第9話 高天原の玖――紅(二)
「直くんがどうしてお留守にしていたのかは知らないけど、流石に明日には学校にいくでしょ?その間、僕はどう過ごせばいいのかなあ」
淑子が『此処が一番安全』と言ったのは、場所の問題ではない。『直人がいるから』だ。
「お前の制服が仕上がり次第だ。依頼者を置き去りにして学校なんてどうでもいい場所に行く護衛はいねえよ」
「ふぅん。僕は、学校って楽しみなんだけどなあ。行ったことないから」
「…………」
義務教育さえ受ける余裕のなかった、母と娘の逃避行か。
「その割には、ちゃんと日本語喋ってるな」
「短い間でも、塾に行ったり家庭教師のお姉さんに教えてもらったりはしてたんだよ。いつか『普通の生活』が出来るようになった時に困らないように、って」
普通の生活、という言葉に、紅の母親の祈るような願いが篭もっているような気がした。
普通、平凡、それは奇跡だということを、そうでない者だけが知っている。
「……普通の生活をしたけりゃ、この家とは縁を切れ。戸籍も切り離して、高校を出たらすぐに出て行け。その程度の手配はしてやる」
「僕、戸籍とか住民票とかないよ?」
「…は?不法滞在の外国人かよ」
紅は、首を振った。
「血筋と出生場所なら日本だよ。此処に来る前の僕の通称は、
「……。母親の戸籍は?」
「わかんない。でも、お母さん自身は八坂とは縁が切れた、って言ってたよ」
まるで、糸が切れた心細い凧のような親子だ。
だが、そうなるように徹底したのだ。――紅の母が、そうしたのだ。
日本で行方不明者が海外に比べて見付かりやすいのは、戸籍と住民票という制度があるからだ。
戸籍を探れば、親類縁者を全て洗い出せる。住民票で移動を追える。
だが、それが存在しないのに、高天原家当主・高天原識は『八坂紅』に辿り付いた。そして逃避行を終わらせ、紅を手に入れた。
執念。直人が感じたのは、そのひと言だった。
「お母さんから、言われていたの。名前を聞かれたら、『くれない』って答えなさいって。だから、お父さんだって名乗ったひとにも、そう教えてあげたの。…淑子さんにも。そういう《設定》だからね」
いたずらっ子のような口調と、明るく朗らかな笑顔は、話した内容とは酷くちぐはぐだった。
「でもね、直くんは僕のこと『べに』って呼んでね。お母さんと同じように。特別だよ?」
「…ああ、わかったよ、べに」
直人は、幼い子供にそうするように、寝起きで少し乱れている紅の髪を、ぽんぽんと軽く撫でてやった。
すると、どういう訳か、紅の頬がぱぁっと綺麗なばら色に染まった。
「そ…そそそ、そういうの、直くんの標準仕様!?」
「そういうの、って何だよ」
「こ、こう、自然な感じに、女の子に頭ぽんぽんしちゃったり!」
一体何を騒いでるのかわからん、と思いながら直人はもう一度、頭ぽんぽんしてみた。
「これがどうかしたのか?因みにしねーよ。俺、陰キャで男女共に友達ゼロだから」
「どうかするんだよ!直くんはね、とってもカッコイイんだよ!昨日の黒いロングコートだってはまりすぎるんだよ!また着て欲しいけど、他の女の子に見せたくない感じなんだよ!!そんな直くんに頭ぽんぽんして『守ってやるよ』なんて言われちゃったらね、女の子はドッキドキにときめいて、直くんを好きになっちゃうんだよ!!!」
「…………」
愛想の悪い陰キャはモテないという常識を、この非常識な美少女は知らないのだろうか。
そして、あのコートは仕事用の防弾仕様……と思ったが、取り敢えずそれは脇に置いて、直人は普通に心配になってきた。
紅は、男に頭ぽんぽんされたくらいでときめいて好きになってしまうような、惚れっぽく危なっかしい少女なのだろうか?
直人は一応兄かもしれない設定なので、好かれてもブラコン止まりだが、他の男にフラフラ付いていくようでは非常に守りにくい。
「ちょっと直くん!僕は、惚れっぽい女じゃないからね!?」
「まだ何も言ってねえよ」
「僕はね、基本男はうっすら嫌いなんだよ。どいつもこいつもすぐに僕を見てポーッとなるし、えろえろしい目で見るし!」
男なら、えろえろはともかくポーッとなるくらい許して欲しいと思うだろうが、いつも視線が纏わり付いてくる、それは紅にとって嫌悪と恐怖なのだろう。
「でもね、直くんだけは違うんだよ。僕のことを天女みたいって思ってくれて、…でも、直くんは天女の羽衣を盗む男じゃないんだ」
羽衣伝説には何通りかあるが、羽衣を奪われた天女が、天に帰れずに地上の男の妻となった昔話がある。
昔話は子供向けに誤魔化しているが、妻にされたという暴力だ。
天に帰りたかったのに、羽衣を奪った強欲な男に身を任せたかったはずがない。だから、隠された羽衣を見付けた天女は、遠い空へと帰ってしまう。
天女のような紅は、羽衣を盗む男を嫌い、信じない。
でも、直人だけは特別だと言う。
「僕、直人くんに決めたよ」
「何がだよ」
「僕の運命の人」
「…………」
直人は、呆気にとられた。よくよく、この少女は直人の予想と推測を超えてくる。
「お前、俺の妹だろ。一応」
「お前じゃなくて、べにだよ」
「はいはい…べに、初対面でブラコン発揮し過ぎ」
「ブラコンじゃないよ。愛だよ」
「…………」
愛だよ。と言い切っても恥ずかしくないキャラって本当にいたのか。
「直人くんのお父さんの高天原識っていう人は、独りぼっちになった僕の前に突然現れて、僕のお父さんだって言った。でも、生前のお母さんは、僕のお父さんが誰なのか、どうして一緒に暮らしていないのか、教えてくれなかったの。……ごめんね、って言って」
「…………」
「僕は、行く宛てもないから付いていく事にしたけど、本当に当主様が僕のお父さんかどうか、わからないの。遺伝子鑑定したら?って言ってみたけど、必要ないんだって。お母さんは、16年くらい前に当主様のところに来て、当主様の子供が欲しいって言ったんだって。誰の妻にもなれないって言って姿を消してしまったけど、その頃に出来た子供なら僕の誕生日がピッタリで、実の娘で間違いないって」
「……ずっと捜していて、やっと見付けたみたいな喜び方だな」
「そうだよ。『お父さん』が捜していた本命は、僕じゃないの」
紅は、黒い三日月のように目を細めて、赤い唇の両端を吊り上げた。
「16年、お母さんを捜していたみたい。……うふふ。間に合わなくてよかった。お母さんは、誰の妻にもならずに済んだもの」
紅が、その母を殺したから。
「当主様は、僕のお父さんかもしれない。…でも、違うかもしれない。だから、直くん。僕と直くんは、兄妹かも知れないけど、兄妹じゃないかもしれないんだよ」
細腕が、直人の首に絡みつき、仄かに甘く香る柔らかな体がぎゅっと抱き付いてきた。
確かに生きている少女の体温に、直人は怯んだ。また、この手で壊してしまうのではないか。
「本当はね、出会った瞬間に、きっとこの人だって思ったの。だから、直くんが守ってやるよって言ってくれた時、とってもドキドキしたの。結果的に守り損なっても構わない。直くんが、僕のことを守りたいって思ってくれるだけで、僕はこれからどんな辛いことがあっても生きていける。……そう思ったんだよ」
妹かもしれない、妹ではないかもしれない少女の声が、幸せそうに囁いた。
「今までは、お母さんが一番好きで、僕の世界の全部だった。でも、今は直くんのことが一番好きだよ。直くんが全部で、直くんだけでいい。…大好き。直くん」
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