第11話 正妻――淑子
直人の着物は黒の紋付袴なので、最低限採寸だけで足りる。しかし、紅が着る未婚女性の第一礼装・振袖は反物を選ぶ所から始めなければならない。組み合わせる小物が多い装いだから、直人が紅を連れて来るように。
――――というのが、鮎子が預かった言伝だった。
誰もが《高天原の末》が最後だと思っていたのに、そのひとつ上の《数持ち》として《玖》の娘をお披露目するという異常事態。
高天原家の娘は跡を継ぐ権利は無いが、いずれ何処かの良家に嫁いで高天原家の勢力を広げる存在だ。
新たに《数持ち》に加わる娘の豪華絢爛な装いの為に、反物とその他小物が山ほど持ち込まれているのだろう。
「御台様。直人様と紅様がいらっしゃいました」
「通しなさい」
侍女が襖を開けると、何となく気後れしている様子の紅の手を引いて、直人は中に入った。
「座りなさい」
「座っていいってよ」
紅は、用意されていた座布団に、おとなしく座った。そして
「俺の礼装はいらない。背丈もたいして違わないし、兄さんに借りる。いくつか持ってるだろ」
高天原識の息子達は、長身が多い。当主自身が190cmほどの堂々たる体躯で、線が細い継人でも180cm近くある。
栄養不足でちっぽけだった五歳の子供も、随分背が伸びた。きっと、一年経たずに継人を追い越すのだろう。
ふう、と淑子は軽く溜め息をついた。
「では…紅。呉服屋が来ているから、着物を見て来なさい。…安心していいわ。侍女に案内させるし、護衛もいるから」
「……。直くんと一緒がいい」
直人は、違和感を覚えた。
今までの紅の口ぶりでは《淑子さん》には好感を持っているようだったのに、今は俯いて目線も合わせず、微かな抵抗を感じる。
直人の生い立ちを聞いてしまったからなのか。それ以外に何か別の事情があるのか。
「わかった。おい、そこの侍女。案内しろ」
「直人。お前には話があります」
「俺には無い」
「……紅をお前に任せたこと、何も訊いてこないのね」
直人が13歳になる直前に戻って来て、盛大な決裂をしてから三年。
不本意にも三年振りの再会だが、あの時に身の程を教えてやったというのに、まだこの女は女王然としているのか。
直人は言った。
「勘違いするな。高天原の、たかが正妻如きが」
淑子の柳眉が、ピクリと神経質に動いた。
まずはあまりのことに驚き、次に我に返って怒りを感じて、だがそれを隠そうと平静を装う一連の様子を、直人は冷ややかに見下ろしていた。
そして、さっきは何故かタラシと言われたと思いながら、直人は紅の髪を撫でて言った。
「悪い。先に行っててくれ。《御台様》がわざわざ護衛がいるとまで宣伝して安全保障してくれたんだから、嘘じゃないだろうよ。…大丈夫だ。俺もすぐに行く」
「うん…わかった」
案外、紅は素直に言って、…ぽふっと、直人に抱き付いてきた。
「何だよ」
「えへへ。直くんを充電してるんだよ!」
「すぐに行く」
「知ってるよ!」
紅は笑って、長い黒髪を翻して侍女の後を付いていった。
「…ずいぶん懐いているのね」
「要件は?」
淑子は、また小さく溜め息をついた。
「不躾だこと」
「躾ける親もいなかったんで」
何故、責めるような目で睨むのか解らない。興味もない。
「話はそれだけか?俺はもう行く」
「成人の儀の事よ」
直人は、興味はないが一応足を止めた。
「それがどうかしたのか?」
「意味は知っているでしょう。お前は、これから後継者候補として名を連ねます」
「俺にはどうでもいい名前なんざ、勝手に連ねてろよ。どうせ茶番か座興だろ。お前は今まで通り、継人を当主にするようにあれこれ企んでいればいい」
「……今回の事は、私の企みではないわ」
そのひと言には、興味がある。聞いておこうか。
「それが本当だとして、誰が何を企んだって吹き込みたいんだ?」
「目的は知りません。あの男の考えることなど、誰もわからないのだから」
上流階級の政略結婚で、結婚当初から夫婦仲は冷凍庫だというのは知っていたが、愛はなくても我が子の前で夫をあの男呼わばりか。
「兄さんの前でも、あの男つってんのか?」
「……余計な事よ」
「大人げねえ」
継人は、父親を悪し様に言われて傷付いたのだろうか。
「当主なんて、俺は面識も無い。名ばかりの正妻が子供を産んだからって、俺でも継人でも、顔を見に来るような奴じゃないだろ」
また、淑子の顔が険しくなった。お互い顔を合わせれば不快にしかならないとわかっていながら、何故直人を呼び止めたのだろうか。
放置して分家の男に押し付けた《息子》が、今更自分を労ってくれるとでも思っているのだろうか。
「あの男は、人間ではないわ。茶番だろうと座興であろうと、お前はあの男に目を付けられた。気を付けなさい」
「…………」
意外だった。これは、珍しく常識的な忠告なのだろうか?尤も、気を付けろと言われた所で、初対面の当主相手に何をどう気を付けるのかわからないが。
「何処に行くの」
「話は終わりだろ。紅の所に行く。…ああ、俺も忠告してやるよ」
直人は、高天原家の女たちの頂点に君臨する女を見据えた。
「俺は、お前の命令で紅を置いてやってる訳じゃない。紅が俺に《依頼》して、俺がその《依頼》を受けた。それだけだ」
「……そう」
淑子は、静かに《息子》を見た。
「お前も、誰かを守ることを覚えなさい」
(お前は、誰かを守るということを覚えろ)
直人は、表情に出さないまま、驚いた。
亡き師匠の口癖と同じ言葉を、母とも思えない女の口から聞くとは。偶然なのか?それとも――――
直人は、思わず口にしていた。
「どの口で?」
淑子が睨んで、直人はやっちまったと思った。
喧嘩すら面倒臭いと避けていた相手と、案外キッチリ刃を交えてしまった。
直人は背を向け、呟いた。
「まだまだ若いな、俺」
忘れていたが16歳だ。仕方が無い。
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