第10話
鋭く走った痛みに目を開けると、見知らぬ初老の男が源二郎を見下ろしていた。じんじんと痛みが左の肋を中心に背中や腹にも広がっている。
「気がついたか。……ということは、軽く触れただけなのにかなり痛かったのだな。少々痛むが我慢するのだぞ」
源二郎は起き上がろうとした。あちこち痛かったが、殊に鳩尾の辺りに鋭い痛みが走り、呻き声が出た。
「こらこら、寝ておらぬといかん。熱が出ておる。熱といい、起き上がるときのその痛がりようといい、やはり肋が折れておるな」
「……こ、ここは?」
「わしの診療所だ。誰にやられたかは知らぬが、相当な力と技の持ち主だのう……死なない程度に、暫く動けなくなるようにやられたな」
何にどう感心しているのか、初老の男は源二郎の脇腹から鳩尾の辺りを頷きながら見ていた。それから左腕を持ち上げた。所々を押さえていく。痛みが走る箇所ではつい呻いた。
初老の男の後ろに見覚えのある顔が現れた。久庵だ。
――そうだ、この初老の人物は舟庵先生だ。
遠くからしか見たことのなかった舟庵の顔と目の前の顔が一致した。
「用意できたか。ちょうど目覚めたところだ。飲ませなさい」
「はい」と一声答え、久庵が
喉が乾いていたから、素直に源二郎は吸筒の中の液を飲んだ。口の中の傷にしみた。味はわからなかった。
舟庵は左腕の次に右腕、それから足を曲げ延ばし、ツボらしいところを押さえて様子をみていた。
「お主もよく鍛えておるが、相手が二枚ほど上だったようだのぉ……折れてるのは肋だけだな。よかったのぉ」
所々で走る激痛に身体はびくつき、気は挫けかけたが、そのうちにのんびりした舟庵の声が遠くなっていった。
次に源二郎が気がついて目を開けたら、万蔵の顔が見えた。
「よかった!榊の旦那が気がつきやした!」
そう叫んで万蔵は後ろを向いた。
「やっと目覚めたか」という声が返ってきた。真乃の声だ。
起き上がろうとしたらめまいがし、身体のあちこちが痛んだ。特に鳩尾の辺りから腹と首から肩が痛い。思わず右で腹を抱え、左で首を触ると、どちらにも厚めに晒が巻かれていた。その二ヶ所だけではない。全身のあちこちに晒が巻き付けられているようだった。不思議な臭いもしている。舟庵にあちらこちらに膏薬を塗った湿布を貼られ、晒巻きにされたらしい。
すぐに向き直った万蔵が起き上がろうとしている源二郎を止めた。
「あ、まだ動いちゃいけねぇっすよ。舟庵先生が三日はアンセイにしてるようにっておっしゃってやした。熱が出てるんでやす。まちがいなく肋が折れてるし、腹ん中に何も起きてないといいがって……腹、痛くねぇですかい?痛くはなくても、何か変な感じがあったら、すぐに知らせろって言われてるんでやす。神社の人が旦那が倒れてるのを見つけて、すぐに舟庵先生を呼んでくださったからよかったものの、いったいどうしてこんなことに……」
万蔵は早口でまくしたてた。
「ここは?」
源二郎は万蔵の問いには答えず、起き上がることを諦めて反対に尋ねた。
「清水屋でやす」
「清水屋?」
「いったんは舟庵先生の診療所に運んだんでやすが、おみのさんが清水屋の方が良いだろうって……」
「なんでおみのに知らせたんだ?」
「おみのさんじゃなくて、真さんに知らせようとしたんでやすよ。そしたら、ちょうど瀬戸物町へ出掛けたってんで、探したら、清水屋でおみのさんと話し込んでて……」
「真の字に知らせる必要がどこにあったんだ、ったく」
「だって……だって、真さんは旦那の身内じゃねえですか。それに旦那がこんなにやられちまうなんて、ただごとじゃねえし」
「源二郎、万蔵にあたるなよ。お前自身が一番悔しいだろうけどさ」
そう言っている間に真乃の顔が視界に入ってきた。
「あの御仁にやられたんだろ?そんなにやられるなんざ、あの人物しか考えられねぇ。刀を抜けば対等にやりあえたろうが、素手じゃ無理だよ」
源二郎はむっとしながら、白井のことをなんで知ってるんだと真乃の顔を見た。すました顔をしている。
「えっ?真さんはそいつを知ってるんでやすか?今回のお調べとは別口でやすか?」
「残念ながら、今回の探索絡みらしい。そうだろ、源二郎」
そこで源二郎はやっと思い出した。
「紙切れ……紙切れは落ちていなかったか?俺が倒れていた辺りに」
再び半身を起こしかけて源二郎は肋から鳩尾辺りの強い痛みに唸り声が出た。
真乃は万蔵を見た。
「どんな紙でやすか?旦那が倒れてた辺りにゃ、中吉の御神籤が一枚落ちてやしたけど、まさかそいつのことじゃないですよね?」
ということは、あの紙は白井が拾って持ち帰ったのだ。賊にとって大事な情報ということである。
源二郎は両目を右腕で覆った。
――やらないといけないことが山ほどあるのに、このざまだ……いや、そうじゃない……なぜ俺は生きている?なぜ殺さなかった?
「おみのさんもおまえのことを心配している。暫くここで休むことだ。私もいるしな。明日には髙山様が話を聞きにお見えになるから、ゆっくりしていられないんだぞ。今夜は一晩安静にしていなくてはいけない、負担をかけるなと舟庵先生が言ってくれたおかげで明日に延びたんだ。舟庵先生に感謝しろよ。あ、それから、富三には打ち明けてあるが、さち婆さんには内緒にしてある。でないとここへ駆けつけ、叫喚の様になってるからな」
「それは色々気を使わせたな」
源二郎は自棄気味に言った。
「おとなしく寝てるから、暫く一人にしてくれ……」
源二郎は目を腕で覆ったまま言った。
「隣の部屋にいやすから、なんか欲しいもんがあったら、呼んでくだせぇ」
真乃と万蔵の気配が部屋を出て、隣の部屋ではなく、その先へ歩いていった。
源二郎は腕で目を覆ったまま呟いた。
「なんで……なんでこうなるんだ……」
源二郎の頭には白井と釣りをした思い出がいくつも甦っていた。
――俺が大事に思う人、好意を持つ人がどんどんいなくなる、一緒にいられなくなる……俺はそういう運命なのか?どうしようもないのか?
生きていればきっと大好きな、大事な人になったであろう産みの母は源二郎が生まれた直後に亡くなった。
実子と隔たりなく育ててくれた第二の母も十一の時に亡くなった。
更には気持ちを打ち明けることなく、道で会えば挨拶するだけだった初恋の少女も、山での修行を終えて帰ってきたら、病で亡くなっていた。
育ての母が亡くなった時も、初恋の少女が亡くなったと聞かされた時も、源二郎の頭には姉に言われた一言が甦った。
幼い頃に姉に言われた一言が、その時の姉の顔も声も、源二郎は忘れられない。
「源二郎は死に神よ。母上の命を奪ったんだから」
今では当時六つだった源二郎にそう言ってしまった姉の心持ちを理解できている。当時、姉は十三歳。もともと気の強い気性のうえに、難しい年頃だった。そのうえ源二郎は三歳までほとんどの時を青井家で過ごし、六歳の頃も半日は青井家にいた。姉にしてみれば、母親が死んだ原因の上に、与力の御家で大切に育てられている源二郎を見ていると、どうにも心がざわついて仕方なかったのだ。
姉の一言に隠れて泣いていた源二郎に恭一郎が見せた対応もまた、源二郎は忘れられない。
兄の姿に源二郎は、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら謝った。
自分は兄からも母を奪ったのだ。しかも兄とはたった三つ違いである。母上のことはほとんど覚えていないと言っていた。
いつも優しい兄だが、本当は姉と同じように自分のことを憎んでいるのではないかと、その時の源二郎は怖かった。
恭一郎は一言、「源二郎のせいじゃないよ」と言い、源二郎の横にくっついて座った。その後暫く黙って恭一郎は源二郎の隣に座っていた。
源二郎は泣き続けた。
そのうち恭一郎が急に源二郎にもたれてきた。
六歳児と九歳児では体格が倍近く違う。
源二郎は「重たいー」と思わず叫んだ。
恭一郎は笑っていた。もたれるのをやめたと思ったら、今度は源二郎をくすぐってきた。
「もう!やめてください、兄上!」と、くすぐったさに泣き笑いになり、怒ってお返しをしようとする源二郎を恭一郎は軽くいなした。そうやって兄と弟は暫くじゃれあった。
いつしか源二郎の涙は乾いていた。
そうして、恭一郎はしっかりと源二郎の手を握り、母屋へと戻った。余計なことは言わず、いつもの態度で源二郎は大事な弟だと、恨んでなどいないと示したのだ。
今でもよく覚えているのだから、源二郎にとってその二つの出来事がどれだけ大きなことだったかがわかる。
だが、ある日突然、そんな強さと優しさを持つ兄も死んだ。よりによって賊に殺された。二十三歳の若さだった。
その一年ほど前からよく寝込んでいた父は兄の後を追うようにその半年後に亡くなった。
一年のうちに二度葬儀を行い、どちらも喪主は源二郎だった。
姉は生きているが、榊の家をとうに出て、会うのは年に数度である。
恭一郎の葬儀で久しぶりに会った姉とは一言しか言葉を交わさなかった。
姉が元気なのは自分を嫌っているからの気がしていた。
関わりは避けた方が良い気がして、源二郎から会いに行くことはない。義兄と甥、姪のために挨拶状や物を送るだけだ。
姉の方も父母と恭一郎の月命日の墓参りは欠かさないが、榊家に来ることはない。
そんな自分が嫁をもらうなど、恐ろしくてできるわけがない。相手を不幸にする気がして仕方がない。それが源二郎の本音である。
頭では必然ではないとわかっていても、そう思い込ませようとしても、心は逃げる。最悪のことを考えてしまう。もしも迎えた嫁が数年のうちに死んだら、ましてやお産で死んでしまったとしたら、源二郎はもう人との深い関わりを一切持てなくなる気がするのだ。
そんな源二郎だから、人付き合いが下手である。道場仲間にそれなりに付き合った友と呼べなくはない人物が何人かいるが、源二郎は彼らとの付き合いにどこかで線を引いていた。
そんな源二郎が白井には思いきって話せたのだ。互いに詮索しないという、やはり線はきっちり引いた付き合いだったが、はじめから素直に振る舞うことができた。楽しくくつろいだ一時を過ごせた。
なのに、そんな漸く見つけた友人は兄を斬殺した仇であり、なにより人殺しの盗賊だった。
そのうえ、源二郎は白井に親しみを感じたのである。大悪党に親しみを感じるとはどういことか。
自分はいったい何なのか。どうしてこんなことになるのか。
真乃は相変わらず元気だ。そんな源二郎の心の闇を見抜いている。白井のことも知っていたようである。
覚えている限り源二郎の傍にいる真乃の存在は、源二郎が人の世を生きていける命綱のような気がしてくる。
今の全身の痛みは自分が抱えている心の痛みそのままだ。源二郎はそう感じていた。
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