第10話 白猫の憂い

10.白猫の憂い


暁は衆議院議員金田康次郎の秘書として働いていた。彼は当選回数こそ、それほどに多くはないものの、地方で結党された革新政党の党首であり、地方の大都市の市長として、歯に絹着せぬ発言で地方政治のみならず現政権への批判などもメディアで繰り返して人気を博し、国政に進出した。国政選挙では、現職議員の地盤に刺客を立て、その年の選挙では大きな番狂わせが起こった。


暁は大学入学前、金田の事務所で選挙のボランティアとして参加した。金田には海外の高校を飛び級で卒業したと伝えてあり、複数言語を操る暁はたちまち金田に目をつけられて、秘書や通訳として金田をさまざまな場所に同行させるようになった。


金田はイングランドで政治学の修士号を取得したことになっていたが、実は金田の出身大学は北京の大学で修士課程在学中に大学院のプログラムでイングランドに留学してダブルディグリーを取得したのだった。


彼の英国の有名大学の修士課程を修了しているというイメージは彼の人気の一翼を担っており、中国の大学の出身であることは伏せられていた。


金田は、対米追従の既存政党を批判していたが、暁は中国共産党とのつながりを疑っていた。政権党である保守政党の中にも、対米追従を批判し、独立した強い国家としての日本を夢見る政治家は一定数存在した。金田の発言は彼らにも賛同を得ていたが、その内実はかなり中国にとって都合の良いものが多かった。


暁は徐々に金田の信頼を得ていったが、金田は用心深い人間で、重要な情報は自分と側近にしか知らせなかった。その頃まだ彼にとって暁はお飾りのようなものに過ぎなかった。


状況が変わってきたのは、暁が大学に進学し、金田に、日本は対米追従をやめ、アジアを牽引する国家として成長するために、日中韓の関係をより重んじるべきであり、そのために大学で国際政治学を学ぶことにしたのだと話した時だった。暁は、賢い上に、見た目も良く、いつも綺麗に切り揃えられてセットされた髪、そしてその立ち振る舞いは貴公子のようで、物腰も柔らかで、微笑みかければ誰しもが彼に好感を持った。そして、時々突然若さゆえの突拍子もない提案をすることもあったが、金田が指摘すると「勉強不足でした。」とはにかむのだった。この全て、その時々見られる「隙」でさえも、マダムが暁に教えた完全に計算されたものだとは誰も気付かなかった。金田は暁を可愛がった。未婚の金田は暁を後継者にしたいと目論んでいた。


マダムに大学に行きたいと言い出したのは暁だった。その理由はただ黎明に近付きたいだけだったが、金田の秘書として働くことで研究所の事件に関わった人間を炙り出すという暁の計画にはマダムも賛成だったし、そのために大学に行くことは都合が良かった。特殊な教育を受けてきたため、高校以前の学歴がなかった暁だったが、マダムの実家の財団とも関係が深かったその私立大学に暁を入学させることは簡単だった。


大学にいる時に暁は黎明の側に必ずいた。黎明が取る授業を取り、黎明の行動も趣味嗜好も友人関係も全て把握した。黎明は暁を拒まなかった。暁は黎明に触れるほど近くにいることも多かった。授業のない時間帯には一緒に課題をやったり、芝生の上で寝そべって一緒に本を読んだりすることもあった。


口数がそれほど多くない2人にとって、一番のコミュニケーションは音楽だった。大講堂のステージ裏にピアノがあり、2人はどちらがというのでもなく演奏したり、暁の演奏を黎明が聞いたり、黎明がピアノに合わせて歌うこともあった。即興で旋律を奏でて、歌詞のない歌を歌うこともあった。お互いのことをよく知るわけでもないのに、不思議とお互いにとって心地の良い音がいつも流れていた。心の深い部分が共鳴しているようだった。


黎明は暁と同じくらい賢かった。ドイツ語は黎明にとっては初学だったが、半年も学ぶと黎明はドイツ語の哲学書を原語で読み始めた。しかし暁は何ヵ国もののニュースや論文を原語で読んでいた。そんな暁を見ると黎明はなぜか心が軽くなり少し自由を感じるのだった。


いつも並んでいるものだから2人が付き合っているのだと思っている学生も多かった。


ある昼下りに芝生の上に2人がいた時だった。暁は座って本を読んでいたが、黎明は寝そべっていた。


三木が離れた芝生によくそこに居る2人のシルエットを見つけて声をかけようかとそちらに向かって歩いて行ったところ、まだ遠くにいるというのに2人が同時に振り返ってこちらに手を振った。


奇妙だなと三木は思った。隣にいたアスミも三木の顔を見た。


あの2人が付き合っているという噂があるのは知っている。三木も初めは暁にモヤモヤしていた。しかし、ずっと見ていると、付き合っているとちょっと違う気がした。三木には2匹の猫が戯れているように見えた。


アスミはというと暁を警戒していた。

「あの子ちょっとやばいと思う。」

と三木に言ったことがあった。アスミは暁に、苦言を呈したことがあった。暁のせいで黎明が悪い噂を立てられていると言った時、暁は笑ったのだ。暁は、黎明がどんな言われ方をしても関係ないのだ。むしろ人が黎明に寄り付かないことを喜んでいた。黎明と暁、その2人の世界が守られれば暁にはどうでも良かった。暁に近づいてくる女性が、黎明が三木と2人で歩いているところを見たとか、こんな男と仲良さそうにしているところを見たとか、ホテルに入るのを見たとかそんなことを言ってくる奴らはたくさんいた。同じクラスのハルカもその1人だった。

しかし、暁は、

「へえ、それで?」と微笑を浮かべて返すのだった。

謀ったようにことが進まないのを見て、女たちは色々とあることないこと黎明の悪口を垂れていた。


黎明も暁も両親がいないという背景は一緒であった。しかし黎明は暁にないものを持っていた。暁は時々疎外感を感じることがあった。暁は長い間黎明を見ていたが、真木親子が嫌いであった。真木親子は黎明を愛していた。彼らの向ける微笑みも、黎明が彼らに向ける顔も、暁は自分に向けられた経験が一度もなかった。黎明はいつもどこか自分を抑えたような振る舞いをしていた。蓮に向けるような顔を黎明は自分には向けてくれなかった。そして蓮の父が黎明に向けるような顔をマダムは暁にしなかった。


暁はマダムのために生きてきた。マダムの復讐を手伝うことが彼の存在の目的だった。暁は金田の秘書になり、信頼を得た。以前は触れることを許されなかった事項にも触れるようになった。側近の信頼も得て、機密文書をこっそりと閲覧することもできるようになった。金田の側近は名前を変えているが在日朝鮮人であることがわかった。恐らく金田も日本人ではない。中国共産党との関わりは、とある宗教団体が温床となっていることが判明した。しかし、研究所の関連の資料も何も見つからず、伊勢崎に研究所の関係者を炙り出させていたことは確かだが、そのあとの動きはなく、関連した人物の死や失踪について、伊勢崎は何も関わっていなかった。炙り出した後にどうしたのか、金田が何か手を下したという決定的な証拠はなかったし、金田が研究所に直接関わった形跡はなかった。金田が懇意にしている政治家は何人かいたし、共産党がらみの政治家も何人かいた。秘密裏に会っている政治家を中心に近付くことを試みたが、それぞれ叩けば政治的にスキャンダルとなりそうなものは出てきそうだったが、研究所とは関係がなかった。蓮は篠宮を殺した首謀者が見つからないことに焦る一方、見つからないことに少し安堵していた。もし復讐が終わってしまったら自分はどうなってしまうのだろうか。



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10月の半ば頃学園祭が開催された。

以前のジャズバーでのライブは春学期に一度やっていたが、広報はジャズバーにチラシを貼っただけだったので、同じ大学の学生たちは蓮が加わったバンドを見たことがある者はほとんどいなかった。


学園祭のライブは、ピアノや機材の関係上屋外ステージが難しく、室内の広めの教室を借りて行われたが、何時間も前から並ぶ客がいて、満員になってしまい、教室に人が入りきれず入場制限を行うこととなった。大ブーイングが発生して急遽インターネット配信が行われることとなった。2日目の講演では、隣の棟広場でライブ配信を見ることになった。どこから用意したのか中継用の大きなスクリーンと、三木が高価な機材で音響設備まで整えたので、入場できなかった人々が大勢そこに集まっていた。同時間にはミス・ミスターコンテストが開催されていた。この大学のミス・ミスターコンテストは有名企業が協賛し、候補者は企業の広告塔となり宣伝活動に従事し、当日もテレビ局や雑誌の記者たちが集まる大イベントだったのだが、開催現場の野外ステージは人がまばらでスマホ片手に三木のバンドのライブ配信を見ていた者たちも多く、全く盛り上がらなかったという。


あまりのライブの大盛況ぶりに、三木は後日ライブのセットリストを改めてスタジオで録音してCDとグッズを販売して荒稼ぎをした。黎明の友人の穂積がライブの写真を撮ってくれていたので、三木が顔が見えないように写真を加工してTシャツにしてさらに荒稼ぎをした。


ライブ終了後は、アスミ、穂積、三木のバンドに参加したりしなかったりする裏方を手伝ってくれたメンバーも加えて保井の友人が経営しているこじんまりとした店で打ち上げをした。店には看板猫がいて、外の看板やメニュー表には、猫のシルエットが所々に印刷されていた。身内だけの時や人が少なくなるとひょっこり現れるのだ。人が大好きな甘えん坊の猫だが、飲食店なので普段は入ってこないようにしている。


みんなライブが成功して達成感に満たされた顔をしていた。お店は貸切で店主も顔見知りなので皆お酒をゆっくりの飲みながらすっかりくつろいでいる。穂積は撮った写真をパソコンで見せると、三木がグッズを作ろうと提案してみんなで盛り上がっていた。


黎明はライブの余韻に浸りながら暁とイヤホンを片方ずつつけて録画されたライブ動画を見ていた。ライブのために服の系統も合わせていた2人がそうして2人で肩を寄せ合って一つの画面を見つめているのは側から見るととても可愛らしい光景で、店主は雰囲気の似た2人を見て兄弟だろうかと思っていた。


「ミャーオ」黎明が足元を見ると真丸の目の白猫が黎明を見上げていた。

「あ!白猫だ!」黎明が声を弾ませた。

「猫?好きなの?」暁が聞いた。


「うん、白猫は私の幸運の猫なの。」

黎明はいつもより少し饒舌になっていた。

「私ね、孤児院で育ったって言ってたでしょ。赤ちゃんの時に元旦に孤児院の入り口に置かれてたんだって。いわゆる捨て子だったのよ。」


捨て子だったと言った黎明だったが、悲しそうには見えなかった。

「真冬だったでしょう。でもね、白い子猫が私のことあっためてくれてたんだってさ。すごいでしょう?」

黎明は大きな目をさらに見開いて暁を見た。


暁は、ハッとした。

頭の中でいくつもの記憶の断片が駆け巡った。


「チリリーン」


頭の中で風鈴の音が響いた。猫に咥えられて、大事なものから引き離される不安、恐怖。赤ちゃんが泣く声。


暁は黎明と一緒に自分が孤児院の前に置かれていたのだと悟った。自分と彼女は同じなんだ。彼女のあの動き、眼の色、偶然じゃなかった。


「それって本当に猫だった?」暁が少し意地悪な笑みで黎明に笑った。

黎明はなんでそんなことを聞くのかと眉間に皺を寄せた。その話が本当か疑うならまだしも猫だったがどうかを何うのはおかしなことである。


「ちょっと屋上に出てみない?」暁は黎明を連れて夏はテラス席になる3階に黎明を連れ出した。


シーズンも終わっているのでテラスは真っ暗だった。月明かりだけがぼんやりと秋の空を照らしていた。


暁は屋上に出ると黎明の手を取った。そのまま歩いて着いて行くと暁が突然こちらを向いた。その両眼は金色に輝いていた。コンタクトを取ったのだとわかった。暁は黎明の頬に両手を当てた。


「コンタクト、取ってよ」

黎明はパッと暁から離れた。何故?暁の前で裸眼を見せたことは一度もない。


暁は後退りする黎明を屋上の端に追い込んでいく。黎明の心臓はバクバクと音を立てていた。屋上の一番端まで追い込まれた時。突然、

「ドンッ!」暁は黎明を屋上から突き落とした。

「きゃあっ!」黎明はそのまま落下したが、猫のように身体を捻ると綺麗に着地した。

「いきなり何するの!」黎明は自分が3階から突き落とされて着地するという人間離れしたことをしでかしてしまったことをすっかり忘れて暁に叫ぶと、次の瞬間

ふわり、と暁が飛び降りてきた。


この理解が追いつかない状況で、目の前に降り立った暁に彼女が言ったのはこれだけだった。


「あなた、一体誰なの?」


暁も興奮してよく考えないで衝動的に行動していた。どうするべきか?全て話すべきか?人体実験のことを話すべきか?いや、そんなことを話しても信じられるはずがない。

じゃあ今豹になるか?いや、それもダメだ。僕が豹になったのは命の危機が迫った時だった。元旦の日は黎明を温めるために必死だったからだ。そのあと豹になったのは子どもの時山に置き去りにされて、野生動物に襲われて死にそうになった時だった。その時から自由に豹になれるようになったが、黎明はそんな命の危機にあったことはないだろう。もしいきなり豹になったら恐怖を与えるだけだ。

それに研究所の話はできない。僕にはマダムに与えられた役割があるんだ。


何も話すことができない。


暁は、金色の眼で黎明を見つめ、そして抱きしめて言った。


「僕の黎明」

黎明は聞きたいことがたくさんあったが何も言えなかった。暁が自分の首もとに顔を埋めた時泣いているように感じた。


三木は、屋上に出たが帰ってこない2人が気になって内心気が気じゃなかった。自分も屋上に行きたい気持ちを抑えて、普段はほとんど吸わないタバコを吸いに外に出た。店の横の路地で吸おうと思ったその時、路地で抱き合っている2人を見てしまい、すぐに隠れた。


激しく動揺したのは一瞬だった。普通ならショックを受けるだろう。しかしその後すぐ感じたのは、いくつもの違和感であった。


まず、一つ目の違和感は三木は屋上に出て行く2人を見たということだ。屋上には店の中からしか行けない。そして、2人が屋上から帰ってきていたら気にして何度も屋上に続く階段の方を確認していた自分が気づかないはずがない。いつ2人は3階から地上に移動したんだ?


それに二つ目の違和感は、自分が待った感情だった。なんでこんなに安心感があるんだ?俺はそんなに自信過剰な男だったか?好きな女の子が他の男と抱き合っていても平然としていられるほどに?


いや、そうじゃない。あれはなんか違うんだ。なんか、ロマンティックなやつじゃないんだ。あの2人には男女のロマンティックな雰囲気がないんだ。黎明にないのは当然だが暁の方もあんなに黎明にべったりなのにロマンティックな感じがないのだ。


混乱のまま三木は気付いたら店の中に戻っていた。


アスミが奇妙な顔で黙り込んでいる三木を見て、

「どうしたの?」と、聞いた。

「いや、なんでもない。」

と、三木は答えたがそのまま黙り込んでいる。


考えてみれば、ライブの衣装を考えている時もそうだった。三木は無意識に黎明と暁の衣装をシンクロさせていた。後で、自分は何をしているんだと思ったが、自分の美学に嘘はつけない。暁の髪型もいつもの綺麗に撫でつけてセットした形ではなく、黎明の雰囲気に合わせてセットした。そうすると2人は本当によく似ていることに気付いた。


そして次の瞬間三木はもう何も驚かないと思った。

黎明と暁が屋上に続く階段から降りてきたのである。


三木は黎明が豹であったことは、もう夢だったのではないかと思うことがあった。随分前にたった一回だったし。それ以降黎明には何も変わったことがなかった。大学に入ってから黒豹としての行動も無くなったし、黎明は良い意味でとても普通の女子大生になっていたからだ。


そしたら、暁も豹なのだろうか?

2人は、生き別れの兄弟か何かか?黎明は孤児院で育っていたのだからあり得ないこともない。



暁は複雑な気持ちだった。ライブの時の黎明と普段の黎明は全く別人だ。普段は自分を押さえつけながら生きているみたいだ。笑う時も、話す時も、普段の挙動一つ一つ、何も間違わないように、確認しているかのようだった。必要以上にゆっくりと身體を動かしているようにも見えた。暁は普通の教育を受けていないし、どちらかというと自分の限界に挑戦するような教育ばかりだったので、学校とさらに孤児院という集団生活の中で1分1秒自分を押さえつけてきた黎明とは正反対だった。もちろん普通がなんなのか学んで振る舞い方も気を付けていたが、黎明とは訳が違う。黒豹として逃げている彼女がフードを取った時に見せた表情とライブの時の彼女は同じ顔をしていた。彼女と全てを共有したいと思いながらも、闇の中に生きている自分が光の元に生きている彼女の尊さを穢してはいけないと感じた。彼女は昔黒豹と呼ばれていて、僕は白豹なのに。皮肉なものだ。


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暁は近づいたと思った黎明との間にある壁の存在に孤独を感じていた。


家に帰るとマダムが読書をしていた。


マダムは暁が帰ってきたことに気付いた。


「遅かったのね。」と読書の時だけかけている眼鏡を少し下げてリビングの入り口に目を向けると、そこにいたのは、豹だった。


意外に思いながらもマダムは

「こっちにいらっしゃい。」というと、そっと歩いてきてマダムの座っている長いソファにひょいと登ってきて大きな身体を伏せると頭をマダムの太腿の上に載せた。マダムは綺麗な毛並みをそっと撫でた。

豹は目を閉じた。


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暁は金田に仕事を頼まれて、銀座のクラブに来ていた。それははじめての研究所関連の仕事だった。金田に頼まれたのは伊勢崎がやっていた仕事だった。対象は研究所の職員であった中国人の職員の元妻がママをやっているクラブである。夫が研究所を辞める前に離婚していたため、夫と中国に行かずに日本に残ったのだが、関係者として今まで浮上していなかったのだ。今回浮上したのは研究員の夫と間にできた子どもが結婚するというので、元夫が来日したのがきっかけだった。


彼女と夫との現在の関係性、そして研究所についてどの程度知っているのか把握することが仕事だった。


暁に彼女はすぐに興味を示した。彼の美しい佇まい、身なり、表情や言葉遣いを見て、上客だと判断したのだ。


暁は警察官という偽りの身分で研究所の火災について調べているのだと言った。

そう言うと彼女は呆れたような表情をして言った。


「またなの?この前も警察の人が来ておんなじこと聞きに来たわ。これだから、お役所の縦割り行政はやあねえ。」


警察が来た?そんなはずはない。事件は捜査されないように圧力がかかった筈だ。以前警察の書庫に侵入してファイルを探したが、そもそもファイル自体存在していなかったことは確認済みだ。


「そうでしたか、大変申し訳ありませんでした。どうもこちらで手違いがあったようで、よければその者の名前を教えていただけませんでしょうか?」


「ええ、もちろん。仕事柄名前を覚えるのは得意なの。何かあったらと名刺ももらったけれど、奥にしまってきちゃったわ。でも、名前はちゃんと覚えてるわ。真木さんという方だったわね。」


「真木ですか。」

暁は耳を疑った。真木ってまさかあの真木か。


「ええ、真木誠一郎さん。」

真木誠一郎、真木蓮、そして黎明とのつながり。どうやらこれは偶然じゃなさそうだ。

一体どういうことだ。なぜ彼が動いている。誰の指示だ。


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暁は、銀座のクラブでの仕事が終わると、金田に概要を報告した。しかし真木については報告しなかった。自分で確かめて自分で処理するつもりだった。これは黎明に関することだからだ。その日、事前に金田と側近のPCに仕込んだバックドアから金田が、保守党の重鎮荻野目に報告を書いたことを知った。


極右の荻野目は親中、いやむしろほとんど共産党員の金田とは政治的に緊張関係にあったと思っていたが違ったのだ。荻野目は研究所の開設に名を連ねていたが、その後研究所には関わっておらず、金田と繋がりのある親中議員何人かが研究所に繋がっていた。その中の誰かが篠宮の死亡に関わっているはずだと睨んでいた。


銀座のクラブで真木について聞いてから、真木を調べ始めた。真木誠一郎が孤児院に足を運び始めたのはちょうど僕らが捨てられたあたりからだ。その中でも黎明には特別目をかけている。彼女の特殊性にも間違いなく気付いている。黒豹として問題を起こしたのを処理したのは真木だった。


暁は、真木の行動をつけていた。そしてついに決定的な証拠を掴んだのだ。赤坂での荻野目との会食だった。


暁は憤慨した。あれほど黎明は真木を信頼していたのに。ずっと裏切っていたのか。


マダムは荻野目についてくまなく調査して復讐の決定を下した。マダムは感極まって涙を流していた。ついに報われると。夫が死んでから、彼女は復讐だけが生き甲斐になっていた。

マダムの復讐は単に相手を殺すことではなかった。相手の大切なものを奪うことだった。


荻野目には、息子がいたがあまり政治家としての才がなく結婚した妻は両家の子女だったが、夫は二世議員として目立ち、自身も週刊誌の攻撃の対象になり自ら命を絶った。息子は憔悴しきり、政治世界を退場した。一人娘がいたが、荻野目とその妻が彼女の養育をほぼ担った。孫娘は政治の世界とは隔絶して生きることを望み、一流企業の社員と結婚した。荻野目はたった一人の孫娘とその娘、つまり彼のひ孫を溺愛していた。マダムの復讐は荻野目から孫娘とひ孫を奪うことだった。

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真木誠一郎は、事件以来、単独行動で秘密裏に調査をしていた。まず目をつけたのは、研究所にあった封筒に書かれていた保守政党の派閥の領袖の大物政治家の名前だった。


荻野目慶彦。彼はタカ派の政治家として知られており、日本は軍隊を持たないかぎり、真の独立国とは言えないという政治精神であった。研究所は保守党政権の際に科学技術政策に精通していた荻野目の提案で設立されたが、その当時は中国とは関係がなく、感染症や遺伝子の研究をする施設であり、人体実験も行われていなかった。その後政権交代で左派政党の時代になると、国費留学生の枠を拡大し、海外から来た優秀な人材を研究所にスカウトするようになった。安全保障に関わる研究所に海外留学生を招致するとは考えられないことであったが、左派政党には親中政治家が多かった上、保守党の親中政治家も味方につけて研究所の政策を転換してしまった。学術交流の名目で中国の研究者も直接入所できるようになり、研究所は次第に、対米を想定した軍事研究施設になっていった。人体実験もその頃に始まった。


荻野目は対米追従には反対していたが、日本が強い国となり、アジアの主導権を握るという野望があり、保守本流の政治家であったため、中国に擦り寄る政策は好まなかった。

研究所の関係性もその頃には途絶えていた。


しかし、世界的な景気後退に対して経済政策に失敗した左派政権は政権交代を余儀なくされ、保守政権に再び戻った。荻野目は自分の派閥から首相を選出する狙いがあったが、それは敵わず、元国営放送のアナウンサーで国民人気が高かった政治家が首相に担ぎ上げられた。前政権の失敗と新党の乱立で、過半数割れする可能性があったため、国民人気の高い政治家で人気取りをすることはやむを得なかった。


無事に過半数を取得して、経済も回復傾向になってきたため順風満帆かと思った矢先、中東で紛争が起こった。中国は紛争の当事国に大量の武器を供給したことで批判にさらされた。中国の狙いは当事国の国境にある地下資源を独占することだった。日本は遺憾を表明するにとどまったが、中国の国内での臓器売買、また紛争国を通しての人身売買が明らかになると各国でデモ、そして中国製品のボイコットさらに経済制裁が行われた。


日本は数々の重要な資源を中国に依存していた上、経済政策には足踏みをしていたが、日本国内でもデモやボイコットが行われて、日本企業まで国際批判にさらされるようになると首相は経済制裁を閣議決定した。 


これに怒った中国はマラッカ海峡に海賊として傭兵を送り込んで日本のエネルギー資源の補給路を妨害した。


激しい物価高騰で、このままでは国が立ち行かなくなるという事態になり、国会ではエネルギー資源や、経済の大部分を中国に依存している日本がこれ以上対中強行姿勢をとり続けるのは無理だという意見が叫ばれるようになった。戦後の外交の分岐点であるという学者もいた。


対米追従で経済制裁を行ってもアメリカは助けてくれない。さらにヨーロッパ諸国は地理的に利があるので、エネルギー資源に困ることもないと与党議員も野党議員も口にするようになり、親中アジア重視の外交に転換する以外に日本が生き残る道はないという政治家もいた。


金田もその時対米追従の政権批判を声高に繰り返した者の1人であった。彼は研究所での人体実験に使われているサンプルの入手経路が中国の人身売買であることを知っており、それをアメリカにリークしたのだ。


金田は、日本を孤立させ中国の属国とすることが目的であった。しかし、その目論見は外れた。米が研究成果を根こそぎ持っていこうとしたのである。対米想定で研究が行われていた事実が米に知られることは、あくまで国際協調主義を貫いていた首相にとって危機的状況であった。研究所の内実を知られる前に迅速に対応することが必要であった。荻野目を中心に対応方針が決められ、米国に研究成果を盗まれることは中国にとっても防ぎたいことであり、荻野目は中国側からも信頼の厚い金田を中国に派遣した。荻野目は金田を通じて、迅速に研究所を閉鎖すると約束した。しかし、金田が帰国する前に、中国側は研究者を一斉に帰国させ、日本人研究者の粛清を始めた。


これに焦った荻野目は、経済制裁の緩和と日本人研究者と関係者の粛清を自らが行うことを約束し、マラッカ海峡の海賊の撤退を中国に約束させた。


中国首謀での研究所の爆破をもって米国は手をひき、この一件は一旦鎮まった。


真木はこの事件の全貌を掴むことはできなかったが、研究所の歴史と荻野目と金田が背後で糸を引いているはずだと考えた。


真木が関係者の粛清を知ったのは、真木が研究所の職員家族を追い始めたときだった。伊勢崎という弁護士が動いているということを知り、足取りを追っていたが、伊勢崎が足を運んだ後に関係者が失踪しているのだ。しかし、死亡届けは出ておらず、事件にもなっていないので止めようがなかった。自分が下手に出れば関係者を余計に危険に晒してしまう可能性がある。

しかし真木は事件を追ううちに、自分以外にも事件を調べている者がいると知った。そして伊勢崎が篠宮の家を回った最後に彼は姿を消した。伊勢崎の行方も失踪した関係者の行方も掴むことが出来なかった。


篠宮には不可解なことがあった。篠宮夫婦には子どもはいなかったはずだが、少年と暮らしていることがわかった。篠宮の子どもという可能性は、不可能ではないが、子どもが長年いなかった婦人の年齢からすると難しいようにも思えた。そしてその少年は篠宮の姓を名乗っておらず、婦人の旧姓を名乗っていた。


伊勢崎はだいぶ非合法な仕事をしていたようであるので失踪の原因はいくつも考えられたが、刑事の勘が篠宮には何かあると言っていた。


真木は事件のスケールが明らかになるにつれて、失踪や爆破には中国が関わっているかもしれないと思い、立件は不可能かもしれないと思った。しかし、研究所の地下、そして死んでいった子どもたちのことを思うと気持ちが収まらなかった。黎明も、奇跡的に生きていたが本当はあの死亡サンプルの1つになっていたかもしれないのだ。


ただ成果はあった。誰もあの子どもたちの存在を追っている者がいないということだ。ほとんど何が書いてあるかわからなかった研究データも詳しく調べると、死亡事例のみであり、最後の双子は(不適合)経過観察中となっていた。他のサンプルには(不適合)死亡、と書いてあった、あの爆発で生き残った者がいるとは誰も想像しないはずであるし、一度も実験が成功した試しがなかったのだからなおさら誰も生きていることを想定していないだろう。


銀座のクラブを訪れたしばらく後だった。真木は夜道を歩いているとスモークのバンが真木の隣にスッと止まった。ドアが急に開き。真木は何が起こったかわからないまま中に数人の男に押さえられ連れ込まれ、目隠しをされ手足を縛られた。


「警告だ。これ以上研究所について深追いしない方がいい。」

乱暴に車に連れ込まれた割には落ち着いた、50代くらいの男の声が聞こえた。


「荻野目か!金田か!」


「ほう、そこまで掴んでいたのかね。」


「お前たちがやった非倫理的でおぞましい実験と用済みの人間を一方的に排除する悪魔の所業をそのままなかったことになってできるか!絶対に突き止めて法の下に裁きを受けさせる!」


「そうか。警察が動いているのか?」


「違う、お前らが権力を振りかざして立件さえさせなかったんだろうが!俺1人だって突き止める。」


「荻野目と話したいか?」


「!」真木は予想外の提案に驚いた。


そして、胸元のポケットに何か紙を差し込まれて、言われた。


「明日の19時、話したかったらここに来なさい。」


そう言われて車から下ろされた。


次の日指定された時間に赤坂にある料亭に向かった。


そこで荻野目が待っていた。

荻野目はかなり高齢でテレビで見たより小さく見えたが、相手を畏怖させるような気迫があった。


「ようこそ、真木君。会いたかったよ。」


荻野目は言ったが一体何を考えているのか全く読めない。


「なぜ私をここに呼んだのですか。」

真木は聞いた。正直少し怖いと感じたが、平静を装った。


「君と話をするためだよ。私はこれから君に嘘をつかない。だから君も私に嘘をつかずに話してくれ。」

真木は荻野目が誠実に話そうとしてくれているのを感じたので素直に同意した。


「君以外に研究所について調べたり、知っている人はいるのか?」


真木は自分一人で調べていると言った。


「どうしてそこまでする?爆発があってからもう20年近くなるだろう。何が君をそこまで動かすのかな。」


真木は、研究所で人体実験が行われた形跡を発見したこと、子どもが使われていたこと、そして研究所の関係者が家族も含め粛清されたことを知り、自分も子どもを育てる身でもあり、許せないと感じたと話した。双子のことだけは話さなかった。

荻野目は黙って聞いていた。


「君のことは私の方でも調べてある、君は出世には全く興味がないみたいだね。爆発の件でもだいぶ上役に反発したみたいだね。息子さんを1人で育てながら、孤児院にも寄付をしたり子どもたちの面倒を見ているみたいだね。君は私が調べて持った印象通りの人みたいだ。今からは私の話をしよう。


まず、人体実験については本当に残念なことだと思っているよ。あそこはもともとそんな施設ではなかった。確かに安全保障上重要な研究所ではあったが研究者の倫理を逸脱するようなことはしていなかった。政権交代から変わってしまった。対立政党批判にしか聞こえないかもしれないけれどね。

私は極右と言われることもあると自覚しているが、実際親中派からはだいぶ煙たがられているよ。

自分自身リアリストだと思っているし、何でもかんでも中国寄りの政策を批判しようだなんては思ってないんだけどね。


少し話が逸れたけれど、政権交代のあと研究所の主導権はほとんど中国共産党にあったと言って間違いないね。私は設立に尽力したけれど、すっかり締め出されてしまってね。報告される研究成果は私の時代の研究の延長線上にあるように見えていたけれど、人体実験をしていたとはね。私にも可愛いひ孫がいてね。人体実験のことを知った時は虫唾が走ったよ。


これをもっと早く止められなかったのは私の力不足としか言いようがない。知らなかったとはいえ申し訳なかった。」



荻野目は本当に頭を下げた。その姿は本当に真摯に感じた。


「そして、もう一つ君に伝えたいことがある。今日聞いたことは全て決して口外しないでほしい。そして今から話すことは、、」


「荻野目さん。」側近の男性が少し焦ったように止めにはいった。


荻野目は手で彼を制した。

「いいんだよ。彼には知っていてもらいたいんだ。」


「ですが、これは…」側近はかなり困り果てた顔をしていた。


「真木君。今から話すことは、国家機密でさえない。しかし私が国家に対して持っている最重要機密だ。


関係者の粛清についてだ。」


真木は身体に緊張が走った。


「結論から言うと、中国側が我々が動くより先に粛清した者以外の者たちは私が死を偽装して粛清したように見せかけたが海外に亡命させて名前を変えて生きている。」


真木は衝撃を受けた。


「中国側に粛清されたのは、所長の根本とその家族、そして検査局の北原とその妻だ。その二家族に関してはとても残念だったが間に合わなかった。」


「では、日本政府は誰も殺していないと?」


「いや、殺したことになっている。金田のことは知っているだろう、金田に調査を命じたのは私だ。金田には粛清のリストを作ってもらった。私が粛清したと彼は思っている。」


「では生きていることを知っているのは?」

ほとんどこの場にいる私たちだけだ。


「そうですか、よかった。こんな一警察官の端くれに教えてくださってありがとうございます。」


真木は本当に安堵した。


「君のことは信頼しているよ。私はいろんな人間を見てきたからね。政治家なんて騙し合いだよ。ぼうっとしてたら足を掬われる。私も決して綺麗な人間じゃない。必要悪だと言い聞かせて汚いこともたくさんしてきた。そういうのに割りを食うのは君のように真っ直ぐな実直な人間だね。そして割りを食わせるのは私のような人間だ。」


荻野目は苦笑いした。


「私もそんなに先が長くない。あんまり悪い気分で死にたくもないからね。これも年寄りの自己満足だよ。今日はご足労ありがとう。息災でな。」




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 暁は真木のマンションで誠一郎の部屋を漁っていた。そこには、研究データの束そして荻野目当ての封筒が入った箱があった。他にも肉食動物の生態、遺伝子工学、中国での人身売買をテーマにしたルポタージュなども入っていた。


 暁は真木が帰ってくる想定の時間まで待った。部屋には黎明と蓮と3人で撮った高校の卒業式の写真が飾ってあった。


悲しみと怒りで胸がいっぱいになった。

今日わざわざ足を運んだのはもう自分が帰ってくることはないかもしれないと思ったからである。荻野目の孫の家はかなり厳重な警備システムが導入されている。侵入して仕事を終えても殺人事件となってしまう。凄惨な殺人現場を作り出すことが目的なのだから。大きな捜査網が貼られるだろう。荻野目は何をしてでも犯人を探し出そうとするだろう。もう大学にもいられないし、黎明とも会うこともないだろう。


ガチャリとドアが開いた。暁はマスクを付け、フードを被った。


冷静に問いただすつもりだった。しかし、顔を見たら怒りが湧き上がって抑えきれなくなった。黎明の高校の卒業式の写真で、嬉しさを押し殺した照れ隠しの仏頂面。こいつだけは、こいつだけは許せない。


真木は部屋にいた侵入者に驚いたが彼は警察官だったので冷静さを失わず、顔色一つ変えなかった。


「何者だ。」


「お前どうしてこれを持ってるんだ!」

暁は研究所のデータを床に叩き付けた。

若い青年の声だった。ああ、篠宮の子だな。なんの根拠もない。直感だった。


「まず落ち着きなさい。話をしよう。」

真木は言ったが、


暁はもう完全に冷静さを失っていた。 

「黎明を!黎明を!裏切っていたのか!」


これには真木は驚いてしまった。黎明?篠宮が殺された件じゃないのか?そして黎明を裏切ったというのはどういう意味だろう。自分に罪悪感が全くないかと言われればそうではない。自分は黎明を孤児院に置き去りにした。出生の秘密を知っていながら叩きつけられた書類をずっと隠し続けていた。


「君を意味しているのかわからないが、これには訳があるんだ。」


暁は

「黙れ!今更言い訳をする気かっ!」

と怒鳴った。


「君は、、篠宮の子か?」

すると、暁の目がカッと開きそのまま誠一郎に飛びかかった。誠一郎の肩に大きな白い豹が噛み付いた。


「グぁ!!!」

誠一郎は倒れたが同時に頭がものすごい速さで回転して全てのことが繋がった。


「そうか、よかった。生きていたのか。君だったんだね。黎明を守ってくれてありがとう。」


誠一郎は、黎明を暖めていたのは白い猫ではなく豹に変身した双子の片割れであったのだと気付いた。篠宮の邸宅は孤児院から遠くなかった。猫が連れて行ったのだ。


暁は気が動転して飛び退いた。なんだ!今なんて言ったこいつ!なんでこんなこと言うんだよ!


誠一郎の方からは血がとめどなく溢れていた。その時ガチャリ、と扉の向こう側でドアノブを弾く音が聞こえた。蓮が帰宅したのだ。暁はそのままベランダへ向かうガラスを割って、外に飛び出して行った。蓮は一体何事かと部屋に駆け込んだが、そこには血だらけで倒れる父がいて、ベランダの方にガラスが散らばっていた。マンションは5階だった。蓮は慌てて飛び出して外を見たがもうそこにはなんの影もなかった。


蓮は父の傷を抑えると。大きな声で何度も父を呼んだ!

「親父!親父!しっかりしろ!」

すぐに救急車を呼んだ。傷を抑えるが血が止まらない。凶器は残っていない。刺されたのではない。獣に噛まれたような傷だった。


もう親父には意識がない。

親父。親父まで死なないでくれ。お願いだ。


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暁は放心状態で彷徨っていた。

なぜ真木はあんなことを言ったんだ。

真木はなぜ。黎明を裏切っていたのかはずなのに。なぜ。


しかし、こんなことをしている場合ではない。真木に身元を知られた。さらに蓮も帰ってきている。自分が捕まればマダムの復讐の計画が台無しになってしまう。


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蓮は救急車の中で父を呼んでいた。すると一瞬父の意識が戻った。カッと目を開いて、渾身の力を振り絞って言った。


「荻野目…荻野目が危ない。今すぐ行け。」

「荻野目って誰だよ!」蓮は叫んだ。

「保守党の荻野目慶彦だ。そして、あの子に伝えるんだ。篠宮は生きてると。」

「どう言うことだ!何のことだかわからない!あの子ってだれだ!」

誠一郎は再び意識を失いかけた。

「親父!親父!」蓮は叫んだ。

「今すぐ…行け…」そう呟くと誠一郎は意識を失った。


蓮は父のそばを離れるわけにいかないと思ったが、今父が自分に伝えたのは警察官としての使命だった。蓮は生きててくれと祈って荻野目慶彦の邸宅へ向かった。


荻野目慶彦の邸宅は都内の高級住宅街の一角にあったが、その近くに着くと蓮のスマホに緊急招集の情報が入ってきた。東京都文京区駒込………番!すぐに近くにいるものは現場へ向かえ。政治家の荻野目慶彦の孫の邸宅が襲撃に遭っている。


蓮の全身が震えた。荻野目!!!


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その日、黎明は夜勤だった。クライアントの夫が出張や仕事で留守の場合はこのように夜勤になることもしばしばあった。


もうすっかり懐いた愛莉ちゃんに絵本を読んだり、奥さんと世間話をしながら、なんて楽な仕事なんだろうと思っていた。SPというよりベビーシッターだった。


その時だった


ウィーン!ウィーン!ウィーン!

ウィーン!ウィーン!ウィーン!


と、けたたましくサイレンが鳴った。

愛莉ちゃんは、


「わーん!ママーーー!!!」と泣き出し、奥さんの顔は恐怖におののいていた。



黎明はすぐにマニュアル通りに2人を避難シェルターになっている部屋に誘導して、内側から鍵をかけさせた。


その瞬間バコーンと部屋の扉が飛んできた。


侵入者だった。侵入者は1人だ。これなら大丈夫だと黎明は思った。

侵入者は黎明に対峙すると動きが止まった。


黎明は構えていたが相手が動かないので、先手を仕掛けた。黎明は猛スピードでタックルした。普通ならこの一発で勝負は決まるだろう。しかし、侵入者はびくともしなかった。黎明は人間に対峙するときはある程度手加減をしていたが、今のは割と強くいったつもりだった。しかし侵入者はカウンターアタックを仕掛けてきたので、黎明はそれを素早くかわすと、足を狙い、相手を転ばせようとしたがひょいと飛んで交わされてしまった。ストレートパンチが飛んできたのでそれをガードすると黎明は脇腹を狙ったがそれもガードされさらに攻撃が繰り出された。そんなふうにして互いに互角で攻撃を繰り出して、目にも止まらぬ速さでの闘いになった。


さらに早く、さらに早く、さらに強く、さらに強く繰り出しているうちに自分が全力で闘っていることに気づいた。何回か攻撃も食らった。


その時だった。

侵入者が来た方から

「そこまでだ!」と銃を構えた警察官が入ってきた。蓮だった。


SPが中で対応しているはずだと聞いていたが、それが黎明だとは、思わなかった。


しかし侵入者は動きを止めないので、ひたすら猛スピードのコンバットが続く。今打てば黎明に当たる可能性があり、蓮は手が出せない。侵入者もそれがわかっているのでより激しく動く。


しかし、他の警察が到着するのも時間の問題なので、そろそろ侵入者は決着をつけないといけないと感じ、強く蹴りを入れて黎明を吹き飛ばした。黎明は反対側の壁に飛ばされてバコンと壁に食い込んだ。


「黎明!」蓮は叫んだ!

しかし黎明から侵入者の距離ができた以上弾が黎明に当たらないで済む。蓮はバン!っと侵入者に向けて銃を撃ったしかし、侵入者は銃の弾丸をあろうことか交わしてそのまま蓮に飛んできた。銃を持つ腕を叩くと蓮は銃を落とした。しかし、蓮は怯まず蓮の腕を叩いた腕を素早く掴んでねじ伏せだが、侵入者は身体を反らせたかと思うと反動をつけて起き上がり蓮の鳩尾に一発くらわせた。しかし、蓮は倒れた体勢のまま相手の足を絡め取りバランスを崩させた。

そして部屋の角に向けて押し倒して逃げ場を無くした。


暁は、蓮の想像以上の強さにたじろいだ。黎明が強いのは当たり前だが、蓮は暁や黎明と違って普通の人間なのに、どういうことだ。黎明よりやりにくい。タフな上に闘いながら頭を使っていて、空間の把握力、判断力が非常に優れていて、肉体的な能力差を埋めるほどである。追い詰められた暁は足首に仕込んでいたナイフを抜いた。


蓮は素早く避けたが頬が切れて血が滲んだ。

そのあとは侵入者がナイフを振り回すので武器を持たない蓮は押されていた。


その時黎明が一瞬後ろから侵入者の肩に一発ガツンと何かを食らわせた。


ヌンチャクだ。蓮はそんな場合じゃないのに突っ込みたい気持ちでいっぱいになってしまった。何で武器がヌンチャクなんだ。本気でそれ実戦で使うやついるかよと呆れてしまった。黎明は子どもの頃ブルース・リーの映画にはまり。ブルース・リーの真似事をするお茶目な時代が黎明にもあったのだ。しかし、お茶目な真似事で黎明は満足していなかったことが今になって判明してしまった。しかし、ヌンチャクはナイフに対して有効に機能した。流石の暁もヌンチャクを相手に練習したことはなかった。

黎明のリーチを広げて暁も苦戦した上に今は二体一になっている。暁は押されて壁際に追い詰められた。


その時、侵入者は高く飛び上がり、体を縮めて2人を空中から同時に蹴り飛ばした。

よろめいて黎明はまた少し飛ばされ蓮は倒れた。倒れた蓮にすかさずナイフを振り上げたところ後ろから黎明に怪力でフードごと首根っこを強く引っ張られて片手で投げられてしまった。フードがとれて、マスクもその勢いで外れてしまった。


すると黎明と蓮は侵入者の顔をはっきりと確認することができた。


「暁」


暁は名前を呼ばれてハッとすると顔を歪ませて言った。


「お願いだ。邪魔しないでくれ。俺がやらないと。俺がやらないといけないんだよ。」


と言った。そして一度目を伏せると覚悟を決めたように見据えて2人に向かってきた。今度は前よりもずっと早いスピードだった。


「暁!お前は人殺しになりたいのか!」


暁の猛攻撃を受けて所々切れて血を流しながら蓮が叫ぶ。

暁は答えないで無心で攻撃を繰り返す。

暁の顔にはもう何の表情も見えなかった。


黎明も応戦して戦う、黎明の攻撃力は尋常ではなかった。ナイフの動きに慣れて、さらに闘いの間にも蓮の動き方や暁からでさえ学んで、強くなっていた。


黎明にも応戦するので手一杯になってきた暁だった。蓮もヌンチャクをまるでタービンのようなスピードで振り回すので黎明と同時に攻撃を仕掛けることはできなくなった。


蓮は叫んだ。

「もうこんな意味のないことはやめろ!」

意味がない?お前に何がわかる?俺が生きてきたのはこのためであり、これが俺の存在意義であり、これができなかったら俺が生きてる意味なんて何もないんだ。これは俺の人生の全てなんだ。


「お前に何がわかる!」


黎明との戦いで部屋の中心部に移動していた暁は突然消えた、ように見えた。


何かが斜めに横切る。一瞬の出来事だった。白い大きな豹が蓮を押し倒していた。

グルルと唸り、口を開けたその時、


「やめて!」と黎明の声がしたと思うと真っ黒な大きな豹が、白い豹の首に噛み付いた。


白い豹が苦痛の鳴き声をあげて怯んだ。そのあとは2匹の豹が格闘していた。引っ掻き、噛みつき、唸り声が上がり、蓮は目の前の光景がとても信じられなかった。幻を見ているのかと思った。しかし、先程白い豹、暁の爪が食い込んだ肩が痛み熱い血が服に染みていくのを感じていた。


2匹の豹、暁と黎明の闘いはまさに死闘になっていた。暁が黎明に噛みつき黎明が怯むと暁は黎明を吹き飛ばした。窓ガラスが割れてガラスが黎明の上に散らばった。


暁はすぐに蓮に飛びかかってきて、唸りながら口を開けたその口に蓮はすかさず自分の腕を挟み、言った。


「篠宮は生きてる。親父からの伝言だ。」

暁は人間に戻った。


「生きてる?」


「ああ、生きてるそうだ。」


暁はへたり込んでしまった。


その後シェルターに隠れていた親子の安全を確認すると、蓮は気絶している黒豹を暁の力を借りて誰にも見られないように蓮の車に運んだ。

どう事態の収集をつけるかは今は考えられない。とりあえず親子を後から来たパトカーに任せて蓮は父の病院に向かった。


「黎明大丈夫かな」


「お前がやったんだろ」と、蓮は答えた。暁は黙っていた。でも暁の様子を見るとたぶん大丈夫だ。暁はだいぶ激しく首を噛まれていたように見えたが、血も止まっている。黎明も傷だらけだが血が止まっていない箇所はない。一体こいつらどういう身体の構造なんだと半ば呆れたが。もう豹になったのを見たからには何があっても、たぶん突然羽が生えて空を飛び始めても、そういうものなんだろうと思うだろう。困ったのは黎明が人に戻ってくれないことだった、豹を動物病院に連れていくわけにもいかないし。人間に戻ってくれないと治療ができない。

実際問題としては今治療が1番必要なのは蓮だ。

黒豹は整った呼吸をしている。たぶんそのうち目を覚ます。病院に着いて黎明を起こそうとすると、ちゃんと起きてくれ、起きた時には人間になっていた。傷もさっきよりさらに回復している。どういうメカニズムかわからないが大丈夫そうでよかった。


車を降りて、ドアを開けて立つと、地面が見えた。蓮は倒れた。運転席には血がべったり着いていた。


「蓮!」黎明は焦って駆け寄る。そのまま2人は蓮を運んで病院に駆け込んだ。


病院には三木が来ていた。蓮が父のそばにいられないので三木に頼んだのである。


三木は一体何があったのかと暁と黎明に聞いたが2人とも黙って俯いていた。2人ともボロボロで乾いた血がたくさん着いていた。


三木と暁と黎明は、真木親子が目覚めるまで何も話さずただ無言で待ち続けた。


次の朝、蓮が目覚めた。


「蓮よかったあ」と、黎明が泣きながら蓮にしがみついた。

身体中切れてるのですごく痛かったのだが、頭を撫でて安心させてやった。


蓮と誠一郎は同じ病室に入れられた。緊急治療室からは出て来られたのできっと大丈夫なはずだと蓮は思った。怪我をした直後に発見されてすぐに止血に当たれて良かった。


誠一郎だけが全ての状況を把握していたので、皆お互いを見て、少し気まずそうにしていた。


幸いなことに、夕方になると誠一郎が目を覚ました。皆心から安堵して喜んだ。暁は喜びを表せる立場ではなかったので、下を向いていたが本当によかったと内心思っていた。


誠一郎はことの経緯を全て話してくれた。蓮が目覚めた後に軽口を叩いて暁の首の噛み跡を見て、「黎明、噛んだ?」と聞いて全員を絶句させた三木も一緒に聞くことになった。


誠一郎は黎明と暁に謝罪した上で話を始めた。研究所のことから、孤児院の経緯、長年事件を追っていたことも話してくれた。黎明はにとってはショックなこともあったが、それよりも誠一郎に今まで以上に感謝の思いが溢れた。暁は誠一郎に涙ながらに謝罪して、感謝の気持ちを伝えた。暁は、自分の生い立ちについて語り、マダムの復讐のために生きてきたことを話した。誠一郎は、暁を哀れに思った。マダムが彼にしたことは、殺人教唆であり、大罪である。誠一郎は伊勢崎の行方についても暁が関わっているかもしれないと思ったが、暁は助けたいと思っていた。


研究所について、また荻野目の孫の家は襲撃は動機が動機なので、立件できるとは到底考えられなかったので、まず荻野目に相談することにした。


荻野目は、ことの経緯を聞くと家族が無事であり、さらに、暁の境遇には自身にも責任を感じるところがあったので、内々に事件を処理する手配をした。しかしマダムについては「粛清」が決まった。誠一郎は、マダムに対して、殺人教唆をはじめとして、暁に犯罪を犯させてきたことは、彼への虐待であると強く指摘した。伊勢崎に関しては、誘拐したのは暁であったが、その後監禁されていたことが判明し、研究所に関わらない数々の罪で立件し、彼は逮捕された。


マダムは「粛清」され、夫のいるスイスで監視つきで生活を許されることとなった。本来は罪に問われるはずだったが、死んだ者を牢屋に入れることはできないので、誠一郎は苦い顔をしながらもその処遇に同意した。暁は元々存在が公にされていなかった上、金田にも偽りの経歴と名前で採用されいたので、そのまま生活することはそれほど難しいことではなかった。暁については誠一郎が責任を持つと宣言した。


しばらくは暁は黎明の家に住むことになった。黎明も暁も自分達が双子であったことを知り、たった1人の血の繋がった家族を得てとても嬉しかった。誠一郎は本当に2人を自分の子どもとして責任を持とうと思っていた。


暁は前以上に失われた時の埋め合わせをするかのように黎明にべったりだった。蓮が2人の家を訪ねるとよく2人は豹になって蓮に戯れついた。2人とも素直なタイプではないのだが、豹になったら何をしてもいいと思っているらしい。甘えたい時は豹になっていた。黒い豹は蓮に特に甘えた。黒豹は蓮の太ももに頭を載せると気持ちよさそうに撫でてもらっていた。身体が大きい割に仔猫のようだった。そんな黒豹を側に蓮は、人の時は絶対有り得ないのになと複雑な思いを抱いていた。


暁と黎明は孤児院に捨てられていた時と同じように、豹になって寄り添ってよく寝ていた。大学でも、2人の愛情表現が豹化していたので、黎明が暁の膝枕で寝ていたりするものだから、流石に三木も人目が気になり割って入ったりしていた。


2人はどんどん似ていき、そのうち2人の不思議な関係性がそのまま受け入れられるようになり、Twins と呼ばれるようになっていた。


暁は毒が抜けたようになり、髪の毛も真っ白に戻っていた。2人ともカラーコンタクトはしていたが、暁は天使のような美しさになっていた。黎明は全てを共有できる理解者ができて、以前のような抑圧された雰囲気ではなく、物静かでエキゾチックな雰囲気は変わらなかったがもっとゆったりした感じになっていたし、豹でいるのが好きみたいで、いつも身内の時は気付けば豹だった。三木も蓮もどっちが兄なのか姉なのかわからないけれどたぶん黎明は妹だろうなと思っていた。


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