第7話

 二つ目の待合室は六畳の広さで、隣と同じく板の間ながら、厚めの座布団が置いてあった。この時には誰もいなかった。

 隣の待合室から色々な話し声が聞こえる。

 源二郎は聞き耳を立てた。この診療所の常連もいるのだから、その話の中に思わぬ手掛かりがあるかもしれない。

 だが引っ掛かるような話は聞こえてこなかった。若先生も助手二人も評判は悪くない。もっとも、近くに本人がいるのだから、悪口は言えない。

 どきりとしたのは、「しらい」と聞こえた時だった。

 どうやら隣町に「しらい」という浪人が住んでいるらしい。ひょっとして白井般右衛門かと源二郎は一段と息を詰めて隣の会話に聞き耳を立てた。だがそれ以降に「しらい」が出てくることはなく、半刻近く経った頃に源二郎は助手らしい人物に呼ばれた。まだ二十代に見える町人髷の男だった。


 呼ばれた先には、三十代半ばくらいの男が源二郎を待っていた。

 この人物が久庵という若先生なのだなと源二郎はさりげなく観察した。その若先生が案内してきた助手を「平三郎」と呼んだ。

 平三郎は源二郎の斜め後ろに立っていた。よく知らない人物が後ろに立っているのは嫌な気分だったが、医者の助手に場所を変わってくれとは言えない。

 若先生は物腰の柔らかい、品の良い人物だった。武家ならばそれなりの家筋、商家ならばかなり裕福な家の出だなと源二郎は思った。平三郎も裕福な家の出に思えた。医者になるにはそれなりに金がいるから、当然のことかもしれない。この時代、医者になる修行は、基本的には弟子入りである。名医に弟子入りすることが一番だ。そして評判の良い医者に弟子入りしようとすれば競争になり、必然的に何かと金を使うことになる。

 残る助手は舟庵の診察を手伝っているに違いない。

 もう一人の薬箱持ちは七つ過ぎに確認できる。

 そう思いながら受けた診察での若先生の態度はいたって真摯で親切だった。源二郎は後ろめたさを感じた。

 ところが、一通り源二郎の話を聞いて後ろを向くよう言い、源二郎の頭から首、背中をざっとなでただけで久庵はこう言った。

「首から背中の筋がずいぶん強ばっている。これでは疲れが取れないのも無理ありません」

 適当に言った症状だったのに、医者が納得するような首から背中の状態だったらしい。源二郎は驚いた。そんなに背中が強ばっているとは思っていなかった。

『人は案外自分のことには気が付いていなかったりする』

 静馬が一膳飯屋の二階で言った言葉が頭に浮かんだ。


「これからは施術です。少し痛いかもしれません」

 しばらく久庵は源二郎の首から背中を抑えたり、擦ったりした。確かにいくつかの場所を抑えられた時にはかなりの痛みが走り、思わず逃げかけた。

 施術を追えてから若先生は文机で何やら認めながら、源二郎に言った。

「まずは毎日ゆっくり湯につかることです。少しずつほぐしていくこと。少しほぐれてきたところで按摩を頼むのですね。今の固さで按摩を頼んでは筋を痛めかねない」

 起き上がってみると、確かにさっきより身体が軽い感じがした。素直に源二郎はそのことを口にした。久庵は微笑んだ。

「それは良かった。しかし、何もしないとすぐに元どおりです。湯にゆっくりつかることと、武術の鍛練は激しくない程度に、剣術だけではなく、柔術や槍、弓などを組み合わせて鍛練なさることです、それから稽古の後には必ず伸びをすること」

 思えば、湯屋へはほぼ毎日行っているが、俗に言う『烏の行水』で、剣術の稽古はしばらくやっていない。色々仕切り直さないといけないのかもしれない。久庵の言葉に源二郎はしみじみと己の暮らしをふりかえった。


 源二郎が舟庵の診療所を出たのはもう九つに近かった。ぐるりと舟庵の住居兼診療所の周囲を一周してみた。舟庵の助手をしている男を見かけることができるかもしれないと思ってのことだ。

 残念ながら、外からは舟庵もその助手らしい男も見ることはできなかった。

 源二郎は万蔵との待ち合わせ場所へ向かった。



 待ち合わせの椙森神社の参道に源二郎が着いた時、万蔵はまだ来ていなかった。

 椙森神社は富籤が有名である。それほど大きな神社ではないが、場所の便利さもあり、この日も境内はそこそこ賑わっているようだった。

 神社の参道の入り口にある茶屋の縁台に源二郎は座って団子と茶を頼み、万蔵が現れるのを待つことにした。

 受付にいた男も平三郎も久庵も、源二郎の印象ではシロだった。部屋住みの頃に破落戸といったタチの悪い連中と関わったことのある源二郎である。それなりに人を見る目はあると思っていた。

 残るは二人だ。

 万蔵の聞き込みで何か手懸かりが得られることを願った。

 源二郎が三本目の団子を食べ終わる頃、万蔵が西の堀江町ではなく、南の庄助屋敷の方から駆けてきた。

「旦那、遅れてすいやせん!色々おもしれぇ話が聞けたもんで、ついつい、あちこちで長居しちまいやした」

 頬が紅潮しているのは走ってきたからだけではないらしい。


 万蔵は茶を三杯、団子を六本食べながら、聞き込みの成果を披露した。

 助手の三人も薬箱持ちの二人も、それぞれに金が絡む問題を抱えていたのだ。

 若先生は譜代御家人の三男なのだが、家督を継いだ長兄がちょくちょく金の無心にきて困っているという。

 平三郎は商家の嫡男だったが、父親が商いに失敗して借金の返済に追われており、源二郎が会うことのできなかった俊介という助手は、二十一歳と五人の中では一番若く、半年ほど前から岡場所の遊女にのぼせているらしい。とはいえ、借金を作るようなことはしておらず、恋わずらいで仕事が手につかないのが問題なのだった。

 そして、源二郎が行った時に受付をしていた藤吉は、息子が博奕で作った借金の返済に追われており、源二郎がこれから姿を確認できるであろう田之助は芝居通いで散財しているという。年は今年で二十五歳と五人の中では俊介についで二番目に若い。

 この短時間によくそれだけ聞き出せたなと、源二郎はさすがに感心した。真乃も万蔵の聞き込みの術を高く評価している。実はそれがこのまま手札を出せという一番の根拠なのかもしれない。

 人はみな何らかの悩みや問題を抱えているものだなとしみじみ思いつつ、源二郎はまだ話すことがあるらしい万蔵が喉を潤して話を再開するのを待った。


「……で、田之助なんですがね、よくあることっちゃあ、よくあることでやすが、芝居だけでなく、富籤にものめり込んでるそうでやす。ここだけじゃなく、あちこちの富籤に、でやす。一年くれぇ前には小銭当てたとかいって芝居の桟敷席買ったそうでやすよ。富籤買うにも金がいりやすからねぇ。ちっとくらい当たっても元は取れてねぇでしょうにねぇ。ま、信心深いっていう人もいやしたけどね」

「信心深い?富籤を買うために寺や神社へ足しげく行くからか?」

「……と、あっしも思ったんでやすけど、田之助って奴、籤とつきゃあ何でも好きなのか、御神籤ってのも好きらしくて。ここにもちょくちょく来て御神籤引いてるってことで」

 それならお前と同じで博奕も好きなんじゃないかと源二郎は思ったが、口には出さなかった。

 参道に向いて座っている源二郎の目の前を老若男女が行き交っている。こんな時刻なのに、意外に若い男が彷徨いている。そうして、そんな男は皆つまらなさそうだ。

 ――自分もあんなしけた面してるんだろうな。

 源二郎はそう思った。


 万蔵の聞き込みからはどの人物も悪事に加担し得る。とはいえ、絞り込めないことはなかった。思い込みや先入観はいけないが、世の中には傾向というものがある。

 万蔵の聞き込みから一番疑惑を感じたのは田之助だった。若さの悪い面は短慮と無謀なことをやってしまうことである。

 一番若いのは俊介だが、遊女にのぼせ始めたのは半年前である。もちろんなにも知らず十六歳のころに遊びの感覚で賊と関わりを持つことはあり得るが、源二郎は疑惑の濃さでは三番手だと思った。

 源二郎が考える田之助の次に可能性が高いのは藤吉である。いかにも人の良さそうな男だったが、親は子供のこととなると、案外簡単に道を踏み外すことを源二郎は父や兄、真右衛門から聞いて知っているからだ。


 源二郎の父は吟味筋の役には全く就かなかったが、会所や高積み、橋の見廻り役を勤め、江戸の町を常に歩き回って町役人や商家と係わることが日常だった。当然、町や人々の間で起こる様々なことを見聞きしていた。そんな町での見聞を食事時に息子達に聞かせた。町奉行所での勤めだけでなく、浮世を生き抜くのに必要な知識になると思っていたからだろう。


 そんな父や真右衛門から授かった事例と己の経験から、まずは田之助と藤吉を調べ、助手三人の追及は田之助と藤吉の疑惑が晴れてからだと源二郎は思った。

 上に報告し納得させることができれば、人手を割いてもらえるが、真乃の推測と万蔵の聞き込み程度では説得するに不十分だというのが、この時の源二郎の判断だった。


 舟庵が往診に出かけるまでの時間潰しが問題だった。まだ九つ半(午後1時)にもなっていない。

 源二郎は一旦奉行所に戻ることにした。ここからならば源二郎の足だと四半刻もかからない。念のため、万蔵をこの辺りに残しておくことにした。

「引き続き、今度は田之助と藤吉に絞って聞き込みをしてくれ。それから……」

 源二郎はためらった。万蔵はじっと源二郎が続きをいうのを待っている。

「いや、何でもない」

 万蔵は怪訝な顔をした。源二郎は日頃言いかけてやめることをまずしないからだ。


 奉行所に戻った源二郎を、思わぬ伝言が待ち受けていた。清水屋のみのから言伝てがあったのだ。ご足労をおかけするが、今一度清水屋にお越し願いたいという。

 何か思い出したことがあるのかもしれない。源二郎は一旦戻って来てよかったと心から思い、すぐに清水屋へ向かった。幸い、清水屋のある瀬戸物町は堀江町に近い。

 源二郎が清水屋へ行くと、みのが待ち構えていたように、すぐに大きなお腹を抱えて店先まで出てきた。源二郎が身体を気遣うと、外で話す方が良いという。

 さらにはちょうど帳場にいた、清水屋の人の良さそうな丸顔の主人もみのの「ではときわへ参ります」という断りに快く頷いたので、源二郎は主に軽く礼をして、みのより先に店を出た。

 みのは女中一人を連れ、源二郎と共に清水屋の斜め前にある料理屋へ向かった。

 料理屋の女中はみのを丁重に迎え、奥座敷へ案内した。

 みのは奥座敷に座ると、一つ大きく深呼吸してから口を開いた。

「お忙しいのに、お呼び立てして申し訳ございません。ですが、このような身ですので……」

 源二郎はかぶりを振った。

「こちらから参るのは当然のこと。そなたが気にすることはなにもない。それで、話とは?」

「今でも信じられないのですけども、迷ったのですけども、やはり榊様のお耳に入れるべきではないかと存じまして……」

 みのはまた一つ深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。それから意を決したように顔を上げ、源二郎の目をまっすぐ見つめてきた。

「二日前のことです。あの賊の声を聞いたのです。あの、落ち着いた響きの良い低い声を……」


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