第8話

 耳にしたことがすぐには源二郎の頭に入らなかった。一瞬の間を置いて、返した。

「何処で聞いたのだ?」

「椙杜神社前の茶屋で、でございます。二日前にお参りに行った帰りに一休みした茶屋で」

「そのような身重で椙杜神社まで出向いたのか」

 源二郎の驚きにみのは初めて笑みを見せた。

「椙杜神社は近いですし、じっとしてばかりも身体に悪いのでございますよ。もちろん産婆のおさんさんが同道してくださいました」

「まぁ、こうして元気にしているのだから、大丈夫だったのだろうが……くれぐれも無理はしないようにな」

 みのがふっと笑みを消し、戸惑った表情になった。

「そんなにお顔の色が変わるほど心配してくださるなんて……」

 一瞬迷ったが、源二郎は思いきって言った。いや、言わずにいられなかった。

「私の母は私を産んですぐに亡くなったのだ。姉を産んだ時も兄を産んだ時も安産だったから、まさかそのようなことになるとは思わず、母は私を産む直前まで動き回っていたらしい。だから……だから、くれぐれも油断せぬようにな。母の命と引き換えに産まれたと知った子は……」

 そこで源二郎は口をつぐんだ。苦い過去が頭に甦っていた。幼い時に姉に言われた一言が。

「そうでございましたか……ですが、榊様のお母上様はあの世から榊様を見守り、このように立派に成長なされたことを心から喜んでいらっしゃるはずです。母とはそういうものです。中には子を大事に思えない者もいると聞きますけども、そんな人はごくわずかですから」

 みのは腹を愛おしそうに擦りながら微笑んだ。

 源二郎はつい自分のことを話してしまったことに恥ずかしさを覚えた。

「余計なことを申した。続きを頼む」

 みのは頷いて続きを語った。


 その声は後ろから聞こえたという。

 誰かと話している。そっと後ろを振り向くと、茶屋の奥に浪人と町人が一つの縁台に並んで座っている背中が見えた。珍しいことに、二人は店の奥を向いて座っていたのだ。

 浪人も町人も手頃なことから流行っている、同じような藍縞の着物を着ていた。浪人は袴を身につけていなかったから、髷と刀を帯びている、いないの違いはあれど、まるで双子が座っているようだと、みのは見た瞬間に思ったという。二人にはそんな似た雰囲気があった。

 声のした方向といい、他にそんな声を出しそうな人物は店の奥に見当たらなかったので、みのはさっきの声はあの浪人に違いないと、心の臓が早鐘のように打っているのを感じながら、後ろの会話に聞き耳を立てた。

 喋ったのはもっぱら町人で、聞き覚えのある浪人の声は町人の声の合間に二言、三言聞こえてきただけだった。だが、そんな短い言葉でも、あの夜に聞こえてきた声だとみのは確信した。

 話の内容はよくわからなかったが、どうも富籤のことらしかった。「当たり外れ」とか「今度こそ」という町人の声が聴こえたのだ。

 まもなく二人は立ち上がった。

 店を出る浪人の顔をみのは窺おうとしたが、笠を被る仕草で見ることはできなかった。

 追いかけようかと思ったが、連れの町人が店を出たところでじろりとみのを見返ったため、立ち上がることができなかった。恐ろしい目だったのだ。

 みのは二年前のあの夜の恐怖をまざまざと思い出した。お腹の中の子がみのの恐怖を感じ取ったかのように足をバタバタと動かした。しばらく動くことが出来なかった。


「二人は神社の方へ歩いて行ったのです。身重でなければ、後をつけたのですけど……」

「後をつけるなど、とんでもない!」

 思わず源二郎の声は高くなった。

「相手は盗賊なのだ。身重でなくとも後をつけてはならぬ」

 みのは源二郎の剣幕に驚いたらしい。目をぱちくりさせた。

「そうでございますね……でも、あの賊を捕まえるお手伝いができたらと……」

「その気持ちだけで十分だ。あとは我々に任せるように。もしもまたその二人を見かけるようなことがあっても、決して近づいてはならぬ。見かけたことは教えてもらいたいが、それ以上のことは無用だ。良いな」

 源二郎はみのの目を見つめながら言った。薄化粧しているみのの頬に少し赤みがさした。


 清水屋から舟庵の住居兼診療所へ向かいながら、源二郎は町人姿の男がみのの顔をじろりと見返ったということが気になって仕方がなかった。

 みのに覚えのない声だったものの、賊である浪人と似た雰囲気があったということから、かなりの確率で町人髷の男も賊だろうと源二郎は思った。

 金の運び役か船頭役か。みのが声をはっきりと聞いていない浪人ということも考えられる。押し込みの時だけ武士の格好をし、日頃は町人として暮らすというのは、町方の目をくらますのにも良い。

 ――もしもその男が賊ならば、おみののことを調べはしまいか。調べないとわからないならまだいい。一番怖いのは、その男がおみのの顔を見ただけで、中屋の生き残りだと気づいた場合だ。……頼るのは癪だが、ここは真の字を頼るしかないか……



 堀江町に着くと、再び源二郎は黒羽織を脱ぎ、十手ともに万蔵の風呂敷に包ませた。ちょうど七つ(午後四時頃)の鐘が鳴った。

 再び訪れた舟庵の住居兼診療所は診療を終えたという印か、朝は開けっ放しだった引戸が閉まっていた。

 路地から表通りに出る口は、幸い一つしかなく、源二郎と万蔵は、路地の出入口が見える斜め向かいの蕎麦屋に入ることにした。入り口近く、格子窓傍に置かれた縁台に座り、二人とも掛け蕎麦を頼んだ。

 昼からの聞き込みで何かわかったかと尋ねると、万蔵は田之助と藤吉が住む長屋に行って同じ長屋の住人に話を聞いていた。

「町方の手先とバレてないだろうな?」

 源二郎の確認に、万蔵は笑って答えた。

「でぇじょうぶですよ。どっちでも借金の取り立て役の振りしやしたからね」

 実はそれが本業ではないだろうなと源二郎は思った。というのも、万蔵がどうやって稼いでいるのか謎なのだ。源二郎は大した金額を渡していない。時々源二郎が飯を奢ったり、万蔵が夜食を食べに榊家へ現れたりしているが、ほかの日の食費や長屋の店賃を賄うのに源二郎が渡している金額で足りるわけがない。


 万蔵が確かめたところによると、藤吉の借金を作った息子は家を出ており、一緒に暮らしているのは妻と娘だった。暮らしぶりはいたって慎ましやかで、妻、娘との仲も良いらしい。

 田之助の方は母親との二人暮らしだった。父親は田之助が十の時に他所に女を作って出ていったという。その母親も最近は田之助の言動に対して口喧しく、田之助は長屋にあまり戻ってきていないという近所の話だった。

「なんでも田之助は医者になりたかったようなんですけど、ココがついていかなかったらしくて」

 万蔵は自分の頭を軽く手でたたいた。

「で、舟庵先生が自棄やけを起こしかけた田之助を薬箱持ちで雇い続けてるそうでやす。時間はかかっても、少しずつ必要なことを覚えてくだろうって。優しい先生ですよね、舟庵先生って」

 そうだなと相槌を打ちながら、田之助の賊に繋がっている可能性は高くなったと源二郎は思っていた。自棄を起こしかけた時は悪党につけこまれやすい時である。そして、田之助がよく行くという椙杜神社の参道で賊の一味らしい男も見かけられている。

 ――ひょっとして、ひょっとしなくても、椙杜神社が繋ぎの場か。


「食べ終わるまで出てこねぇでくれよぉ」と一言呟いて万蔵は蕎麦をズルズルっと勢いよく啜った。三口で食べ終えそうな勢いだ。

 その横で源二郎は黙って路次の出入口を横目に蕎麦を啜った。頭の中では葛藤が起こっていた。

 みのが見た、藍縞の着物を着た落ち着いた響きの良い低い声の浪人……自分の知る誰かと印象が酷似している。しかし、それを認めたくない。

 ――ここのところ、ずっと引っ掛かっていたのは、それではないのか。おみのが落ち着いた低い声と言った時から、自分の頭に引っ掛かりがあったのではないか。一瞬感じたあのときの悪寒。悪党の気……

「旦那、出てきやしたよ」

 万蔵の声に源二郎は我に返った。

 目を開けたまま眠っていたような気がした。

 出入口の方を見ると、慈姑頭が助手と薬箱持ちを引き連れ、北へ歩いていく。田之助の顔を見たかったのに見逃してしまった源二郎は、すぐに蕎麦屋を出て、そっと後をつけ始めた。万蔵が当然というようについてくる。


 助手は後ろ姿でも見覚えがあった。平三郎だ。薬箱持ちは藤吉よりも大柄で後ろ姿からも若いと知れた。

 あれが田之助かと、源二郎はその歩く様子を観察しながら後をつけた。

 町境の大通りへ出ると、一行は西へ向いた。その時に漸く薬箱持ちの横顔が見えた。

 源二郎に覚えのある横顔だった。

 はて、何処でと考えてすぐに気づいた。

 昼頃、椙杜神社の参道にある茶屋に座っていたときに見たのだ。昼過ぎまで非番だったのか、あの時は昼休みだったのか、ともかく、田之助は今日椙杜神社へ行った。参道で見かけた、つまらなさそうに歩いていた若い男の一人だ。万蔵が聞き込んだ話からは年は二十五ということだが、もう少し若く見える。茶屋の前を通り過ぎるのを見た時、源二郎は自分より年下かもしれないとすら思っていた。

 ――あの男が田之助だったとは……明日にでも直に質してみるか。

 源二郎は万蔵にそっと引き上げの合図をした。



 その夜、源二郎は久しぶりに青井家の冠木門を叩いた。

 門を開けたのは初めて見る、まだ十代に見える小者だった。

 源二郎は一瞬戸惑い、「隣に住む榊源二郎と申す。真の……真乃様はおいでか?」と、無難だと思うおとないをした。

 途端にブーッと吹き出す音がした。それから「わーっはっはっはっは!」と大笑いが辺りに響いた。声に聞き覚え大有りだ。

「源二郎、無理せんで良い」

 笑いながら真右衛門が近づいてきた。

「おまえが『真乃様』などと、天地がひっくり返る」

 真右衛門の姿に新参の小者は直立不動になった。

 源二郎も言い慣れない呼び方に口が滑らかに動かなかったから、苦笑いしながら頭を下げた。

「ご無沙汰しております、真右衛門様」

「おいおい、『叔父上』だろう。ここでそんな他人行儀はないぞ。真乃はまだ戻らぬが、外泊するとは聞いておらぬから、そのうち帰ってくるであろう。ちょうど良いところへ来てくれた。晩酌の相手をしてくれ」

 真右衛門は源二郎の肩を軽くたたいて式台へと誘導した。

「夜食は済ませたのか?」

「いいえ、まだです」

「では、少しばかり食べていけ。満腹にしてはおさちが怒るだろうからな」

 真右衛門はちょうど濡れ縁にいた女中に源二郎にも酒の用意をするよう指図した。

 源二郎は嫌な話を聞かされるかもしれないと思った。しかし、ここで急用を言い訳するのはあまりに白々しい。

「真の字はまた用心棒を?」

 真右衛門の後ろを歩きながら源二郎は尋ねた。真乃が用心棒をしているとなると、他を当たらないといけない。

「いや、例の本郷の寮だよ。この夏に住み込みで用心棒をしていた……ちょっとした祝いごとがあって招かれたと、八つ近くに出掛けた」

 明日中に確かめろと言っておいて、自分は祝いごとに出掛けたかと、一瞬は思ってしまった源二郎だったが、そもそも真乃は関わる必要の無いことである。手詰まりだったのだから、舟庵の付き人が怪しいと活路を開いてくれたのは大変ありがたい話だと思い直した。そのうえ、自分はさらに関わりを持たそうとしている。


 居間には既に真右衛門のための晩酌の用意がしてあった。すぐに女中がもう一つ膳を持ってきた。

「先ほどはどうして門の近くにいらしたのですか?」

 真右衛門の前に座りながら源二郎は尋ねた。

「ん?いや、新入りの様子を見に行ったところだったのだ。少々わけありなのでな」

「わけあり……」

「人足寄場を出たばかりなのだよ。先に勤めた武家屋敷で刃傷沙汰を起こしたのだが、一切訳を言わなかった。斬りつけた相手は前にも新入りを苛めてやめさせたことのある男だったから、人宿も雇った主も、温情を願い出て寄場送りになった。二年前のことだ。富三と少し似ているぞ。見た目ではなくて、無口で無愛想なところがな」

「富三と似ているなら、良い小者になりますが……」

 源二郎は門番をしていた若者の顔を思い浮かべた。よく言えば意思が強い、悪く言えば頑固そうな印象だった。

「うむ、そうなる見込みがあると思ってわが屋敷に引き取った。そろそろ若い者を雇わねばと思っていたところだったからな。ところで、真乃が用心棒をしているか尋ねてきたということは、用心棒を頼みたい相手がいるのかな?」

 察しの良い真右衛門だから、源二郎は驚かない。

「はい。中屋の生き残りのおみのという女性にょしょうを守ってもらいたく」

「中屋の生き残り……あの乳飲み子とともに難を逃れた若女房か?今はどこにおる?」

「一年ほど前に瀬戸物町の菓子屋、清水屋に嫁入りし、今は来月が産み月という身重です」

 源二郎は真右衛門に酌をしたり、返されて少し酒を飲みながら、ざっと経緯を話した。

 真右衛門は黙って源二郎の話を聞いた。一通り話し終えた時にやっと口を開いた。

「おみのは唯一の証人だな。二人の賊の声を聞いている……」

「はい。ですから、警護する必要があると思うのです。といって、大袈裟なこともできません。もしもまだ賊が気づいていないなら、そのまま気づかぬようにしたいと思っております。さらには身重なので、あまり心身に負担をかけたくもありません。それ故、真の字に身辺をこっそり警護してもらうのが一番良いのではないかと思ったのです」

 真右衛門はじっと源二郎の顔を見つめてきた。それから源二郎の盃に酒を注ごうとした。源二郎はあわてて盃を持ち上げた。

「……真乃はおまえのことをよくわかっておるな。一緒に育ってきたのだから、当たり前か。小さい頃はよく喧嘩もしておったが」

 源二郎は真右衛門が何故その時にそんなことを言ったのかわからなかった。黙って一礼し、盃を口に運んだ。

「真乃はおみのの警護を引き受けるだろう。おまえは安心して探索に励むがよい」


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