第6話

 舟庵とは堀江町に住む名医と名高く、大店ならば診てもらおうと思って不思議のない医者だ。人柄の評判も頗る良い。漢方薬の知識だけでなく、針や灸、指圧の施術も行い、金創医でもあった。つまり後の世で言えば、内科医兼整形外科医兼理学療法士といったところである。人気があるのは、的確な見立はもちろんのこと、その対処の幅広さゆえだ。


「確かに帳面のどこにもそんなことは書かれていなかったが……あの舟庵先生が賊と通じているというのか?ありえんだろう」

 過去に表では善人面を被り、裏で悪事を働いていた商人の例があることはあるが、舟庵は患者が多くて寝る間も無いとまで言われるほど流行っている医者だ。賊と通じる余裕があるとは源二郎に思えなかった。

「もちろん舟庵先生ではない。もちろんと言いきるのは良くないかもしれないが、まず違うだろう。往診は一人で行かないじゃないか。大抵は助手じょしゅと薬箱持ちが一緒だ」

 さち婆さんが出してきた手拭いで足を拭きつつ、源二郎は舟庵の助手と薬箱持ちが誰だったか思い出そうとした。いつもひっそりと舟庵の後ろを歩く二人のおおよその背格好は覚えていたが、顔ははっきり覚えていなかった。二人ではない。何人かいる。舟庵の顔もおぼろげにしか覚えていない。

 源二郎はまた真乃を見た。

「もう目星をつけているのか?」

「見当はつけている。確めてはいない。確めるのはお前さん達の仕事だからな。美味しそうな匂いだなぁ、さち婆さん。もうできたろ?」

 後半は源二郎からさち婆さんに顔を向けて話しかけた真乃だった。匂いからして、芋と牛蒡の煮物らしい。


 自分以上に食い意地が張っていると、源二郎が思う真乃である。もちろん食べる量は源二郎の方が多いが、真乃の食欲はよく食べる源二郎の八割はある。二人揃って好物の鴨の山椒焼きは二人の取り合いだ。前にその取り合いを目の当たりにした万蔵は呆気にとられていた。


 源二郎と真乃は向かい合ってさち婆さんが作った夜食を食べた。

 幼い頃には毎日青井屋敷で並んで食べていた二人だが、源二郎が平同心になってからも、用心棒を引き受けていない時には五日に一度くらい榊家へ真乃は息抜きにやってくる。

 そう、いつもなら真乃にとって榊家で食べるのは息抜きだ。だが、この日は息抜きではなかった。

 さち婆さんはそんな真乃の目的を察して、弟の部屋で一緒に夜食を食べますと、膳を取りに来た富三と一緒に台所を出ていった。


 二人ともあっという間に食べ終え、茶を飲み始めた頃に真乃は詳細を語り始めた。

 話の途中で顔を覗かせたさち婆さんは、源二郎に洗い物なら自分で片付けると返され、まさかあたしらの分まで片付けていただくわけにはと、素早く流しで食器を洗い、また弟の部屋へと戻っていった。

 そこまで気を遣わなくていいのにと真乃はさち婆さんを止めたが、さち婆さんは源二郎が今調べているのが恭一郎を斬殺した賊だということを他から聞いて知っていた。

 恭一郎が産まれる前から榊家に奉公していたさちである。通夜では茫然自失の体でふらふらと歩いていたかと思えば座り込み、葬儀では歩けなくなるほど泣き崩れ、恭一郎の死を自分の息子が死んだように悲しんでいた。

 その下手人を捕まえるための話や行動は、絶対に邪魔したくないという強い気持ちがあるのだ。


 真乃が舟庵の付き人に疑惑を持ったきっかけは、伊勢屋の隣にある瀬戸物屋の女中の話だった。五つの孫まで殺されたのがあまりに可哀想だという話の中で、最近はよく熱を出し、舟庵先生が往診に来ていて、押し込みがあった前日にも来ていたと女中がペラペラ喋ったのだ。

 舟庵と聞いたとき、真乃の頭に舟庵とその付き人が例の賊が押し込んだ商家の共通点ではないかと閃いた。

 そこからは真乃も町方与力の家の者らしく、成田屋と中屋、さらには播磨屋、岡崎屋、近江屋についても調べた。

 しかしその方法は、件の大店があった町で名主や近所に聞き込むのではなく、舟庵の住まい兼診療所へ出掛け、診療所を手伝っている女と長く住み込みで働き、住まいと診療所の両方の雑事をこなしている下女に尋ねるという方法だった。

 源二郎はさすがだと思った。己の強みを存分に活かし、最短で知りたいことを知り得たということだ。

 浪人姿の真乃は大柄なことも手伝って、当然、稀にみる美男子に見える。そんな真乃に女達は同性とわかっても、話しかけられれば心ときめき、聞かれれば何でも素直に答えてしまうのだ。


「明日、早速確めてくると良い」

 真乃は片胡座で座り、立て膝に片腕を置いた気楽な格好に見合った軽い調子で言ってのけた。

「兄君に言わないのか?」

「兄上に注進したところで、どうせお前に確めろと指示するだけじゃないか。『詳細は真乃に聞け』でな。二度手間になる。それに、そろそろお前が手柄をたてて良い頃だ」

 最後は源二郎にとってあまりに意外な言葉だった。

「手柄なんぞたてなくて良い。妬まれるだけだ。一生、平同心でいたいくらいだ」

「妬んで嫌がらせしてくる奴なんざ、所詮は小粒のおべっか野郎なんだから、隙をみて一度お前の本気を見せれば、おとなしくなる」

「……言うことがそこらの破落戸よりタチ悪いぞ」

 真乃は湯飲みを膳に置くと、面倒くさそうに立ち上がった。

「さて、隣へ帰るとするか……」

 いつも勝手口から入り、勝手口から帰る真乃である。

「明日のうちに確めろよ」

「ちょっと待て。助手と薬箱持ちのことも女達から聞いているんだろう。出し惜しみするな」

「いきなりそこまで聞けるか。十人もいねぇんだから、それくらい確めろ。万蔵をうまく使えば簡単だぞ」

 そう言って真乃は勝手口の戸を閉めた。


 源二郎は真乃が去ってから暫く真乃が突き止めたことを考えた。

 確かに舟庵のような名医に往診を頼むような病人は、まず主一家の誰かだから、医者の一行は屋敷の奥まで入り込める。何度も往診しているうちに屋敷のあちこちを確認できる。

 医者は盲点だったと、源二郎は認めた。記録に全く名前は記されていなかったのだ。

 評判のよい舟庵だから、町方の聞き込みで名前が出てきても、当日に往診していなければ、賊に関係しているとは誰も思わず、尋ねようともせず、奉行所の記録に残すことはもちろん、おそらく口にする者さえいなかったのだろう。


「万蔵をうまく使えば簡単だと?」

 源二郎は思わず呟いた。

 どこまで本気か、わからないところもある真乃だが、源二郎に嘘は言わない。

 源二郎にとって真乃が今では唯一言いたいことを言える相手であるように、真乃にとっても今では源二郎が言いたいことを言える唯一の人間だろう。月水(生理)のことまで源二郎にはボヤいてくるのだから。

 ――ああ、医者に気が回り、舟庵の雇い人に尋ねやすかったのもそのせいだな。

 と、源二郎は思った。

 源二郎はもう何年も医者に診てもらっていないが、真乃は冬場の月水の辛さを少しでも軽くするため、定期的に八丁堀に住む医者から漢方薬を処方してもらい、煎じたそれを不味い、不味いと言いながら飲んでいる。

「飲んでみろ」と言われ、どれだけ不味いのかと、源二郎も好奇心から一口味見したことがある。良薬は口に苦しとはいえ、本当に不味かった。

 効いていないことはないから、そんな不味い漢方薬を真乃は飲み続けているのだろう。もっとも口直しと、漢方薬を一気飲みしたあとには甘い干菓子を頬張っているとは聞いている。

 ともかくも明日やることは決まった。


 源二郎はさらにしばらくぼんやりと壁を見つめていた。

 この数日間、ずっと何かが心に引っ掛かっていた。それが何なのか、どうにもはっきりしないことに、段々苛立ち始めていた。いつから引っ掛かっているのか、それすらもはっきりしない。そんなことは初めてだった。

 ――周りが変に兄の敵討ちを意識しているせいだろうか?

 そう考えてもみた。

 ――……違う。何か大事なことを見聞きしたのに、見過ごしている気がして仕方がない。そんな感じだ。

 源二郎はかぶりを振った。

 明日も町を歩き回る一日になる。


 源二郎は立ち上がると、二つの膳の上の食器を片付けた。洗った後には井戸から水を汲んできて水瓶の水を八分目まで増やす。

 さち婆さんは恐縮しつつも、源二郎がなるべく自分のことは自分でやることを喜んでいる。なにせ、その気になれば、料理はもちろんのこと、繕い物も源二郎は難なくこなすのだ。

 亡き父は源二郎が破れた道着を自分で繕っているのを見て呆れ、兄は何をやっても器用にこなすと褒めてくれた。

 源二郎が繕い物をするようになったきっかけは、育ての母を助けたいという思いからだったのだが、そこから始まり、自分のことは自分でやるようにしてきたのは、いずれは家を出るつもりでいたからだ。まさか兄があんなに早く亡くなるとは思っておらず、どこかの御家人の家へ養子になることは思い描けず、武士の身分を捨てて、巷で生きていくつもりだったのだ。

 真乃以外に話したことはないのだが、恭一郎はそんな源二郎の考えを見抜いていたようである。何かと家に居続けるよう促していた。

 源二郎もすぐに出るつもりはなかった。兄が嫁をもらい、子供が生まれたら……そう思っていた。


 水瓶に蓋をした源二郎に土間の隅に立て掛けてある釣竿が見えていた。

 当分釣りは御預けである。探索となると、事件が片付くまで非番の日はない。

 そう思ううちに白井の姿が頭に甦った。

 源二郎は初めて会った時、白井に自分と似た何かを感じた。それが何なのか、二月足らずの間ではわからなかった。だが、これだけは見えていた。単に二人とも家族を、兄や弟を亡くしているからではない。もっと根本的な何かだ。


 翌朝、源二郎は奉行所に顔を出すとすぐに堀江町にある舟庵の住居兼診療所へ向かった。

 万蔵がいそいそとついてくる。一段と張り切っているように見えた。

 富三は夕方に奉行所へ来るように指図して屋敷へ帰したから、万蔵は自分が手先として富三より頼りにされていると勘違いしたのかもしれない。

 ――聞き込みに関しては、確かに富三より役に立つ。



 舟庵の診療所がある堀江町を目の前に、源二郎は黒羽織を脱いで十手とともに万蔵に渡し、きょとんとする万蔵に指図した。

「もしも舟庵の助手か薬箱持ちが賊と通じているなら、近くに賊が潜んでいるかもしれない。町方が探りに来たと知れるとまずいから、俺は患者として行く。その黒羽織と十手を隠し持っていてくれ。そうして、お前は俺とは別にこの辺りで、助手と薬箱持ちの評判を聞き込むんだ。いいな」

「へい、わかりやした」

 万蔵は引き締まった顔つきで大きく頷いた。

 昼の九つ(午後12時頃)に堀江町の隣町にある椙森神社前の茶屋で待ち合わせることにして二人は別れた。


 源二郎は着流しに二刀を差した非番の日の格好で舟庵の診療所の前に立つと、さりげなく周囲を見回し、見える光景を頭に入れた。

 舟庵の住居兼診療所は間口五間(10メートル弱)の裏店だ。

 時刻は診察が始まって半刻ほどの、朝の五つ半刻頃(午前9時頃)だったが、診察待ちの患者で引き戸を開けたところにある待合室の板の間はすし詰め状態だった。

 源二郎は受付をしていると見える小柄な中年の男に話しかけた。

「この混み具合だと、診てもらえるのはずいぶん先になるんだろうな?」

「初めて……でらっしゃいますよね?」

 なかなか物覚えの良い人物らしい。

「そうだ。昼までに診てもらうのは難しいかな?実は最近身体のだるさが抜けないのだ。大したことはないと思っていたのだが、周りに一度診てもらえと言われた。しかも診てもらうなら、舟庵先生にしろと勧められたのだよ」

 受付の男は納得という顔つきだ。

「舟庵先生に診てもらうとなると、かなりお待ちいただくことになりますが、まずは助手の久庵先生に診てもらうのがいいかもしれません」

 さっそく話が助手に向き、源二郎は内心では喜んだ。

「ほう。助手も患者を診ているのか。助手は何人いるのだ?」

「三人おられますが、先生の代わりに診察なさるのは久庵先生だけです。あとのお二人は見習いですんで」

「見習いということは、ここへ勤め始めてまだ日が浅いということか」

「はい。ですが、お二人とももう五年近く助手を勤めておられますよ。若先生……あ、久庵先生のことです。若先生は九年になりますか……」

 五年近く前とはなんとも微妙である。絞りこめない。

「では、その御弟子の久庵先生に診てもらうとしよう」

 場合によっては話だけ聞いて帰るつもりだった源二郎だが、一人ずつ会って探るしかないと、診察を受けることにした。

 源二郎は藤吉という、受付の男に隣の待合室で待つように言われた。おそらく直参や陪臣、大店の一家用の待合室だ。

 そこへ向かおうとした時、源二郎はさりげなく尋ねた。

「お主、舟庵先生の往診時にはひょっとして薬箱持ちをすることもあるのかな?」

「はい、ございますよ。受付と薬箱持ちはあたしと田之助が交代で勤めておりますんで。……薬箱持ちがどうかなさったのですか?」

「いや、ずっと受付というのは大変だろうと思ってな。薬箱持ちもしているなら、良い気分転換になるだろうと、ふと思って尋ねてみただけだ」

 藤吉は源二郎の答えに笑みを浮かべた。

「ええ、薬箱持ちは良い気分転換になります。あたしなんぞは絶対に入れない御大名様や御旗本様の御屋敷にも入れますから。さすがに奥までは行けませんけどもね」

 男の顔は明るかった。隠し事をしている風はない。

「しかし、往診の供をすると、かなり遅くなるだろう?朝から晩まで大変だなぁ」

「あたし達は往診の間はぼんやりもできますけど、先生は気を抜けませんからねぇ。本当に素晴らしい御方です」

「今日も昼から往診に出るんだろうね」

「昼からというより、夕方ですね。今日の薬箱持ちは田之助ですから、私は早く上がれます」

 もう一人の薬箱持ちは夕方に確認できる。調べは順調に進みそうである。


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