第4話

 すぐに刀が襲ってくると、みのはがたがた震えていた。

 だが刀はなかなか襲ってこなかった。

 押し入ってきた男に動きがないので、そっと振り向くと、頭巾を被った大柄な男はじっとみのを見つめていた。そして、突然くるりと向きを変えると、部屋から出ていった。さらに驚いたことに、男は後ろ手に障子を閉めた。

 直後に濡れ縁を奥の方から歩いてくる足音と声が聞こえた。この時、きえはふっと泣き止んだ。

「女と赤ん坊の声が聞こえたぞ」

 酒で潰れたような、しゃがれた男の声だった。

「女は殺った。まだ歩くこともできぬ赤ん坊をわざわざ殺すことはない。我らのことは何もわかっておらぬし、覚えてもおらぬ」

 落ち着いた、低く響きの良い声だった。みのはその落ち着いた声の主が夫を斬り殺し、今、部屋を出た男だと知った。

「おめぇが女を殺るなんざ、珍しいじゃねぇか。確かめさせてもらうぜ」

 ガタリと障子が開きかけた。

「こんなところで潰す暇は無いだろう。急いで金を持ち出すんだ」

 部屋の奥にきえを抱えてうずくまり、二人の会話を聞いていたみのは、身体を強ばらせたが、嗄れた声の男は落ち着いた声の男の言うとおりにしたらしい。二人は濡れ縁を奥へと歩いていった。

 金は義父母の寝室にある。それを持ち出そうとしているのだ。


 このままじっとしていなくてはいけないと頭ではわかっていたが、血と糞尿の臭いでみのは気分が悪くなってきた。臭いの元が夫だと思うと、更に気分が悪くなった。悪夢であってほしいと思った。きえが再び泣き始めた。泣き声が大きくなる。

「お願いだから、静かにして」

 小声できえに語りかけ、なんとか泣き止ませようとした。

 とうとうじっとしていることに耐えられなくなり、みのは先ほど大柄な男が閉めた障子をそっと少しだけ開けて外の様子を窺った。

 賊の一人が千両箱を抱えている背中が見えた。裏の潜り戸へ向かっている。

 その潜り戸からまた男が入ってきた。千両箱を全部持ち出す気らしい。どれくらい義父母が金を置いているのか、みのは知らなかった。

「赤ん坊の声で見つかるじゃねぇか」

 戻ってきた男が潜り戸からまっすぐみのの部屋へ向かって歩いてきた。

 その時濡れ縁の表の方から声がした。

「あぁっ!泥棒っ!」

 声で筆頭番頭だとわかった。

 男は一気に濡れ縁へ駆け上がった。番頭を斬りに向かったらしい。千両箱を担いだ男は急いで潜り戸を出ていった。

 みのはここにいてはきえが殺されると、思わず障子を開けて濡れ縁へ飛び出した。

 しかし、その時、潜り戸からまた男が入ってきた。みのと目があった。

 番頭の悲鳴とみのの悲鳴はほぼ同時に上がった。


 みのは二方向から賊が自分に向かっているのが見えた。床下に隠れようと思っていたのに、足がすくんで動けなくなった。

 だが、ふたりともみのに襲いかかってこなかった。

 濡れ縁の賊は手代の民助が後ろから組み付いて足止めし、潜り戸からこちらに向かっていたもう一人は突然みのの目の前でばったりと倒れたのだ。

 倒れた賊の後ろに頭巾を被っていない侍が立っていた。まだ若い。

 若侍は濡れ縁に上がってきた。呆然としているみのの肩に空の手を置いて、その人物は言った。

「早く床下へ隠れなさい」

 男が右手に持っていたのは十手だった。

 ――お役人様!

 みのは助かったと思った。頷いて震える足で濡れ縁から踏み石を使って庭へ降り、床下へ潜った。

 その間にその御役人は民助が足止めしたもう一人の気を失わせたらしい。男の短い呻きと民助の「ありがとうございます」という声が聞こえた。

 だが、床下からみのは別の賊らしい足を見た。先ほど千両箱を担いで外へ出た賊が戻ってきたのだ。

 覚えのある声が聞こえた。

「一人で乗り込んでくるとはな……」

 賊と役人の若侍の間の緊張が床下に潜むみのにも伝わってきた。みのの胸に顔をつけたきえは漸く泣き止んでいたのだが、また泣きだすのではとみのはハラハラした。


 恐ろしいまでの緊張から賊と若侍は動いた。みのには目にも止まらぬすばやい足裁きに刀と十手がぶつかり合う音が聞こえた。

 みのは御役人が勝つことを祈った。

 何度目かの金属音の後に嫌な音がした。さっき夫から聞こえた音だ。

 どさりと人が倒れた。その顔がみのに見えた。

 御役人の若侍だった。

 みのは口は開いたが声は出なかった。

 賊は濡れ縁にあがった。ほどなく降りてきた。

 続いて男がふらふらの足取りで濡れ縁から降りてきた。濡れ縁でお役人の若侍に倒されていた賊だ。

 その間に御役人の若侍を斬った男は、庭に倒れている仲間の脈を確かめ、おもむろに担ぎ上げた。

 御役人は賊を十手で気を失わせていただけなのだ。

 そのまま賊は中屋を出ていった。

 十人近い捕り方がやって来たのは賊が消えてからさほど経っていなかったのだが、みのには半刻(約一時間)以上かかったように感じられた。

 その間、みのは床下に潜んだまま、ひたすら念仏を唱えていた。

 捕り方の生き残りはいないかと呼ぶ声に応えて床下から這い出た時、漸く涙が出てきたが、今度は止まらなくなった。

 泣きじゃくりながら、あの御役人様が助けてくださったと、そればかり繰り返していたと、後から町役人や生き残った奉公人達にみのは言われた。


「よく話してくれた。つらい思い出だろうに」

 源二郎がねぎらうと、みのはじっと源二郎の顔を見つめながら言った。

「貴方様は、あの、あたくしときえを助けてくださったお役人様の御身内の御方ではございませんか?お名前をお聞きした時にひょっとしたらと思いましたけれども、お顔を拝見して間違いないと思いました」

 源二郎は驚いて、すぐには肯定もできなかった。

「面影がございます。横顔が……目元や口元が似てらっしゃいます」

 源二郎は心底驚いた。兄と似ていると言われたことは、この時が初めてではなかったか。親戚や八丁堀の面々には兄は母方似で、源二郎は父方似だとよく言われる。

 見知らぬ他人は違いよりも似た部分に目がいくのかもしれない。

「長々とお話し申し上げたのは、貴方様はあのお役人様の御身内と思ったからです。それも大変近い……弟様ではないかと。御身内の方には何が起こったかお話しないといけないと……それから、御礼を……」

 そこでみのは涙ぐんだ。

「本当に、本当に……どれだけ御礼を申し上げてもあのお役人様のご恩に報いることはできません。身を挺してあたくしたちのような親子を救ってくださって……」

 源二郎は少し間をおいて答えた。

「あの夜、賊に殺された同心は兄です」

 みのはやっぱりというようにうなずいた。

「だが、兄はお役目でやったこと。そなたが気にすることではない。あの時の乳飲み子がこのように大きくなり、そなたも息災でまた子を身籠っていることを、兄は草葉の陰で喜んでいるだろう。そんな兄だ」

 みのはほっとした顔になった。直後に大粒の涙がその目からこぼれ落ちた。


 みのの話からすると、恭一郎を斬ったのは、みのを殺そうとした奴ではない。

 なるほどと、源二郎の頭の中で整理がついた。兄を斬ったと思われる賊は今朝の伊勢屋でも、主、若旦那と男を斬っていたのだ。女、子供を殺したのは別の奴だ。

 もちろん盗賊の全員が許せないが、殊に弱いものばかりを殺している輩は一番許せない。源二郎は思わず拳を握りしめていた。

 一部で無茶をしたと揶揄された兄の行動も、詳細を聞けば源二郎に納得のいくものだった。

 実はあの夜に恭一郎が出掛けていたのは私用だった。十手を持っていたのは当直を終えたその足で佐久間町の北にある下谷の武家地に住む友人の祝いに出掛けたからだ。その代わり、刀は刃引きしたものを差していた。恭一郎は勤めでは常に刃引きした刀を差していたからだ。

 勤めは終えていても、たまたま通りかかった時に怪しい動きがあったなら、町方の同心として見過ごすことはできず、中から悲鳴が聞こえたら助けに入らずにいられなかった。真面目で正義感の強い兄らしいと源二郎は思っていたが、みのの話を聞いた今では、自分も同じことをするだろうと思った。

 そして恭一郎の武術の腕は高かった。年に二回行われる、奉行による与力、同心の練武検分では稽古を見せる五人に選ばれたくらいである。実際、賊の二人を十手であっという間に失神させたのだ。ちなみに源二郎もこれまでに二度選ばれ、先の御奉行と今の御奉行に剣術の稽古と立ち会いを披露している。

 三人目の男が強すぎたということだ。

 それだけの腕を持ち、女、子供を仲間に嘘をついてまで見逃すだけの善の心を持っていながら、金を盗むために無腰の町人を斬殺するとは、一体、その男の心はどうなっているのか。過去にどんなことがあれば、そのような行動を取るようになるのか。

 可能性を考える源二郎の気持ちは重かった。



 奉行所に戻り、まずは村井に戻ったことを報告しようと、源二郎が年番方の詰所へ行くと、滝田が村井と話していた。

 詰所の入口で躊躇った源二郎を滝田が手招いた。

「さっそく成田屋と中屋のことを調べ直してるんだってな」

 源二郎にそこへ座るよう手で示しながら滝田が言った。

「調べ直すというほどのことでは……二件の記録を読んだら、生き残った者達の話を直に聞きたくなりまして……」

 源二郎は早まったことをしたかもしれないと思った。

 宮仕えすると思っていなかった源二郎は、一人で動きまわることに慣れ過ぎ、思い付くとさっさと行動に移してしまう傾向がある。奉行所に勤め始めた時に病床の父親に気を付けろと言われたことを思い出した。

 勝手に動きまわったことを滝田に咎められるかもしれないと思い、源二郎はうつむき加減になった。

「どうして調べ直そうと思ったんだい?」

 滝田の声に怒りも苛立ちもなかった。

 ほっとした源二郎は、顔を上げて答えた。

「賊のことを知るためです。賊を捕まえるには、奴等のことを知る必要があると思うからです」

 滝田は納得したように頷いてから言った。

「……で、何かわかったかい?」

「滝田さんには目新しいことではないだろうと想いますが、それがしは記録に残されていない細かなことを知ることができました」

「ほう。どんなことだ?」

「賊の面々は必ずしも一つにまとまってはいないということです。おそらく押し込みの時だけ組んでいるのだろうと思います。そうして皆殺しにすることをなんとも思っていない輩が中心にいるけれども、その仲間には悪党なりに線を引こうとしている輩もいること、斬殺は三人が受け持ち、金を運び出す役割に徹しているものが一人か二人いそうだということがわかりました。これはそれがしの推量ですが、運び役が二人いるとしたら、一人は船頭だろうと思います。おうめは賊の人数を四人はいたと申したのですが、五人はいるとそれがしは思います」

「……その悪党なりに線を引こうとしてるってのはどんな奴だ?」

「中屋の押し込みの生き残りであるおみのの話では落ち着いた低い声の大柄な男です。おみのを斬ったと仲間に嘘をついたそうです」

 滝田がじっと源二郎を見つめてきた。

 滝田はそのことを知っていると思った源二郎は淡々と続けた。

「兄、榊恭一郎を斬殺したのはその男です」

 

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