第二章 アグラヴェイン
俺には兄がいるらしい。
小さい頃から母が俺に言っていた。
「あなたにはお兄様がいるの。素敵な素敵なお兄様」
父も言った。
「モルゴースにそっくりの、それはそれは綺麗な子だった。生まれてすぐに攫われた。いなくなったんだ」
母は言う。
「お兄様はきっとどこかで生きているわ。あまりにも可愛くて攫われただけなのよ。大事に育てられているわ。だから帰ってきたら、お兄様と仲良くするのですよ」
「兄上が帰ってきたときにはお前が支えてやるんだぞ。私はお前にすべてを教える。戦い方も国の治め方も、なにもかも。そして兄上が帰って来なかったときは、そのときはお前が私の跡を継ぐのだよ」
「ロト!」
「……すまない。帰ってくる。必ず兄上は帰ってくるよ」
父はどうやらもう兄を諦めているようだった。ただ、母がどうしても諦めないから調子を合わせているだけ。
父は母に言われるとなんでも譲ってやっていた。
しかし、母がいないときは冷静沈着で交渉事も上手く、戦っても連戦連勝。わざと負けたふりをすることはあっても最後にはひっくり返して勝ちを取っていってしまう。
しかも相手を徹底的には痛めつけずに、慈悲をもって許しもする。そうしなければ復讐されるからだ。それも計算のうち。
最高の尊敬する父上だ。
ただ、母には惚れ抜いているのだけが厄介だった。父上は母が何を言っても聞いてやっていた。たまに言い返すことがあっても母にさらにやり込められて、苦笑いしながら全部を受け入れていた。
「母上は昔ひどい目に遭ったんだ。ブリテン王に父親ゴルロイスを殺されたんだよ。そして母親イグレインは、ブリテン王と結婚させられた。強制だよ。そうするしかないんだ。誰も逆らえないんだ。相手はブリテン王だから。それもこれも元はといえば、ブリテン王がイグレインに惚れたから。理由はたったそれだけ。人妻だろうが、惚れたらお構いなしに奪い取る。相手の男は殺す。ブリテン王はそういう男だ。お前も気をつけろ。母上はそんな恐ろしいことに見舞われても気丈に生きていた。そして……俺に一目惚れしたんだ」
最後でいきなり父は自慢げになる。
最後のこれを聞かされるのだけはげんなりした。息子に母の惚気を聞かすんじゃない。あんなにピリピリした女なのに、ついうっかり可愛い気がしてしまうじゃないか。
そう、母はピリピリした女だった。いつだってピリピリと怒っている。たまに上機嫌な猫撫で声のときは、なにか企んでいる。はっきり言って信用なんて微塵もできない女だった。あの女がいるだけで神経がまいってしまう。
なんで父上はあんな女に惚れたのか。そりゃあ見た目は最高だけど、中身は最低の女じゃないか。
母は兄のガウェインをひどく愛していたようで、その話ばかりするのも不快だった。なんで生きてる俺じゃなくて、生きてるか死んでるかもわからない兄の話ばっかりするんだ。
父上は、俺をしっかり見ていてくれた。俺をいい跡継ぎにしようと本当になんでも教えてくれた。
父上としか一緒にいたくない。
母は父上とばかり過ごしたがる俺を見てピリピリ言う。
「わたくしのことが嫌いなの?わたくしの息子なのに」
嫌いにさせてるのはお前じゃないか。
母がピリピリしだすと父上が割って入る。
「男の子はちょっと大きくなったら、母親に甘えるのは恥ずかしくなるもんなんだよ。わかってやってくれ」
「わたくしのガウェインならそんなことはないでしょうに」
父上は困ったように俺の顔を見て、首を振る。
そうだね。かわいそうな女をこれ以上追い詰めちゃいけないよね。わかったよ、父上。
「ごめん、なさい。母上」
母の手をちょっと握って、でも恥ずかしそうにちょっと顔を逸らす。
すると母は笑う。笑った時の振動が、握った指先から伝わってきて。
不快だった。
「仕方ないわね、恥ずかしがり屋さん!」
母がギューッと抱きしめてくる。
「は、はなしてよ、はなして」
「はなしませんー!」
母がコロコロ笑って、その振動が伝わってくる。
不快なはずなのに、心地良くて、虫酸が走る。
俺はこの女をどうしたいんだ。俺はこの女をどうすればいいんだ。教えてくれよ。なあ。
弟ができた。
ガヘリス。
俺は圧倒的に父親似だったが、ガヘリスは母親似だった。
母はガヘリスを猫可愛がりし、乳母をつけずに面倒を見、一から十まで構いたがった。
父もガヘリスを可愛がってやろうと頑張っている姿勢は見えるのだが、母がまったく渡そうとしない。渡したくなさそうだった。
父はガヘリスを構えない、母にも避けられる。父はしょんもりしながら、それでも真面目に俺にずっといろいろ教え続け、導き続けていた。
しかし時折、父は母だけを寝室に連れて行き、籠ってしまう。仕事が一段落するとそうしていた。こうなると一日中出てこない。
その間、ガヘリスのお守りはずっと俺がしていた。
意外にもガヘリスは俺に懐いた。
「アグ、アグ」
中途半端な呼び方をして、俺の指をにぎにぎして喜んでいる。
なんだか笑えてきてしまって、俺はこの弟を嫌いにはなれなかった。
母譲りのピカピカした金髪が綺麗で、にこにこ微笑む顔が可愛い。
やがてガヘリスは俺のことばかり追いかけるようになり、母はおおいに不機嫌になったが、父上はみるみるうちに上機嫌になった。
そこからしばらくは、家族が一番安定していた時期だった。
父が戦争に行った。
戦争が始まるまでにいろんなことがあった。
ブリテン王ユーサーが死んた。跡継ぎの男子がいなかった。ブリテン島じゅうが不穏な空気に包まれた。
そんなときに神の奇跡が起きた。教会に石に刺さった剣が出現した。「この剣を抜いたものはブリテン全土の王となる」と剣に刻んであった。
誰も抜けなかった。父にも抜けなかった。
それなのに、エクター卿というただの田舎の一領主の次男、少年アーサーがこともなげに石から剣を抜いた。
そんな訳のわからぬ少年がブリテン王になることを、小国の王たちが大反対した。
ブリテン島には様々な国や領地がひしめきあっている。小国の王、小さな領地の領主たち。そして、その上すべてに君臨するブリテン王。
権勢的には、オークニーとロジアンを統べる父上が、ユーサーの次にブリテン王にふさわしかった。さらには跡継ぎの順としても多少の理はあった。
「ユーサー王に跡継ぎがいない以上、王の養女で長女モルゴースの息子アグラヴェインに跡目が回ってくるべきだ」
父は内心そう考えていた。しかし口には出さなかった。それを言うなら王の養子になったカドール伯父上の方も権利があることになってしまうのだ。
カドール伯父上は事を荒立てる気がないようで、コーンウォールの堅固な城ティンタジェルから一切出てこず、中立の立場を維持した。
「アーサー王の貧相な軍」対「ロト王以下十一人の小国の王連合軍」の戦争がはじまった。
圧倒的に十一人の王側が有利だったにも関わらず、アーサー王側が勝利した。
アーサー王はフランスの強き二人の王バン王とボールス王を味方につけ、連合軍となって、父たちの軍に打ち勝ったのだ。
母はそれを聞いて、「ロトが心配です。私は行きます。お前は国を守っているように」と、あろうことか戦地に出ていってしまった。
俺はまだ成人には満たないが、父から様々なことは教わっている。
俺は必死で領国を維持した。残った騎士たち従者たちも必死で俺を支えてくれた。父に教わりながら、今までずっと家臣の皆と関わり続けてきたことが生きた。
そして母は一人で帰ってきた。
「ロトとは会えたわ。でも危ないから帰れと言われた」
当たり前すぎる。なんて馬鹿な母なんだ。
母は妊娠していた。ああ、やることはしっかりやったんだな、父上。
もう何を言う気も起きなかった。
母は出産し、ガレスが誕生した。
それから母はそわそわと落ち着かず、ぼんやりとして何もしない。ガレスの面倒もろくに見ない。父上の子を殺す気か馬鹿女。俺は忙しい中でも乳母を手配し、ガヘリスは乳母と一緒になって、一生懸命ガレスの面倒を見た。
世情が落ち着いてきた。
敗軍の大将となった父上の様子はまったくわからなかった。どこに落ち延びているのだろう。
アーサー王はロジアンとオークニーに恭順を求めてきた。
父が兵を連れて行ったから、兵はほとんどいなかった。戦う選択肢など皆無だった。
攻め滅ぼされるか、恭順か。
俺は恭順を選択した。
母は俺とガヘリスとガレスを連れ、アーサー王の都キャメロットへ挨拶におもむいた。
アーサー王の宮廷の大広間。母は俺たちを連れて、挨拶を述べる。全員ザッと首を垂れた。
「ロジアンとオークニーの王ロトの妃モルゴース、ならびに息子のアグラヴェイン、ガヘリス、ガレス。アーサー王陛下にご挨拶にまいりました」
母が口上を言い終えて、下げていた頭をスッと上げた。
アーサー王がハッと息を呑む音が、やけに響いた。
俺は思わず顔を上げ、アーサー王を見る。
アーサー王の目が強烈に母に注がれていた。恋する目だ。
アーサー王は母に惚れたのだ。父が母に惚れるのと同じほどに。
父の言葉が蘇る。
ブリテン王は人妻でも奪い取る。相手の男は殺す。誰も逆らえない。
それは先代のブリテン王だ。今のブリテン王がそうとは限ら……
いきなり物凄い威圧を感じた。頭を叩きつけられて這いつくばらされたような圧。
俺は必死で頭を垂れた。
アーサー王がこちらを睨んでいる。俺を睨んでいる。
邪魔だ邪魔だ邪魔だ邪魔だ邪魔だ殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
「陛下」
母がしっとりとした声で言った。
「モルゴース殿」
はずんだアーサー王の声。
同時に息もできぬほどの威圧がフッと消えた。
助かった。助かった。助かった。助かった。助かった。助かった。助かった。助かった。助かった。助かった。助かった。
母が何事かアーサー王と話している。
何もわからない。
怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かったよ、ママ。
その夜、母は俺たちに割り当てられた宿所に帰ってこなかった。
母は生贄になったのだ。
母の母と同じく。ブリテン王の生贄に。
俺は逆らわなかったから殺されなかった。
逆らったら殺されるのだ。
俺は死にたくない。
母が妙に心強かった。
俺は今まで母を舐めていた。女を舐めていた。
でも女はすごかった。
あんな恐ろしい男の生贄になっても、恐怖ですくみあがることもなく、平然と生きているのだ。
何か、どこか、俺たちとは違う生き物なのだ。
俺は怖い。あんな男は怖い。勝てない。絶対に勝てない。怖い。何故父はあんな男に向かっていった?負けるに決まっている。次元が違う。化け物だ。俺は怖い。怖い。怖い。怖いんだ。怖いんだ。母が助けてくれた。母が助けてくれた。俺は子供だから。子供だから。いいよね。戦わなくてもいいよね、ママ。
一ヶ月が経った。
母は俺たちの元へ帰ってきて、にこやかに告げた。
「さあ、ロジアンへ帰りましょう」
母は妊娠していた。月満ちて、五月一日に子供を産んだ。アーサー王の子だ。モードレッドと名付けた。
なぜかすぐさまアーサー王軍が訪れた。
「五月一日に生まれた子供はすみやかに渡すように!」
どんな理由だよ。そんな訳のわからない理由で子供を取り上げるのか。ブリテン王がどれだけえらいんだ。ああ、でも王の元で育てたいなら。ならばそれでもいいだろう。
母は力無く笑って、モードレッドを差し出した。王の元で育つならそれはそれで良いことなのだ。王の子なのだから。
そうやってモードレッドは連れていかれた。
報告が入った。モードレッドが乗っていた船は大岩にぶつかり、船は沈んだという。
母はそれを聞き、静かにずっと泣いていた。ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと泣き続けていた。
水分が抜けた母が木のように枯れていく。あの見た目だけは綺麗な母が、枯れ木のようにガリガリになっていく。
ガヘリスが俺に「助けて」と言った。「母さんが死んじゃう。兄さん、助けて」と。
とにかく母に声をかけた。
「母上」と言っても反応はない。
「モルゴース」と言ったら反応した。
「モルゴース、ほら、水を飲んでくれ」
水の入った杯を傾け、唇に当ててやる。飲む。
「モルゴース、ほら、噛んでくれ」
肉を手ずから口の中に入れてやる。噛む。
母は言われるがままに飲み、言われるがままに食べる。
母はどうやら「モルゴース」と呼ぶ俺を、父と認識しているらしかった。
「ねえロト」
「なんだいモルゴース」
「一緒に寝ましょう?」
「モルゴース、愛しているよ。君が恋しい。でもあまりにも仕事が忙しいんだ。君を抱くと、はなれたくなくなってしまう。お願いだから聞き分けておくれ」
父のふりをして深く口づける。
気が狂いそうだった。父に、心底帰ってきてほしかった。
でも父に欠片も似ていないガヘリスでは意味がない。もし似ていたとしても絶対やらせるわけにはいかない。ガヘリスの気が狂ってしまう。俺がなんとかしなければならなかった。父の代わりの俺が。父の代わりの俺が。俺は父の代わりをしなくてはならない。
俺は母と毎夜毎夜……
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、思い出したくない。
身体が勝手に動くんだ、身体が勝手に、あんな女でも愛しいと、身体が反応するんだ、なんにも言うことを聞いてくれないんだ、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、助けてくれ、
父上、父上、いっそアーサー王でもいい、この女を、この女を、どこかにやってくれ!
しばらくしてモルゴースにアーサー王から呼び出しがかかった。助かった。助かった。俺の声が届いたのか。俺はモルゴースを馬車に押し込め、キャメロットに行かせた。
俺は国に残った。あんな恐ろしい者に二度と会う気はなかった。
あの女が生贄になってくれるのは有り難かった。俺のためにアーサー王と寝るなり殺されるなりしろ。もう帰ってくるな。俺はできるだけのことをしたはずだ。あんたに尽くして尽くして尽くして尽くして突いて突いて突いて突いて……もういやだ。もういやだ。帰ってくるな。頼む、もう、帰ってくるな。
しかしモルゴースは帰ってきた。
正気を取り戻し、完全に美しさを取り戻し、満面の笑みで帰ってきた。
そしてその隣には兄のガウェインがいた。
女は嬉しげに、兄を俺たちに紹介した。
「アグラヴェイン、ガヘリス、ガレス。ガウェインお兄様よ。攫われたお兄様は漁師に拾われて、ローマの教皇のところに行き、ローマで育ち、ローマで騎士になって、ブリテンに戻ってきたの。しかもアーサー王に決闘を挑んで勝ったのよ!すごいでしょう。アーサー王はお兄様を素晴らしい騎士として円卓に加え、讃えたわ。そしてね、お兄様の赤子のときのおくるみにね、うちの紋章が残っていて、それでわたくしたちの子とわかったから、お呼び出しがかかったの……」
女はにこにこと語る。
おくるみの紋章なんてなくてもわかる。
ガウェインの顔を見てわからない奴の目は節穴だ。
この女に生き写しの、輝かしく神々しい騎士。神の騎士に相応しき騎士。
最高の腕の職人の描いた天使画のごとく、きらきらと輝く男が、穏やかな慈愛の微笑みを浮かべている。
ほんとうに、こんなのが、俺の、兄、なのか?
兄が口を開き、神の慈愛のごとき声が響く。
「はじめまして、兄弟たち。アグラヴェイン、ガヘリス、ガレス。私はガウェイン。いきなり帰ってきてすまない。驚かせたね」
頭がぼんやりして何も考えられない。
光り輝いてないか?天使じゃないのか?本当に人か?
しばらくして、天使がもう一度言う。
「……私はここから出ていった方がいいのかな?私は邪魔?」
は?
天使がキュッと泣きそうな顔をしている。
えっ、天使が俺の反応を気にしている?
俺が返答できないのを、受け入れてもらえなかったと、悲しんでいる?
「いや、ずっといてください」
「それは良かった。本当に良かった……ありがとう。受け入れて貰えて本当に嬉しい。アグラヴェイン、君はまだ騎士にはなっていないと聞いているから、よければアグラヴェイン、とそのままで呼んでもいいかな?」
天使が俺の名を連呼する。
やわらかな黄金の綿で包みこむような声。
「なんとでも」
「私のことは好きに呼んでくれ。君の呼びたいように。アグラヴェイン」
天使が俺の顔を見て微笑む。
あの女と同じ顔のはずなのに、表情が全然違う。聖母のごとき慈愛の微笑み。
もうダメだ。
俺は気を失ってぶっ倒れた。
優しい歌声が聞こえる。
柔らかいものに俺の頭は乗せられている。
ふわふわ温かくていい気持ちだ。
パチ、と目を開けた。
「まあ、目が覚めた」
天から女の声がする。
目の上に女の胸がある。
天から女の声がする。
「アグラヴェイン、あなた気を失っていたのよ。ガウェインがあなたのベッド運んでくれたのよ。とっても力持ち。あなた一人なんて軽々と抱き上げて運んでくれたわ」
モルゴース!
ぐわっと身体を起こすと、女が「まぁ」と言って避ける。
ベッドで女に膝枕されていたらしい。
くらりと目眩がして、頭を抱える。
「無茶しないの、もうお馬鹿さんね」
女に頭をするする撫でられる。
触るな、寄るな、近寄るな、吐き気がする。やめろ、やめろ、やめろ。
「気分はどうだい?アグラヴェイン」
ベッドの横から、あの天使が朗らかに笑っている。すると一気に吐き気はおさまった。
天使の両脇にはガヘリスとガレスがくっついている。ベッタリだ。
二人の小さな天使をぶらさげた、大天使が訊いてくる。
「ひどく疲れてるように見えたよ。食べてる?病気じゃない?大丈夫?」
「いや、ちょっと、あんまり、現実がよくわからなくて」
「ガウェインがあんまりに美人さんでびっくりしちゃったんでしょう?」
女!余計なことを言うな!
「そんなまさか!」
天使が笑っている。
まさかじゃない。
「いや、その通りだ」
「ほうーら」
女がにやにや笑っている。
「だってロトが、朝、わたくしが目を覚ましたときにこちらを見ている顔と同じ顔をしてるんだもの。ほとんど無表情なのだけど、ほんの少しだけ眩しそうにしてるの。一度理由を聞いたら『毎朝、俺の側に天使が寝てるんだ。毎朝、俺は天国にいるんだ』とか馬鹿みたいなことを言ってるのよ。おっかしいでしょう?」
それはただ、父上が思ったままを言ってるだけだ。
「ガウェインも、そういう反応をされることなんてたくさんあるでしょう?」
「でもアグラヴェインは母上のお顔を見慣れているでしょう。同じではないですか」
同じなわけあるか、こんなゴミ女!
「うふふ、ガウェインはお利口さんね」
女が天使の方に進んでいって、頭を撫で撫でしている。
やめろ、汚れる。
「お帰りなさい、ガウェイン」
天使は嬉しそうに微笑み、答えた。
「ただいま、母上」
翌朝早く。太陽が昇る前。
それはもう凄まじく久しぶりにきちんと眠れ、ばっちりと目が覚めてしまった。
鍛錬するか。
昨日までは夜はほとんど目が覚めていた。毎日、なにがなんでも目を閉じて身体を休めてはいた。しかし意識は冴え渡り、全く眠れた感じはしなかった。
眠ったかと思ったら夢にあの女の……
もうやめよう。悪夢は去ったんだ。兄上が帰ってきて、あの女は母らしくなった。正気も取り戻した。
白々と明けてくる空のほんのりとした光が差す中、俺が城の中を歩いていると兄上がいた。
窓辺で空を眺めながら、兄上の肩や腕にとまった鳥たち五羽がピチュピチュ歌う。兄上は鳥の歌に合わせてハミングしていた。
天使?
「おや。おはよう。アグラヴェイン」
兄上がこちらを振り返って言うと同時に、バサバサと鳥たちが飛び立って逃げる。
「おはようございます。兄上」
俺の、言葉に、心底嬉しそうに微笑まないでくれないか……!
またぶっ倒れたらどうするんだ。
ん?そういえば俺を運んだと言っていたな?
俺は大人の男と比べても遜色のない、というか、父上とそっくりの体格だった。めちゃくちゃ体格がいい方だ。
そんな俺を軽々と運んだとあの女は言っていた。
「兄上は力持ちだと聞きましたがどれくらい力持ちなんです?」
兄上は親指と人差し指をあごにそわせながら考え込む。
「うーん、どれくらいとは言いづらいけど……ちょっと失礼」
いきなり膝裏と肩に手が回って抱き上げられ。
次の瞬間。俺は宙に浮いていた。
「うわああああああ?!」
高く舞い上がったかと思うと、また下に落ちる。落ちたところで兄上に受けとめられ、また上に放り上げられた。
「や、やめ……!」
兄上は落ちてきた俺を受けとめると、俺はもう放り投げられてたまるかと兄上の首に夢中ですがりつく。
「もう止める?」
「あ、あ、当たり前だ!」
「アッハハハハ!」
心臓が早鐘を打つ。
死ぬかと、死ぬかと思ったぞこの馬鹿が!
「母上から弟がいると聞いて、遊んでやりたかったんだ。ありがとう、アグラヴェイン」
赤子にやることをでかい男にするな!
アアアアやめろやめろやめろ、頬擦りするな、これ以上心拍が上がったら俺が死ぬだろうが!
「若君!」
「若君どうなさったんですか!」
「悲鳴が!」
「わか……ぎみ……?」
俺たちの騒ぎを聞きつけて、騎士や従者や召使いやらいろんな奴がやってくる。
「おろせ!馬鹿が!」
「フフッ、初めての兄弟喧嘩だ!嬉しいな。もっと罵ってくれ!」
抱き上げられたままの兄弟喧嘩があってたまるか!
「兄弟?」
「若君、そちらは?」
「どな……たで?」
皆がぽかんと口を開けて呆けている中、馬鹿兄は俺を抱き上げたまま堂々と宣言した。
「私はガウェイン!ロト王とモルゴースの長男、アグラヴェインの兄。ガウェインだ!」
もういやだ。帰りたい。
それからも兄上は……ガウェインは凄まじかった。
早朝に仕事のない者みなすべてを鍛錬に引っ張りだし、サボってる奴には容赦なく鍛錬を増やしていく。
特にガヘリスがへこたれてるのには容赦がなかった。
「ガヘリス、君の限界はそこじゃないはずだ!壁登りあともう三回!」
鬼か。
それにしてもガヘリス。お前もっとできないと思っていたが、意外とやれるじゃないか。
「じゃあ俺も……」
俺がやろうとすると、ガウェインは俺の二の腕を掴んで首を振った。
「アグラヴェイン、君はダメだ。顔色が悪い。本当に大丈夫なのか?」
昨日あんたに会うまでは、生きてるのが不思議なくらいではあったな。
「兄上殿の勧めに従いますよ」
「……他人行儀は傷つく」
ガウェインの顔がめしょりと崩れて泣きそうになる。
「あ、アグラヴェインの兄様がガウェイン兄様を泣かした〜!」
はなれたところで子供用の別メニューをこなしていた小さなガレスが言い、トテトテ走ってくる。
「ガウェイン兄様、大丈夫ですか?アグラヴェインの兄様は顔は怖いし声も怖いけど、怖がらなくて大丈夫ですよ」
ガレスがガウェインの手をタシタシと軽く叩いて慰める。
「ンフッ!」
ガウェインが吹き出して、クツクツと笑い始めた。
「怖がってるわけじゃないよ……ちょっと寂しかっただけなんだ」
「えっ、アグラヴェイン兄様何したんですか」
ガレスに非難の目で見られる。
「いや俺なんかしたか?!」
ガウェインはゆっくりとガレスの方にかがみ込んで、目線を合わせながら神妙に言う。
「アグラヴェインの兄様は、ガウェインの兄様を他人みたいに扱うんだ。ガウェインの兄様はとても悲しい」
「うわ、アグラヴェイン兄様最低」
「俺なんかしたか?!」
ガレスに蔑まれた目で見られたの、初めてなんだが?!
「なあんてね!」
ガウェインが俺の首に後ろから右腕をかけてきて、首を締め上げてくる。あの馬鹿力の欠片すら感じさせないくらいの、ごくごく軽い力で。
戯れでやっていると、すぐわかるような軽さで。
安心して涙が出そうだった。
本当はこの馬鹿みたいに力の強い兄上がずっといるはずだったんだ。我が家はこの兄がいないせいでおかしかっただけなんだ。あとは父上さえ帰ってくればもう俺はなにも。
なにも恐ろしいことに襲われなくて済むんだ。
鍛錬を終えて、朝食を皆で食べる。これには母も参加した。
「まあガウェイン、アグラヴェインに暴言を吐かれたの?ひどい弟さんねえ。アグラヴェイン、ちゃんとお兄様に謝った?」
母がいたずらっぽく俺のことを揶揄う。
母が俺のことをきちんとアグラヴェインと呼ぶ。俺を息子として認識する。
「あ、あらあら、あらあら、アグラヴェインどうしたの。ごめんなさい。そんなに責めたつもりは……」
両目からボロボロと涙を溢す俺を見て、母が慌てる。
すると横にいた兄上が俺の頭をガッと抱えこんで、顔を隠してくれた。
「母上、アグラヴェインは反省しているんですよ、責めないであげてください」
「そ、そうなの?ごめんなさいねごめんなさいね。わたくし揶揄いすぎたかしら」
「母上も反省しているようだ。許してさしあげないか?アグラヴェイン」
俺は大きくうなずいた。
「ようし、いい子だ!」
うるさい子供扱いするな。
朝食の後。いったん部屋に戻った俺にガウェインがついてきた。
真剣な顔で、俺に訊く。
「アグラヴェイン。何があった?」
「なにが……」
「昨日からずっと見ていたが、君の反応はどう考えてもおかしい。何かあったとしか思えない。何があったんだ?教えてくれないと、言ってくれないと。なにもわからない」
そりゃあそうだ。
でも、言えるか?
母と、あの女と……
吐き気がこみ上げて来て、思わず口元を押さえた。目をギュッとつむる。
駄目だ。言うな。絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に言うな。言うんじゃない!ロト王の子、アグラヴェイン!
ガウェインがハッと息を吸いこみ、俺の背を撫でる。
「すまない!」
大きな手が背を撫でる。やさしくやさしくやさしく撫でる。
「すまない、すまない、聞くべきじゃなかった。無神経なことをした。もう聞かない!安心してくれ、もう聞かないから!」
ああ、ああ、そうだ、あんたにだけは言いたくない。
頼むから聞かないでくれ。
何もなかったことにしてくれ。
頼む。頼むから。頼む。
あんたに軽蔑されたくない。あんたに軽蔑されたくないんだ。
日々は穏やかに過ぎていった。
ガウェインは瞬く間にロジアンの国に馴染み、皆に馴染んだ。
とはいえ、領地経営については俺しかわからないことが大量にある。細かく丁寧に何もかも、父上が教えてくれたようにガウェインに教える。
ガウェインは馬鹿力だけでなく、頭の出来も抜群だった。
「だてに教皇猊下の肉は切ってないからね」
そういえば教皇がどうとか母上が言っていたが……
「え、教皇の肉?」
「そういうお役目だったんだ」
教皇の食する肉を切る係……それ、教皇のお気に入りの奴しかできない奴じゃないか!
「あんたは本当に何者なんだ……」
乱暴な口ぶりで言われたのが心底嬉しそうに大天使が明るく笑う。
「オークニーとロジアンの次期国王、アグラヴェインの兄上です!」
「おい待て、あんたが次期国王だ」
「私はやらないよ」
ハア?
「あんた何を言って」
「私は円卓の騎士!君の兄!それで十分。アグラヴェイン、皆が君を次の国王だと思っている。見ていればわかる。小さいときからずっと君が父上のかたわらに必死に付いていき、皆と話し、皆に教わり、皆に心を配ってきたのを、皆が私に教えてくれるんだよ。『若君は本当にロト王と遜色なく治めてらっしゃる』『お若いのに立派だ』『あんな利かん気の強い母上をもたれてさぞ大変だろうに』『弟君たちの面倒も見られて』『ガウェイン様、どうか若君を支えてやってくださいね』『若君を頼みますね』『我らの若君を』……皆にそう言われて、王の座をかすめとろうとするほど、私は悪党になり下がる気はないよ」
「皆が?そんなことを?」
ガウェインがいたずらっぽく笑った。
「おや、しまった。皆に『若君に絶対に内緒にしてくれ』と言われてたんだった。聞かなかったことにしてくれ」
聞かなかったことになんかできるか。そんなもの。そんなもの。そんなもの。
目から涙が溢れて止まらない。
ガウェインが、俺より体格の良い大天使が、すっぽりと包み込むように俺を抱きしめた。
「君はとてもよく頑張った。君が頑張ってくれなければ、ブリテンに帰ってきた私は天涯孤独のままだったかもしれない」
ガウェインは俺の後頭部をゆっくりゆっくり撫でながら、語り出す。
「ローマで私は孤独だったんだ。父だと思っていた人はただの漁師でね。拾った赤子の私に身につけられていたものがあんまりにも高価なものだったので、それをいくらでも売り払って財をなして、貴族のふりをして、ローマに行ったんだ。そしてその漁師は死に際に『実はこの子はわたしの子ではありません』という書き置きと、赤子の私を包んでいたおくるみを遺した。頭が真っ白になったよ。父は父じゃなかった。では私の家族は?おくるみに残っていた紋章を必死で探して探して探して、すると不思議な男が現れて、それはブリテン島のロジアンとオークニーの王ロト王の紋章だと言うんだ。だから帰ってきた。すると母上がいた。三人の弟たちもいた。それも君のようなとびきり優秀で努力家の弟がだ。努力家過ぎて心配なほどに。頼むから無茶せずに私を頼ってくれ。話したくないことは話さなくていいが、話したいことはなんでも話してくれ。私は君のすべてを認め、君のすべてを讃えよう。生きていてくれて、存在していてくれてありがとう」
こいつはなんで、なんで、なんで、俺の言ってほしかった言葉を知ってるんだ。本当に人か?神様とか天使様とかじゃないのか。朝起きたら消えたりしないか?
「兄上も」
「うん」
「兄上も生きてて、存在してくれて、ありがとう」
兄上がギュウギュウ抱き締めてくる。
「ぃ、ぃたぃ」
「あ、ごめん!」
「ふは、」
「ふふ」
「アハハハハハッ!」
「ハハハハハハッ!」
二人して泣き笑いをした。
この兄がいて、俺は本当に幸せだ。
翌朝。朝食を終えた後、またガウェインが部屋についてきた。
「なんだ、またなにか話か?」
またガウェインが真剣な顔をしている。
なんだ、怖いな。まあ、変なことは言わないだろうが。
「アグラヴェイン、そろそろ騎士の叙任を受けて、正式にこの国を継いだ方がいい。叙任に関しては、あらかじめアーサー王に頼めるよう話はつけてある。もちろん君がよければだが」
は?いや、駄目だろ。
俺は首を振る。
「騎士の叙任はそろそろかと思ってはいる。だがアーサー王?あの男は駄目だ。俺を毛嫌いしている」
俺は好きな女の邪魔ものだからな。
ガウェインは厳しい顔で眉をひそめた。
「王をあの男とは……いや、いい。そうだな、君に敵意を向けていたことも聞いている。アーサー王と母上の間に子がいたことも。亡くなったこともね。でもその件についてはもう問題ない」
「なにが」
「もうすぐアーサー王はご結婚なされる。キャメラード国のレオデグランス王の娘、グウィネヴィア王女と」
は?
母にあれだけ執着しておいて?他の女と結婚?ふざけてるのか?ブリテン王はそんなにえらいのか?
「アグラヴェイン、誤解がないように言っておく。アーサー王は、我らの母上とのことはなかったことにすると、もう今後一切なにもそういうことはないと、そう言っている。母上は姉上なのだからと」
姉上?
「アーサー王の母上はイグレイン。私たちの祖母イグレインだ。アーサー王と母上は異父兄弟だ」
なんだそれは。
「アーサー王の父親はユーサー王。アーサー王はきちんとブリテン王の後継だったんだ。だから王を選ぶ剣が抜けたんだ。当たり前のことだったんだ。ただ、ユーサー王はあまりにも命を狙われやすい。ほうぼうに恨みをかってるからね。そんな王の子も殺される可能性が極めて高い。だから側近のマーリンが、一領主のエクター卿に預けてこっそり育てていた。アグラヴェイン、アーサー王の顔をきちんと見たことがあるか?よく似ているよ、私にも、母上にも」
あんな恐ろしい男の顔なんか覚えているものか。目、目、目、目、目、目、目!!あの恐ろしい目しか覚えてない!!俺の女は渡さないという目!!
「だから、それがようやくわかったから、アーサー王は『もうモルゴースとのことは無しにする。ただ、姉上として大事にする。姉上の子はできうるなら皆、余の手で騎士にする。ガウェイン、我が甥たちに、アグラヴェイン・ガヘリス・ガレスにそう伝えてやってくれ。いつでも我が元に来い。心の底から歓迎する』そうおっしゃってたよ」
なんだそれは、なんなんだそれは。
「『ロジアンもオークニーも我が甥の領国とすることを認める』とおっしゃってたよ。安心してくれ」
「待てよ、ここは父上の領国だ。そうだ、父上のことは許してもらえるのか?和解してもらえるのか?」
「父上はお亡くなりになった」
勝手に決めるな!
「行方不明なだけだ」
「いいや、ペリノア王に殺されたんだ。母上も知っている。母上がその目で見た。でも、君には黙っていたんだ」
「嘘をつけ!兄上、あんたは騙されている。母上に騙されているだけだ!」
「アーサー王も知っている。マーリンも知っている。ただ、事が公になると、これ幸いとロジアンとオークニーは攻められる。サクソン人から、ピクト人から。だから君が騎士になるまでは、君が正式な王となるまでは伏せることにしたんだ」
「だったらなぜ俺本人に言わない?父上は?どこでどうやって亡くなった?遺体は?いつ?いつ亡くなった?なんであの女とアーサー王とマーリンが知ってるんだ?」
あの女。あの女。女はどこだ。
俺は部屋を飛び出す。すると女がいた。部屋を出てすぐそこにいた。聞いていたのか、俺たちの話を。
「父上は!父上はどうしたんだ、教えろ!」
「アグラヴェイン、ごめんなさい、ロトが死んだのはわたくしのせ」
「どういうことだ!」
「わたくしが帰る途中にペリノア王に見つかって襲われたの、それを、ロトが、ロトが見つけて戦って、殺されて、マーリンが助け」
「いつだ!」
「ガレスが生まれる前よ!」
何?
何だ?
ガレスが生まれる前、父のところにお前がのこのこ行ったあの時か。襲われた?戦場だから当たり前だ、綺麗な女なんて秒殺で犯される。
「待て。犯されたのか」
ガレスは?ガレスは、本当に父上の子か?
女がガタガタ怯え出した。
「やめろ!アグラヴェイン!」
ガウェインが割って入ってくる。
うるさい、俺はこの女に訊いている。
「ガレスは父上の子か?」
「わ、わからない」
女はガタガタ震える。
「お前のせいで父上は死んだんだな?」
「アグラヴェイン、違う!母上は被害者だ!」
「あんたは黙ってろ!!」
そっと女の頬を、手のひらで包みこむ。
父上がよくやっていた。
両手でこの女の顔を包みこんで、口づけて、そして優しくひたいを擦り付けて、笑いあって。
同じように母のひたいに、俺のひたいをそっと合わせる。
「戦場が危ないなんて子供でもわかる。女が行けば犯されるのなんて馬鹿でもわかる。なんで行った。なぜ行った。行かなかったら、お前がいなければ、強い父上がやられるものか。お前がいたからだ。お前のせいで、父上がやられた。お前が死ねばよかったのに」
お前が死ねば良かったんだ。お前なんかのために父上が死ぬ必要なんてない。父上が生き残っていれば、お前なんかとお前なんかとお前なんかと
「死ねよ」
頬を覆っていた両手を、女の首に回す。
殺す。
「駄目だ!」
兄の声がして、身体に衝撃。
意識が暗転した。
熱い、熱い、熱い。
目を開ける。
ぼんやりと金色がきらめく。
「アグラヴェイン?気がついたか」
兄上の声。
「熱い、熱い、熱い」
「熱が出てる、でも大丈夫だ、私がいる、私がいるからな!ほら、飲んで」
ヒョイと身体を起こされて、水薬を飲まされる。
なんだ、ふわふわする……
するりとまた寝かされる。
冷たいものが頭に乗る。
気持ちいい。
「大丈夫だからね、すぐに良くなる。すぐに良くなるよ。おやすみ。ここにいるからね」
手を握られている。
ああ、安心する。
ああ、いやだ。
いやだ。やめろ。
まとわりつくな。俺に求めるな。
お前と寝るのを求めるな。
お前に触れるのを求めるな。
俺が貫くのを求めるな。
俺を父の代わりにするな。
お前なんかいなければ。
なんで父上はお前なんかと。
なんで俺がお前なんかと。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
消えろ消えろ消えろ消えろ、お前が消えろ、俺も消えろ、全部消えろ消えてしまえ、この世に生まれてくるんじゃなかった!!
目を開けた。
そこには兄がいた。
「おはよう、アグラヴェイン」
兄が、表情を作るのに失敗した壊れた微笑みを浮かべる。
ああ。兄に。
この美しい兄に、知られてしまった。
俺が汚れた罪人であることを。
「殺してくれ」
「いやだよ」
「じゃあ自分で死ぬ」
「天国に行けなくなる。駄目だ」
「どっちにしろ地獄行きだ」
「罪は悔い改めれば赦されるものだよ」
「どう改めろと言うんだよ!」
「とにかく生きてくれ!」
ガウェインの目がまっすぐにこちらを見ながら、堰を切ったように涙が流し始める。
緑の目が涙に濡れ、艶々と宝石のように輝き。大理石のように綺麗な白い頬が、奇跡のように薔薇色に染まり。その上を流体になった水晶がとめどなくきらきらと流れていく。
「綺麗だ……」
大天使は目を瞬かせる。
「主よ、感謝します」
ひどく敬虔な心地になる。
やわらかな声が響く。
「アグラヴェイン」
「はい」
「誓え。生きよ」
「はい」
「……良かったぁぁぁぁぁ」
ガウェインは寝ている俺を掴み上げて、抱き締め、というより抱き上げ、部屋じゅうをぐるぐると回り出した。
「おい、馬鹿、馬鹿、やめろ、おい」
「やめない、やめない、やめてたまるか!良かった、本当に良かった!君が生きてくれて嬉しい!!」
「違う、やめろ、気持ち悪い、ウッ、ウエッッッッ」
俺はガウェインの胸に思いっきり吐き、ガウェインはそれすら心底嬉しそうに「生きててこそだ!」と大声でのたまった。
生きると誓った手前死ぬわけにもいかず、着替えさせられ水を飲んだ後、俺はまたこんこんと眠り、目覚めるとまたガウェインがいた。
「どれだけ寝ていた?」
「二日。はい、お水」
差し出されるままに水を飲む。
「君とガヘリスをつれてキャメロットに行く」
俺が目を剥くと、ガウェインが苦笑する。
「生きてもらうよ、アグラヴェイン。まずはきちんと騎士になり、王になること。母上とはしばらく距離を置いた方がたぶんいい。ガレスともね。ガヘリスは連れて行く。だいぶ不安定になっているから、私がついててやらないと危険だ。ガレスも不安定だが……君は、やはり会わない方がいい。君も、ガレスも、傷つく。私が二人いればいいんだが……そういうわけにもいかない。母上とガレスのことは、キャメロットでマーリンに頼もうと思う。母上は、マーリンに心許しているようだったし、マーリンより頼りになる人はこの世にいない」
俺はただひたすらうなずいた。この兄が言うのだ。きっとそれが正しい。たしかに母の顔は見たくない。
ガレスには……どんな顔を俺がするのかがわからない。父上の子だと思っていた。父上の子だと思っていたから、俺はガレスをしっかり育ててやらねばと思っていたのだ。今は、今は、わからない。ガレスのせいではないのはわかる。すまない、すまないガレス。いつもいつも母に無視されてたのに。一緒にいたくないだろうに。でも俺自身がお前を傷つけるかもしれない。あんな男の息子を、俺は、俺は、俺は……
「ペリノア王を殺すぞ、兄上」
俺の言葉にガウェインは眉を上げ、そして力強くうなずいて言った。
「ああ。機を見計らって必ず」
よし。当座の目標はできた。
俺とガウェイン、ガヘリスの三人でロジアンを発ち、キャメロットへ向かう。
途中の宿で、夜、ガヘリスを寝かしつけた後。ガウェインが切り出した。
「母上から、事情を聞いてある。話しておきたいが、聞けるか?」
すこし怖い。
でも。
「聞く」
「よし」
ガウェインは蝋燭の火がゆらゆらしているのを見ながら語り出す。
「母上が、父上のところに行ったとき。一夜を共にしたらしい。その後帰りがけにペリノア王に襲われ……犯されて。忘れ物を届けに来た父上が見つけて。父上が助けようとして。父上が殺されて。そこへ父上との和平交渉に来たマーリンが来たんだ。
マーリンはペリノア王を一瞬で眠らせ、母上を連れ帰り、治療した。その際に母上はアーサー王と会った。アーサー王に母上が誰かは、告げなかったそうだ。
マーリンが『ロト王は死んだ。戦は終わりにしよう』と言い、遺体は丁重に葬られた。母上は行きがかった人のようなふりをして参列した。
母上は帰ってきてガレスを出産した。ペリノアの子かもしれないと思ったらお腹の子もろとも死んでしまいたかったが、父上の最後の子かもしれないから、産まないわけにもいかなかった」
……そうか。そうか。そうなのか。
俺は、早合点したのか。
「でも、産んだら、怖くなった。わからない。あの男の子かもしれない。父上の子かもしれない。どうしていいかわからなくて、顔が見れなくて、とにかく逃げ回って……君やガヘリスにすまなかったと言っていた。母親をまったくできなかったと。
そしてアーサー王から呼び出しがかかり、宮廷で、アーサー王が猛烈な殺意をアグラヴェイン、君に向けた。
母上は恐怖した。君が殺されてしまう、と」
恐怖。
恐怖。
恐怖したのか?あの母が?得体の知れない母が?
「まさか」
思わず呟くと、ガウェインは首を振る。
「アグラヴェイン。母上は、普通の人間だ」
普通?あれが、普通?
「私たちと同じ人間だ。怖いことだってある。ましてや、私たちより力の弱い女性だ。私たちより、怖いんだよ」
「まさか」
「君にも怯えていたのを忘れた?」
そうだ。そういえば……
俺に追及されて、ガタガタ震えて……
「続けるよ」
ガウェインは伏せた俺の顔を、横から回り込んで、ジッ……と目線を合わせてきた。
「ああ」
「……恐怖した母上は、ハッと思い出した。自分の母のイグレインのことを。
モルガン叔母上がユーサー王に襲われそうになったとき、飛び出して庇ってくれた母のことを。
アーサー王の目は、自分に恋していると如実に語っていた。ならば、ならば、自分の母と同じことをすればいいと思った。
自分の身を差し出せば、アーサー王の怒りはおさまる。
怖いけれど、怖いけれど、怖いけれど、でも。君を……守らなくては、と」
母上!
母上、母上、母上!
ごめんなさい。
俺が、俺が、俺が。
俺が助かりたかったから。
俺が母上を差し出したから。俺が自分の命ばかり優先したから。ママが助けてくれる。戦わなくていいって思ったから。
ガウェインがグシャリと俺の頭を撫でる。グシャグシャと乱暴なくらい、でもこの兄にしたらとんでもなく優しい乱暴さで頭を撫でつづけながら、兄は語りつづける。
「母上はアーサー王に恋をしているふりをして、自分を欺いて、ひたすら恐怖をおさえこんで、アーサー王と毎夜過ごして、妊娠して、出産するから里帰りさせてくれとアーサー王に頼み、ロジアンに戻って子を産んだ。
でもアーサー王は妃として迎える知らせはよこさず、子供だけを連れていった。
アーサー王は自分に恋をしてるんじゃなかった。子供がほしかっただけだった。そうか。私は子供を産む容器か。勝利して手に入った見映えのする地位の高い女。それだけだ。それだけだったのだ。使い捨ての、子を産ませる容器。
そう思っていたら、モードレッドが死んだという知らせが入った。
母上は思った。また容器にされる。使い捨てのやりたい放題に利用して捨てられる容器。
母上は気が狂った。すると隣に夫が帰ってきた。優しい夫が。自分を愛している夫が。嬉しくて嬉しくてずっと側にいて求め続け。
でもアーサー王から呼び出しがかかると、夫が馬車に自分を詰め込んで送り出した。
夫まで私を容器扱いする」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
父上は、父上はそんなことしない。やったのは俺です。
でも、でも、容器なんて思ってない。
思ってないよ!
ガウェインが俺の頭を抱え込む。
「キャメロットについた母上は驚いた。アーサー王は心の底から母上に詫びて、言った。
『心から恋していた。でも、恐ろしい事実を知った。異父きょうだい同士であったと知った。どうしていいかわからなかった。
モードレッドのことは本当にすまなかった。でも生きていたら恐ろしいことになっていた。
とにもかくにも許してほしい。なんでも償う。君の子供は余の甥。なによりも大切に可愛がろう。
そしてもう一人、君の子供がこのキャメロットにやってきた。ガウェインだ。
おくるみに紋章も名もあった。君の子に間違いない。いや紋章なんて見なくても、生き写しだ。絶対君の子だ。余は彼に決闘で負けた』と」
兄がフフッと笑う。
振動が身体に伝わってきて心地良い。
「そこからは母上でなく、私の話になるが……母上はアーサー王の言うことが信じられなくて半信半疑なようだった。
でもね、私とアーサー王と母上で一晩中飲み明かした朝のことだ。
私がアーサー王を宙に放り投げて、それを地面すれすれで受け止めた」
なにやってんだよ!?
いや、俺もされたな?!地面すれすれではないけども!
「アーサー王は仰天して腰を抜かして立てなくなった。
そのとき母上はすばらしく明るく笑った。あんな美しい顔で笑う人を初めて私は見た。ガリガリに痩せ細っていたけど、それでもこの世の奇跡のように美しかった。
母上は安心したんだ。私がアーサー王より強いと。もう大丈夫だと。心の底から。
それから母上はめきめき回復されて、それはもう大天使ガブリエルのごとく美しくなった。
アーサー王は泣きそうな顔で悔しがっていたよ。なぜ、なぜ、この人と姉と弟で結婚できないんだと。
でも母上は私を引き寄せて腕を組み、『無理ですー。私はロト王の妻ですー。息子もいますー』と言ってケラケラ笑っていた。その顔がまた美しくて、アーサー王は本気で泣き出したよ」
良かった。
本当に良かった。
俺が涙を流して震えていると、俺の頭を抱いていたガウェインは、今度は俺の胴体にしっかり腕を回して抱きしめた。
そして背中をトントンと叩く。
叩きながら言う。
「なあ、アグラヴェイン。私たちは、強くなきゃいけない。母上は強そうに見えるけど、脆いんだ。私たちが強くてはじめて、安心して笑えるんだ。
私は強くあり続ける。母上のためにも。君たちのためにも。
でも、アグラヴェイン。君には守られているだけではいてほしくない。
君にも強く在ってもらいたい」
ガウェインはやさしく叩いていた手を止めた。
「私に並び立て!私の弟なのだから」
クッ、と思わず笑いが出た。
「古代のスパルタか」
「ああ、スパルタだとも。私は厳しいぞ」
「知ってる。でも」
俺はガウェインの背中をトントンとやさしく叩いた。
「あんたは、誰よりもやさしい」
キャメロットに到着すると、アーサー王に会った。
「アグラヴェイン、我が甥。許してくれ」
そう言って俺を抱きしめ笑ったアーサー王は別人のようだった。
たしかに兄や母には似ていたが、だいぶ違う雰囲気だ。天使のように見事な兄や母と違って、優雅さに欠け……えぇと、アレだ、素朴な感じだ。怒りの威圧さえなければこんなにも違うのか。
「姉上は来ていないのか」
アーサー王は母上を探す。
ガウェインがツーンとしながら言う。
「おりません。当たり前です。アグラヴェインが国にいない分、できれば母上が国にいた方がいいのです。緊急でもない限り」
「ガウェイン、なんだ、怒っているのか」
アーサー王はさっくり俺を解放すると、ガウェインの方にいそいそと進んで顔を覗き込む。
おい。おいおいおいおい、アーサー王、なんだその締まりのない顔は。
「怒っておりません」
ガウェインがツーンと言い、沈黙する。
ガウェインがちょっとアーサー王に視線を戻す。アーサー王がきゅるっと嬉しそうな目をした。
「フッ」
「フッ」
「「アハハハハハ!」」
二人で笑いながら抱きしめあって、お互いに背中をバシバシと叩き合っている。親友のように。
「ガウェイン、嬉しいぞ。弟をつれて来てくれたな」
「ええ、アグラヴェインは年頃ですからね!あともう一人連れてきていますよ。騎士にするには早いですが、私の従者として。紹介します、ガヘリス!」
ガヘリスが進み出て挨拶をすると、アーサー王はますますご機嫌になって、ガウェインを抱擁する中にガヘリスも巻き込んでまとめて抱きこむ。アーサー王の馬鹿力に潰されたガヘリスがグェと潰れたカエルのように鳴いた。
ウワァ……混ざりたくない。
「可愛いな!ガウェインから産まれてきたようだ!そなたも年頃になったら余が騎士にしてやるぞ!」
産んでないぞ、ガウェインは!
あぁ、俺だけ父上似で良かった。
翌日、俺はアーサー王の手によって騎士に叙任された。そしてオークニーとロジアンの王だと皆の前で紹介された。
マーリンがその場にやってきていた。
さらさらとした銀の髪、青く澄んだ綺麗な瞳。造形が整ってはいるが、天使のような美ではない。もっと空恐ろしいもの。たとえるなら暗黒の妖精だ。冷たい、温度のない妖精。そしてその冷たさこそが、人形ではなく、人格のある動く者であることをかえって如実にあらわしている。
儀式が終わった直後、ガウェインが俺を連れて、マーリンにこっそりと話しかけに行った。
「ロジアンにいらしていただけませんか?母ともう一人の弟が危ない状態で」
「……今すぐ行こう」
マーリンが俺の影を踏む。
なんだ?
次の瞬間。マーリンはドプンと俺の影に吸い込まれて消えた。
嘘だろ?!魔術師ってこんななのか?
アーサー王がおやおやとこちらへ来る。
「マーリンはどこに移動した。マーリンは何か言っていたか?」
「母上を残してきたのでちょっと心配で、と言ったら、『見て来てやる』と」
「羨ましすぎるぞマーリン……!」
なに悔しがってるんだアーサー王。お前は本当に母上が好きだな。
俺はふと疑問を抱いた。
「マーリンはどれくらいであちらに着くんだ?」
ガウェインとアーサー王が声を揃えて答える。
「「一瞬」」
えっ?
「気持ち悪」
俺が思わず言うと、ガウェインとアーサー王が吹き出す。
「「確かに!」」
ガウェインとアーサー王が腹を抱えて笑っていると。
ヌッと俺の影から何かが出てきた。
反射的に剣を抜いて薙ぎ払う。
しかし、そこで身体が凍った。相手の首に剣が今にも当たる寸前で、俺の身体の動きは止められていた。まったく動けない。身体がいうことをきかない。
「アグラヴェイン殿の剣技は素晴らしいな」
剣の先にはマーリンがいた。軽口を叩きながら、両手をあげてじりじりと後退りし、俺から間合いを完全に開けきって、ふーっとため息をつく。
あ、身体が動く。
全然普通だ。なんともない。
「危ない危ない、もう少しで殺されるところだった」
マーリンはやれやれといった風情で言う。嘘つけ。
俺は止められていたのか。このマーリンのわけのわからない魔法に。
「素晴らしい剣技でしょう?私の弟ですからね!」
ガウェインがパァッと笑って、マーリンの肩を叩く。
そんなやつに触れて大丈夫か?化け物だぞ。人をいきなり動けなくする化け物だぞ?
マーリンがフッと目を眇めて微笑う。冷たさがフワッと霧散した。柔らかい。優しい笑顔。
……なんだこいつ、そんな顔もできるんじゃないか。
ガウェインがふと俺に目を止める。
「あ、マーリン。弟が貴方に見惚れています。マーリン、知ってますか?弟があの顔をしてるときは、相手のことを『天使だ』と見惚れている時なんです」
あっ、馬鹿、余計なことを言うな。
「えっ」
マーリンがギョッとした。
「怖っ」
マーリンの意外な発言に、ガウェインとアーサー王が顔を見合わせて。ブーッと吹き出した。
「ちょ、ちょ、マーリンを、マーリンをおびやかす奴を、俺は、初めて見たぞ!?強いなアグラヴェイン!」
アーサー王がゲラゲラ笑ってマーリンをバシバシ叩いている。アーサー王、完全に素だな。マーリンに杖で頭をコツンと叩かれている。アーサー王はますます笑うばかりだ。
「我が弟の前では稀代の魔術師殿も形無しなんですよ!アハハハハハッ」
ガウェインもマーリンをバシバシ叩いている。すると、マーリンはやっぱり……ガウェインには優しく微笑う。
なんだ?
ひどく、切ないくらいの、微笑み。
「ガウェイン、お母上もガレスももう大丈夫だ」
「ええ!ありがとうございます!」
本当か?
「アグラヴェイン!」
ガウェインがニッと輝くように笑う。
俺がうなずくのを確認してから、ガウェインは再度マーリンを大きく叩いた。
マーリンはガウェインとアーサー王にひとしきり叩かれまくった後「帰る」と言い出した。
俺はガウェインのようにこいつを全面信用しているわけじゃない。事情を聞かせろ。
「ちょっと待ってくれ。マーリン殿。少し俺にも時間をいただけないか」
「なにかな?」
……アーサー王がいる前で言えるか!
「その、だな」
どうしよう。
思わず兄上殿の顔を見たら、にんまり笑っている。な、なんだよ。
ガウェインがちょいちょいとマーリンを突ついて言う。
「マーリン殿、我が弟はさらなる剣技上達のため、動きを止められるのを止められる方法を模索しているのですよ。教えてあげてもらえませんか」
おい待て、いきなりなんだその理由。いや、知れるものなら知りたいが。
「動きを止めるのは私の魔法だ。タリエシンくらいしか止められるやつはおらんぞ」
「そこをなんとか。似たようなものを他の魔術師にかけられたときに破る方法でも」
「まあ、それならなくはないが……」
「余も知りたいぞ」
割り込んでくるな、アーサー王。
「アーサー様は、それ以上強くなったら殺しますよ」
もっと言ってやれ兄上。
「やれやれ」
マーリンはやれやれと頭をガシガシかいて、俺の袖を引っ張って連れていく。
兄上はアーサー王をがっしり羽交い締めにしながら、口の形だけで「い、っ、て、ら、っ、しゃい」と言って見送ってくれた。
どうやら兄上殿は全部お見通しらしい。
だいぶ離れた部屋まで連れてこられ、マーリンはフゥとため息をついた。
「ガレスをロト王の子だと判別しただけだ」
はい?!
「なんだ、それが知りたかったのではなかったか」
「いや、ああ、うん、それだが……ど、どうやって」
「これだ」
マーリンが青い小瓶を取り出して、俺に手渡す。
何本かの……髪か?
「ロト王の髪だ」
父上の?
手の中の瓶の中をじっと見る。
「髪があれば、誰が誰の血縁かくらいわかる」
「髪でどうやって」
「魔術師じゃないものに説明するだけ無駄だ。十年かかる」
それはそうだ。
「ガレスは父の子なのか」
「ああ」
「嘘じゃなかろうな」
「……ペリノア王の子なら私が引き取って弟子にしてやると、モルゴースに打診した上で調べたんだ」
「なんでそこまで」
待てよ。
ジッとマーリンを見る。
「マーリン殿、男色の気は?」
「私は女が好きだが」
「じゃあ、うちの兄上をあんな顔で見る理由は?」
マーリンが目を瞬いた。
「……顔に出ていたか」
「それはもう」
マーリンはすごく嫌な顔をした。
「マーリン殿は母上が好きなのか」
マーリンはますます嫌な顔をした。
「……なにも、言う気は、ない」
「襲うなよ?」
「私は無体はしない。無理矢理は吐き気がする」
「そりゃ良かった」
なるほどなあ……
「好きな女の子供がほしいか」
ゴフッ、とマーリンが咳き込んだ。
「そうかそうか。せめてガレスだけでも連れていきたかったか」
マーリンはビクッと俺の顔を見て、ハァァァァとため息をつく。
「ハハハハハ!」
意外にわかりやすい奴だな!
「まあ、なんだ、マーリン殿には」
そういえば気安く話し過ぎていたな。
一応、稀代の大魔術師殿だ。丁重に。
「残念なことでございましたね」
「からかわないでくれ?!」
マーリン殿の顔が赤い。なかなかに可愛い御仁だ。……俺は何を考えているんだ。
するとマーリンが今度は青くなった。
「さっきガウェインが、そなたが私に見惚れていると言っていたが……まさかそなた本気……?」
い、いやいやいやいやいやいやいやいやいや違う違う違う!
マーリンはヒュッと俺の影に入るとドプン!と消えた。
「誤解だ……」
ガウェインに一切合切報告した。
「なんとまあ……私に甘い人だなあとは思っていたが、てっきりアーサー王の世話係として歓迎してくれてるものとばかり……」
「あんたな……」
自覚はあったのかよ。
「アーサー王はそんなに御し難いやつなのか」
「強いからね。傲慢なところが多少ある。マーリン殿が全力で押さえこめば押さえこめなくはないがかなり厄介だ。だが、私には甘いんだよ、アーサー王は」
「どういうことだ」
「決闘のとき、勝った理由は顔だよ」
「……は?」
「私の兜を彼の剣が割ってしまってね。私の頭が若干斬れて、兜は落ちた。血みどろの私を見てアーサー王は顔面蒼白になった。母上にそっくりだったからだ。それからは全然覇気が感じられず、私はやすやす勝利した上、身元を聞かれて、父上母上の名を出したら瞬で信じてくれたよ」
それはそうだろ。
「えげつないな、母上……」
「そうだね、アーサー王もマーリンも虜だ」
「父上もな」
「アハハッ、そうだね」
「あんたの方がずっと綺麗なのにな」
ガウェインがキョトンとした。
「なんだ?本当のことだ。母上よりあんたの方がずっと綺麗だし、だいたい俺は母上のことは天使とは微塵も思わないし、全然違うじゃないか。見た目がちょっと似てるだけで、中身は全く違うし、大天使と言ってもミカエルみたいだ……し……うわ、なんだ、泣くな、泣くな」
泣き顔を一瞬見せたかと思ったら、その瞬間抱きしめられていたので顔が見えない。なんだなんだいきなりどうしたんだ、いい匂いするなこいつ……ああそうじゃなくて。
「どうした、何かあったのか、もしもし?兄上、おい!」
「アグラヴェインが私のことを認識する……」
「なんだ、哲学的なことに俺は興味はないからわかりやすく言え」
「そうじゃないよ」
ガウェインが手をゆるめて俺を解放し、俺の両肩をつかみ、涙をこぼしたままの目で壊れそうに笑う。
「私を見てくれてありがとう」
また、ぼとり、と涙が落ちる。
……ああ、それか、そうか。そうだよな。
アーサー王も、マーリンもお前を通して母を見る。
俺も、俺を通して父を見られた。
あれは、つらい。
「アーサー王に、なんか言われたか」
「直は言わないよ。でもずっと、私をすかして遠くを見てるのがずっとわかる。母上を乞う目だ。こんなのは初めてでね。あれはなんというか……自分が消えた気がする……。マーリン殿は共にアーサー王の面倒を見る仲間だと思っていたんだ。普通に私を見てくれていると思っていたんだ。でも、アーサー王と一緒だったと思うと、ね」
またぼろりと大粒の涙が出る。
「目、目が溶けるぞ……」
涙を手のひらで拭おうとしたが、傷つきそうだし、指でも傷つきそうだ。ああ、そうだ。
目尻に口づけて舐めとる。塩辛い。
ガウェインはキョトン……として、次の瞬間ブワッと顔を真っ赤に染めた。
「主よ、弟がかっこよくて困ります」
「報告するなするな、馬鹿が」
「いきなり罵倒に変わりました」
「日誌か!」
ガウェインはくすくすと笑う。
「……ロジアンに、一緒に戻るか」
俺が言うと、ガウェインが目をぱちくりとさせた。涙が少し散る。
「……いいの?」
「いいよ」
……たぶん、許せる。
アーサー王とグウィネヴィアの結婚を見終わり、しかし披露宴で鹿だのなんだのが飛び込んできてしまい、ガウェインは探索の旅に出ることになった。
「君のことは心配だが」
「俺は大丈夫だ。お前の方が心配だが」
「兄さん、ガウェイン兄さんのことは任せて」
ガヘリスが胸を叩いて言う。
ガヘリスはガウェインの従者をやっているから当然ガウェインに付いて行く。
ガウェインがガヘリスの肩に手を置いて言う。
「頼りにしてるよ」
本当にな。ガウェインの兄上は強いが……無敵じゃない。
「ああ、死ぬ気で守ってやれ。こいつはわりと弱いからな」
ガヘリスがぱちくりと瞬きする。
ガウェインが苦笑する。
ガヘリスは不思議そうに俺とガウェインの顔を見比べていた。が、わからないものはわからないのでどうでもよくなったのだろう。俺の肩を叩いて言う。
「兄さん、母さんをよろしく」
「大丈夫だ。もう、な」
ガヘリスに母を頼まれるのは、今回は全然辛くなかった。
俺はロジアンに戻り、母と和解した。
「ごめんなさい。わたくし母親失格ね……」
しおらしくしょんぼりしている。横で小さなガレスが心配そうに母の手を繋いでいる。
ガレスを避けなくなったか。良かった。
「俺も、悪かった。いや、違う。ごめんなさい。あと、ありがとう。守ってくれて」
母は涙ぐんで俺をそっと抱き寄せて。
「当たり前よ、わたくしの大事な息子なんですもの」
「母上」
俺もギュッと抱きしめると、横からガレスもくっついてくる。まとめて抱き締める。
「今度は俺が守る、から。俺が」
「いいのよ、守られてなさい」
「いやだ」
「わがままさんねえ」
「ねー、ガレス」と母が脇のガレスの頭を撫でながら言う。ガレスが「ねー」とにこにこ微笑って俺と母に擦り付く。
良かった、本当に、良かった。
俺は守る
大事な大事な妻を守る
妻にそっくりな息子を守る
息子はさらわれた
俺にそっくりな息子を守る
息子はかわいい
妻にそっくりな息子を守る
息子はなつかない
俺は戦地に赴いた
妻が男に犯されていた
いや。そうじゃない。
そうじゃなかった。
どうして、どうして。
そんな、まさか。
なあ、どういうことだ。
どういうことだ。
妻よ。
お前にそっくりなあの子は俺の子か?
お前にそっくりなもう一人は俺の子か?
なあ教えてくれ。
ああ、ああ、ああ。
そして、ああ、頼む。
お前だけは、幸せで……
間違いなく俺の子、
アグラヴェイン!
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