第9話
真右衛門の言う通り、それから間もなく屋敷に帰ってきた真乃は、源二郎が頼むと即答でみのの用心棒を引き受けた。間もなく出回ってくる鴨の山椒焼きの礼付きで、である。
「明日、さっそく清水屋へ客として様子を見に行くことにする」
「……おまえ、昨日の時点で田之助を怪しいとみてたんだろう?」
「わかりやすい組み合わせだったからな。とはいえ、世の中には意外なこともある。で、どう攻めるんだ?」
「明日、直接話を聞こうと思っている。あくまでも、目立たないように、だ」
「そうだな。それが良いだろうな。ああいう手合いに限って、実は小心者だったりするしな」
翌日、源二郎は万蔵に田之助の勤めの予定を探らせた。
予想どおり、その日の往診には藤吉がついて行き、田之助は夕方で上がりだった。
源二郎は夕方の帰り道で万蔵に声をかけさせ、話を聞こうと考えた。そして、夕方までにずっと気になっていることを片付けることにした。万蔵が堀江町から戻ってくるまでの間に既に手をつけていた。
再び例繰方を訪れ、祖父江に頼み事をしたのだ。
厄介なことを尋ねますがと前置きし、源二郎は祖父江に言った。
「四年前から六年くらい前に、次の字の『源次郎』という侍が関わった事件はありませんでしたか?おそらく殺されたか、刑罰を受けたことになっていると思います。江戸ではなく、どこかの御領分での出来事だと思いますが……」
「ずいぶん漠然としておるな。御府内のことでないとなると、ここに記録は無いし、御領分内のことはあまり聞こえてこぬからなぁ……せめてどこの御領分かわかるとまだ探りようがあるが……例の押し込みと関わりがあるのか?」
源二郎は返答につまった。
「……関わりがあるかもしれません。賊の一人は、その『源次郎』の身内かもしれないのです。突き止めるのは難しいと思いますが、その御領分が外海に面しているのは確かです」
「外海になぁ……東か西かもわからんのかね?」
「絶対ではありませんが、おそらく江戸よりも東か北だと……」
江戸よりも寒い、北か東の出ではないかというのが、源二郎が聞いた白井の言葉の端々から感じたことだった。天候のことを話した時にそう感じた。
「ふむ。東か北。それならば、ちょっとあたってみるか」
「お手数をおかけします」
源二郎は深く一礼した。
「ま、なんだかんだとわしは調べることが好きだからな」
祖父江に嫌がっている風はなかった。
次に源二郎が手をつけたのは、白井が馴染みだと言っていた蕎麦の屋台探しだった。昼の九つ頃から出ていると言っていたから、中食をその屋台で食べながら、白井のことを尋ねるつもりだった。
万蔵とは夕方の七つに堀江町で待ち合わせることにし、源二郎は一人、前に屋台がいた深川の佐賀町へ向かった。
源二郎が佐賀町についたのは八つ近くだったが、目当ての屋台は佐賀町の辺りに見当たらなかった。屋台が客を求めて場所変えするのはよくあることだ。
念のため付近で屋台のことを尋ねてみたら、昨日はこの辺りに来ていたと、干鰯屋の丁稚が教えてくれた。屋台を引き続けているのは確かだと、源二郎は佐賀町から東へ、例の屋台を探しながら歩いた。しかし、なかなか見つからない。ひょっとしたら、今日は休んでいるのかもしれない。
源二郎は屋台探しを半ば諦め、途中にあった飯屋で中食を食べた。
食べながら、椙杜神社を見張るのも手だと思った。賊の一味らしい男が現れるかもしれない。そして、舟庵の診療所の待合室から聞こえた「しらい」というのも気になる。
飯屋を出た源二郎は深川から永代橋を渡り直し、今度はそこから北へ、椙杜神社へ向かった。
この日も神社にはぽつぽつと人影があった。
この時代の人間としては信心深くない方の源二郎だったが、昨日は手前で引き返したのを思い出し、二日続けて近くへ来ておきながら参拝しないのはさすがに気が引け、拝殿で賽銭を投げて手を合わせることにした。神様にはみのの安産、母子の息災と探索の成功を祈った。
参拝した後に改めて境内を見回した。
田之助が御神籤を引くという話に、何とはなしに御神籤が結びつけられている、境内の奥の方にある大木へ足が向いた。この時には人気がなかった。
定期的に処分されているのだろうが、大抵どこの神社にもいつもそれなりに御神籤が木に結びつけられている。比較的最近始まった風習だが、すっかり根付いている。
昨日、田之助は御神籤を引いたのだろうか。引いたとしても、それをここに結びつけたとしても、それがどれか、わかるわけがない。
そう思いながら、源二郎は結びつけられた御神籤をしばらく眺めていた。ふと何か違和感を感じた。何に違和感を感じたのか、すぐにはわからなかった。
源二郎は御神籤が結びつけられた木の回りを歩き、枝を一本一本、もう一度上から下、端から端を見つめた。
――あれだ。太さが少し違うように感じる……
源二郎はその御神籤に手を延ばした。上の方に結びつけられていたが、源二郎の背丈ならば楽々届く位置である。その辺りには十本くらいの御神籤が結びつけられていた。その中の一本だ。
枝からほどいて中を開けてみた。
太いと思った通り、御神籤の中から二つ折りされた、四寸(約12cm)四方ほどの大きさの紙が出てきた。
源二郎は逸る気持ちを抑え、慎重に紙を開いた。中に書かれていたのは線と丸や四角といった記号だけだった。しかしその線が何を意味しているか、すぐにわかった。どこかの家屋の図面だ。
――これは……まさか……
つなぎの証をそんなに簡単に見つけられるとは思っていなかったから、源二郎は別の可能性を考えた。だが、思い浮かばない。
参拝したご利益かと思った瞬間、すぐ後ろに人の気配があることに気づいた。退路を塞がれている。
――しまった!
そう思った時、源二郎の首に太い右腕が巻き付いた。首を絞めて殺す気だ。
とっさに源二郎は後ろに立つ相手に肘鉄を喰らわせた。だがそこらの破落戸ならばかなりこたえるはずの肘鉄の打撃に、相手はわずかに怯んだだけだった。首締めの力は変わらなかった。
――強い……
そう思った。同時にこんなに接近されるまで気配に気づかなかった自分の間抜けぶりを悔やんだ。
息ができず、頭に血が行かず、色の見え方がおかしくなりかける中、このままむざむざ殺られるものかと、源二郎は一気に後ろへ下がった。引きずられそうになるのを腹に力を入れて持ちこたえ、その動きを逆手に取って、相手に身体をぶつけるように倒れこんでいった。頭が相手の顎に当たることも願っていた。
だが相手は源二郎を受け止めて頭突きを交わし、倒れこみもしなかった。しかしさすがに首を締める力が緩んだ。
源二郎はその緩む瞬間を待っていた。倒れこんだことで相手の体勢を把握できていた。
すかさずいくぶん前屈み気味になり、後ろ蹴りで相手の右足を内から外へ大きくはらう。内から外へはらわれては体勢が崩れる。
相手はとうとう首から腕を離した。普通ならば倒れこむのに、相手が倒れる音は聞こえてこなかった。
源二郎は咳き込みながら、すぐさま相手に向いた。
そこには見知った顔があった。
気配にも、首に巻きついた腕が緩んだ時に見えた傷にも覚えがあったから、驚きはしなかった。
ひたすら、違っていることを願っていた。
白井般右衛門はすでに体勢を立て直していた。にっと片頬で笑った。
「なかなかやるな。思った通りだ」
「どうして……」
「言ったはずだ。容易く人を信じるなと」
源二郎はかぶりを振った。
「違います。どうして、あなたのような人が盗賊の仲間に入り、無腰の町人を斬殺しているのか、それが知りたいのです。大川で子供を助けたあなたが、どうして……麹町の伊勢屋一家があなたの弟を陥れたわけではないでしょう?」
決めつけた言い方をしたこの時、源二郎は白井が否定することを願っていたのかもしれない。
白井は無表情になった。
「お主にはわからぬ。わかってはならないことだ」
次の瞬間、白井の手から何かが源二郎に向かって飛んできた。とっさにそれを避ける。小石だった。
石を避ける間に白井が目の前に迫っていた。
白井の右の手刀を源次郎は左腕で受けた。一瞬、腕が痺れた。と、思ったと同時に突きが鳩尾へ入った。その動きを予想できたにもかかわらず、源二郎はその突きを防ぐことができなかった。
鳩尾への一撃も息ができなくなる。痛みと息のできない苦しさで源二郎は思わず腰を折った。
その首筋に間髪入れず、白井の手刀が振ってきた。
源二郎がこんなにやられたのは、十代半ばに剣術の師匠に叩きのめされて以来のことだった。
一撃、一撃の衝撃が凄まじい。
源二郎は膝をついた。途端に今度は顔に一発喰らった。まだ息が戻らないまま、後ろへ倒れる。
続けて蹴りを入れてくるかと思ったら、白井は源二郎の両襟を掴んで立たせた。
襟を掴んだまま己に引き寄せ、無表情な顔で言った。
「町方の役人だということを隠していたな」
「お、お互い様だ……」
源二郎は白井を睨みつけた。
「なぜ五歳の子まで見殺しにした!なぜ止めなかった!あんたなら止められたはずだ!」
口の中を切ったらしく、そう叫んだ源二郎の口からとんだつばきは赤かった。
白井の頬に赤い一滴がついた。無表情の目が憤怒の目に変わった。
その憤りの目に源二郎は殺されると思った。しかし、不思議と怖くはなかった。探索の途中ということだけが気掛かりだった。
源二郎の腹をまた衝撃が貫いた。膝蹴りを入れられたのだ。自分より背丈の高い男に襟を掴まれているから、腰を深く曲げられない。
思わず手で腹を庇おうとする本能的な動きを押し止め、源二郎は右手で横から相手の顎を狙った。そんな程度で白井がぐらつくとは思っていなかったが、次の攻撃への布石として、だ。なんとか一矢報いたかった。
しかし白井は肘で源二郎の抗いを防ぎつつ、また腹に蹴りを入れてきた。
息ができないのは辛い。身体が思うように動かなくなる。
――畜生!あんたが兄を斬った下手人だなんて!畜生!
今や確信に変わっていた。
心の中でその言葉を吐きながら、源二郎は膝蹴りがこたえたように膝を曲げた。次の瞬間、源二郎は伸び上がり、白井の顎に頭突きを喰らわせた。
さすがの白井も思わず怯んだ。その隙を逃さず源二郎は内から腕を回して襟を掴んでいる白井の手をほどき、蹴りを入れた。
だが素早く白井は動き、源二郎の蹴りは膝の急所を外れた。
源二郎はその体勢から白井が刀を抜くと思った。だが抜かなかった。張り手が飛んできた。
源二郎はなんとか避けたが、避けるのに精一杯で攻撃に出ることはできなかった。
白井の手刀を今度は両腕を交差して受け止めた。
衝撃で足元が崩れそうになるのをなんとか堪える。
相手が刀を抜かないとなると、自分も抜けない。源二郎はそう思っていた。しかし素手では明らかに不利だった。体格の差以上の力の差が一撃、一撃にあった。
張り手、突き、蹴りの連続攻撃を源二郎はなんとか両腕で防ぎ、身を交わして急所にあてられるのを防いだ。かろうじて防ぎながら、不思議な武術だと思った。
そう思った直後、とうとう鋭い突きを脇腹に喰らった。強烈な痛みと嫌な音がした。肋が折れたに違いない。
しかし、源二郎は突きを受けた代わりに、ほぼ同時に、白井の顎を正拳で殴っていた。割に合わない攻防だった。そして、攻防はそこまでだった。
胸の痛みによろめいた源二郎の顎を容赦なく白井の手が下から殴りあげた。頭に炸裂したその衝撃で源二郎の意識は真っ暗になった。
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