「俺は、怖い奴だって言っただろ。でも、紅が俺をどんな奴だと思うかは、紅が決めればいい」

「ふふっ、直くん。そういうとこだよ」


 紅は、ゆっくりと身を起こした。

 そして、直人の首に細腕を絡めた。


 美しい少女の黒い瞳と見つめ合い、少しずつ近付いて来る姿が視界に像を結ばなくなっても、直人は身動きせずにいた。

 …ちゅ、と小さく湿った音がした。直人の頬に。


「僕は我が侭だけど、唇は、奪えないよ。…あんまり、罪深くて」

 直人の耳元で囁いて、紅はそっと直人から離れた。


「……もう、魔法の時間はおしまい」

 日付が変わっていた。


「直くん、もう、《僕》を守らないで」

「…………」


 直人は、言葉を失った。虚を突かれた。

 もし、紅が手練れの殺し屋だったなら、今の一瞬で殺られていた。


「《依頼》の取り消しか?」

「うん。取り消し。そうしないと、直くんは本当の僕を見ることが出来ないから」


 泣きたいのなら、泣けばいい。

 なのに、どうして泣きそうな顔で笑うのだろう?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る