第1話 社畜の日常
身を焦がすような灼熱の陽光が、行き交う人々の身体を容赦なく照りつける。湿度を含むむわっとした空気が、体にまとわりついた。
ダラダラと流れる汗を拭いながら、人混みをかき分けて進む。
「本日、7月7日の東京は、強烈な日差しと暖気の影響で、猛烈な暑さを記録しました。現在の気温は…」
ビルに映される大型ビジョンからは、猛暑を知らせるニュースが聞こえてくる。少しでも早く涼しいところに行きたいという気持ちとは裏腹に、暑さで疲れきった足はのろのろとしか進まない。
ようやく会社に着く頃には、ワイシャツがびっしょりと汗を吸っていた。玄関ホールに入った瞬間、冷たい空気に包まれる。汗で濡れた身体は、一瞬にして冷えていった。
エレベーターで5階に上り、閑散とした営業部の部屋を通り抜けながら、営業二課にある自分の席を目指す。
「ただ今戻りました!」
声を上げて戻ると、室内には課長しか残っていなかった。
相変わらず難しそうな顔をして、パソコンを睨みつけながら、一番奥の窓際に座っていた。部下が帰ってきたというのに、見向きもしないのはいつものことである。
その様子を横目で見ながら、真ん中にある自席に座って、パソコンの電源を入れる。
ーーまずは午前中の打ち合わせ資料をまとめて。それが終わったら、明日の打ち合わせ資料を作って。あと先月の清算が今日までだから、それもしないと。それから…
「山口くん。」
「は、はい!」
やるべきことを考えていたら、すぐ真横から声がした。
思わず立ち上がって返事をしながら顔を向けると、鋭い目つきでこちらを見つめる課長が立っていた。
「今日のさくらテックさんはどうだった?」
「はい、少し調整が必要ですけど、何とかまとまりそうです。」
「調整?」
「はい。金額面をもう少し相談したいとのことで…。また来週、打ち合わせに伺うことになりました。」
「何だと!?」
こちらの言葉に被せるように、課長は声を荒らげた。
「それじゃあ意味がないじゃないか!今は1件でも多く契約して、少しでも高く売らないとダメだと、いつも言ってるだろう!?」
「す、すみません。ですが、あちらの担当の方も…」
「言い訳は聞きたくない。いいか、もう1回行って、今日中に、今の金額のままで契約を取ってくるんだ!それまで帰ってくるな!」
「で、ですが、あちらの事情もありますし、それに、これから、やらないといけないことが…」
「向こうの事情を何とかするのが営業だ!一体、何年仕事やっているんだ!?やることだと?契約をとってくること以外に大事なことなんてない!早く行け!」
「は、はい!」
急いで荷物をまとめ、帰ってきたばかりの部屋をバタバタと出ていく。
今年の4月に異動してきた真淵課長は、叩き上げから出世争いを制して今の地位を築き上げた人で、ここ最近、成績が振るわない二課を立て直すべくやってきた。
どうやら今回の結果次第で、彼の今後の進退が決まるようで、「1日1件契約」と無茶苦茶な目標を掲げ、部下の尻を叩きまくっているのだ。
ああなったら聞く耳を持ってはくれないので、仕方なく出てきたものの…。はあ、とエレベーターの前で大きくため息をつく。
さくらテックさんにもう一度行ったところで迷惑をかけるだけだ。とはいえ、何の成果もないと、さっきの比ではない、怒号が飛んでくる。
ーーしょうがない。明日行こうと思ってた新規の会社さんに、挨拶でも行くか。
とぼとぼと1階の入り口まで歩みを進める。エレベータが来るのを待ちながら、ふと、これまでのことを思い返した。
去年までは良かったのだ。売り上げ目標こそあったものの、そこまで厳しくなかったし、入社して5年目というのもあって、ある程度のノウハウは掴んでいた。
結果も上々で、先輩たちとも良好な関係を築けていたし、後輩からも頼られて、順風満帆な社会人生活を謳歌していた。
その風向きが変わったのは、今年の1月に入ってからだ。
先輩の1人が育児休業に入り、それとタイミングを同じくして、課内で成績1位だった、もう1人の先輩が、急な転職で退職してしまったのだ。
好成績を誇っていた2人の穴は非常に大きかった。なのに営業二課の売り上げ目標はこれまでと変わらないという。しかも極み付きは、相応しい人材がいないとかで、人員の補充もないことだ。
つまり、これまでよりも少ない人数で、これまでと同じ目標を達成しなければならなくなったという訳である。
皆、いつも以上に取引先を回ったり、遅くまで残業したりして、何とか年度末の目標数値は達成できた。
しかしそんな矢先、あの課長がやってきたのだ。
ただでさえ無理やり回していたところに、到底、実現不可能な目標を突きつけられ、課内の雰囲気は目に見えて悪くなった。
課長に現状を訴えたところで、先ほどのように聞き入れてはくれない。
そのため、課内の社員全員で、課長の上の営業部長に直談判したのだが、「検討する」という言葉だけで、何ら改善はされなかった。
それどころか、部長に告げ口したということで、課長の理不尽な命令がさらに加速しただけであった。
もう皆んな、どこか諦めを感じながら、ただただ目標のために昼夜を問わず働いていた。
「なんでこんなに頑張ってんだろ、俺たち…。」
悲痛な呟きは、暑苦しい雑踏に押しつぶされて消えていった。
◇◇◇
あれから新規の会社を走り回り、やっと会社に戻ったのは、ちょうど定時を過ぎた頃だった。
細々とした事務仕事をしたり、打ち合わせ資料を作ったりしていると、結局今日も終電ギリギリになってしまった。
疲れた身体を引きずりながら、駅から自宅までの夜道を進む。
ーー疲れた…。暑い中を歩き回るのはさすがにきつすぎる!……一体、何のために仕事してるんだっけ?
平日は朝早くから夜遅くまで仕事をし、休日もこっそり出社しては、たまった事務仕事を片付ける。
運よく仕事が早く片付いても、何かをする気にも慣れず、ただ毎日の睡眠不足を解消すべく爆睡する日々である。
こんなに頑張ったって、課長に褒められることはないし、給料も上がらない。家に帰っても、ただ静寂が待つだけだ。
ふと上を見上げると、星も見えない都会の空が広がっていた。月明かりを探すも、今日は新月なのだろうか、ただ真っ暗な闇が空を染めている。
ーー月すら見えないなんてな…。
そう自嘲して、足を踏み出したその瞬間。
歩道を踏みしめるはずの右足が、スカッと地面を通り抜けた。
驚いて足元を見やると、黒く大きい穴が空いており、右足を吸い込んでいるではないか。
反対の足で踏みしめてみても、足はずるずると引き込まれていってしまう。
いきなりの事態に、パニックになりながら、ただ声を上げる。
「ど、どうなってんだよ!?だ、誰か!助けてくれ!」
そう叫ぶも、深夜の夜道には人影ひとつない。
なぜ、自分がこんな目にあわなければならないのか。
毎日必死に頑張っているのにこの仕打ち。もし神様というものがいるのであれば、一体どんな恨みがあってこんな真似をするのだろうか。
こんな事なら、さっさと仕事なんかやめて、好きなことでもすれば良かった!
混乱、怒り、後悔など、様々な感情が入り乱れる。助けを叫びつつも、もう体の半分近くが飲み込まれてしまった。
「助けてくれーーー!」
必死の叫びも虚しく、とうとう顔面まで闇に飲まれ、黒い穴の底に沈んでいった。
辺りには、ただ静寂が満ちるばかりである。
ヒューと強い風が吹いたかと思うと、先ほどまであった黒い穴は、いつの間にか無くなってしまっていた。
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