第2章 呪いの胎動
第10話 嵐の前
「直人様、失礼致します」
「何だ」
襖越しに、高天原鮎子の声が聞こえた。
「御台様から、言伝を承っております」
「何も聞かなかったことにしろ」
「……………………………」
長い沈黙に、紅が口を挟んだ。
「直くんが淑子さんを嫌いなのは知ってるけど、これは鮎子さんが可哀想だよ」
広い和室をぱたぱたと走って、紅が襖を開けた。…普通だな、と直人が思った。
――――紅の動作には、気配を隠すような技術は感じられない。『技術を巧みに隠す技術』も感じない。
「直くん、耳塞いでて。僕が代わりに聞いておくから」
「やめろ。どうせ高天原家関連の厄介事だ。聞けばお前も巻き込まれる」
「お前じゃなくてべにだよ」
「二人称くらい使わせろ」
「じゃあ、『君』がいいな」
直人は、脳内でお前を君に置き換えてみた。
『やめろ。(略)聞けば君も巻き込まれる』
二人称を替えただけなのに、凄まじく気障に聞こえるのは何故だ。
「却下。俺のキャラが崩れる」
「えー?絶対すてきなのにー」
「頼まなくても、そのうち継人兄さん辺りが素敵な感じに言ってくれるだろうよ」
つれないなあ~と紅は言ったが、言うほどガッカリした訳でもなさそうで、ホッとした様子の鮎子に耳を貸している。
「無駄だっつーの。コソコソ話なんて俺には普通に聞こえてくるんだよ」
…とは言わなかった。
いちいち超人ぶるのは警戒される。隠し事も出来ない、暴かれてしまうという怖れを、紅に覚えさせたくはない。
「ねー、直くん」
襖を閉めて戻って来た紅が言った。
「直くんの、《成人の儀》のお披露目をするんだって!紋付袴を仕立てるのに採寸しなくちゃいけないから来て、って」
「……耳塞いでてって言ったのは誰だ」
「僕だけど、これって高天原ルールでは一人前の大人になっちゃうお祝いでしょ?お祝いだったら言った方がいいと思って」
直人は、軽く溜め息をついた。
「この機会に覚えとけ。こういうのを『高天原家の厄介事』っていうんだよ。この家で、俺がまともに祝われる理由は無い、ってこともな。《成人の儀》をする理由も無い。大方、御台様と御当主様がろくでもないことを企んでるんだろうよ」
紅はきょとんとしている。全く意味がわからないのだろう。…何処まで明かすか。
「高天原の《数持ち》については何か聞いているか?」
「うん。僕は《高天原の玖》で、九番目の子供っていう意味なんだよね」
「正確には、正式に認められた子供だ。嫡子と庶子の扱いは全く違う。詳しいことは後で教えるけど、取り敢えず、べには『誰とも平等じゃない』ってことは覚えておけ」
「平等じゃない…?」
「そのうち解る」
そのうち、嫌でも突き付けられる事実だ。
「まず、俺の立場を明確にしておく。俺は高天原の漆。七番目だ。男に限れば五男。正妻に限っても次男。これだけでも、俺が次期当主の座には遠いって判るだろ」
「そっか。庶民の家でも、暗黙の了解で長男が跡継ぎだもんね。だから自由の身の次男くんは、女の人にとっては優良物件で大人気なんだけど」
だが、直人は自由の身にはなれない。101代目として玄冬の名を継承してしまった。
そして、同母兄の継人が当主になるなら、継人を守る《影》は、継人が躊躇おうとも直人が適任なのだから。
もしかしたら、始めからそうなるように仕組まれていたのかもしれない。
頭領になるとまでは思っていなかっただろうが、淑子は高天原家と縁が深い殺人武闘団に、直人を放り込んだ。
――――継人の代わりに闇を背負わせる為に。
「正妻の次男で、不義の子疑惑付き。五歳で師匠に引き取られるまで、この離れに放置されていた子供。俺がこの家に戻って来たのは三年前。今更本邸に住んでやるのも面倒で、この離れに住んでる。古めかしい家に生まれた割に、第一礼装の一着も持っていない。――それが、俺の地位だ」
お祝いだからと、嬉しそうだった紅の顔から、表情が消えた。そして、次の表情は、押し殺そうとした「痛ましい」「悲しい」という感情。
紅は、わかっているのだ。同情しても、憐れんでも、過去は何も変わらないと言うことを。
今目の前にいる直人が、変わらない過去の積み重ねの上に生きているという事を。
「…直くん」
「何だ?」
「大好きだよ」
「…………」
紅は、自分を偽ることは出来なかった。
何も変わらなくても、何の役に立たなくても、涙は溢れる。
その黒い瞳から、ぽろぽろと、柔らかな頬を伝って。
「ごめんなさい…。僕は、お母さんが、大好きだったから…。ふたりだけの家族で、ひとつの場所に長くいられなくて、お友達が出来なくても、お母さんがいてくれて、それだけでずっと嬉しくて、幸せだったから……。ごめんなさい…ごめんなさい。直くんが淑子さんを嫌いなこと、知ってたのに。さっきも、聞きたくないって…やめろって、直くんは、ちゃんと、嫌だって伝えてくれていたのに…!」
直人は、自分が戸惑っている、ことに戸惑った。
自分の身の上を明かせば、紅を悲しませることになる、それは想定内を超えて確実だと思っていたのに。
泣かれると、困る。
そんな、素朴で、不器用な少年に過ぎなかったのだと、思い知らされるのは想定外で。
「べに。謝らなくていい。今の俺は、不幸じゃない」
幸福だと、安心させる嘘のひとつも付けないから、子供のように泣きじゃくる紅の小さな頭部を、自分の肩に抱き寄せた。
紅の母親ならきっと、娘が泣いていればこうしたのかもしれないと、思いながら。
どのくらいの、時間が過ぎたのだろうか。直人が困って戸惑っていただけで、きっと思うほど長い時間ではなかったのだろう。
ふと、紅が直人の肩口から離れた。
「あは…、直くんのシャツ、びしょびしょにしちゃった。ごめんね」
「そのうち乾く」
「鼻水付いたよ」
「…………」
紅は、泣くのはやめてくれたけれども、まだしょんぼりした様子で言った。
「勝手に浮かれ過ぎちゃった。直くんの《成人の儀》と、僕が《高天原の玖》になったお披露目を一緒にやるからって聞いて……。僕、振袖って着たことがないし、直くんと一緒なら、エスコートしてもらえるのかなあって思ったから……」
「…………」
直人は、自分の成人の儀なんてすっぽかしても構わないが、紅が《高天原の玖》として表舞台に引き出されるのなら、話は別だ。
「了解」
「え?」
直人は、紅の頭をぽんぽんと撫でた。
「してやるよ。エスコートでも何でも」
「…………」
紅は、泣いた名残に目の縁も鼻の頭も赤いのに、頬までぱぁっと真っ赤に染まった。
「もーーー!直くんの天然タラシーーー!!絶対学校でモテてるんだ、わあああん!!」
「誑してねえしモテねえよ」
一体何なんだ、と直人は眉根を寄せた。小さい子供をあやすような慰め方しか出来なかったのに。
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