夏祭り
次の日、栞ちゃんは日本から飛び立った。…いや、違うな。
栞ちゃんは次の日元の場所へと帰っていった。…既に日本は彼女にとっての帰る場所ではなくなっている。
俺はというもの、特に何かが変わることはなく…普通に夏休みを満喫していた。
栞ちゃんとのことはもう過ぎたことであって気にすることではない。その方が彼女も楽だろう。
普通に過ごして、普通に遊んで、普通に勉強して…気が付けば夏休みも終盤に差し迫っている。
愛菜とプールに行ったし、愛菜と山にも登ったし、愛菜と海にも行ったし…あれ? もしかして夏休み愛菜としか遊んでなくない? まぁそれでもいいか。楽しかったし。
や、一応委員長や高嶺とも一回程度は遊んだ気がするが…それもすぐに過ぎ去ってしまったからな。
なんてことのない日々が過ぎていく。…なんでことのない日常を満喫出来ている。それがどれだけ幸福な事なのかを俺は知っていた。
何にも起きないのが一番、こんなクソ暑い中動き回らないのが一番。
夏の暑さから真っ向対立したクーラーが効いた部屋の中でのんびりと過ごしている中…ピンポーンと家のチャイムが鳴る。
「んん…?」
億劫に動きながらマンション玄関のカメラを見てみると…そこには大柄な男が一人。
先輩のお兄さんがそこに立っていた。
─
「いやぁ、お邪魔させてもらって申し訳ないね」
「暑い中外に放り出すわけにもいかないんで…粗茶ですが」
「ご丁寧にどうもありがとう」
いきなり現れた先輩のお兄さんを取り敢えず招き入れる。
一応愛菜がさっきまでそこにいたが、いきなり現れた大男にビックリしたのか奥に引っ込んでしまった。…気持ちはわからんでもない。
「ハハハ、少し驚かせてしまったかな?」
「…いえ、そういうわけでは。…妹は人見知りなんですよ」
いや普通にびっくりするわ。急に来るのやめて? せめて連絡するとか先にやることして?
…まぁ先輩のお兄さんの連絡先を知らないし、俺の連絡先も教えてないから仕方ないけれども…それでも文句は言いたい。けど言えない…なんというもどかしさだ。
「今日ここに来たのは他でもない。名取君にちょっとしたお誘いをしようと思ってね」
「誘い?」
な、何をやるんだ? 何を誘われているんだ…? あんま関わり合いがないから次の言葉が想像出来ねぇ…。
「名取君、夏祭りに興味はないかい?」
「祭り…ですか?」
花火大会とか、そういうのだろうか…? 最近そういうのに行ったばかりだしそこまで興味は持てないな。
「夏祭りと言っても花火大会とかそういう大掛かりなものじゃなくてね…近くの小学校とか、大きめの公園とかの場所を借りてする…簡単に言えば地域で集まってする小規模なお祭りなんだ。そこで屋台を出したり、盆踊りを踊ったり…本当にその地域の人達のお祭りみたいな感じさ」
「ほぉ」
俺の過ごした地域ではそういうのはあまりなかった気がする。…もしくは俺が知らないだけかもしれない。
「そのお祭りが明日あるんだけど…よかったら名取君も来ないかい? …って、穂希が思っているらしいんだよね」
そこで意外な名前が上がる。…これ、先輩発案なの? というか思っているらしいとはどゆこと?
「いやぁ、穂希の感情的には久しぶりに夏祭りに行きたい…けれど外に出るのは怖いので、行くのなら誰か頼れる存在と一緒に行きたい。…そこで君のことを思い浮かべた様なんだけど、穂希は引っ込み思案だからね…自分からは少し提案しづらかったみたいなんだ…」
その言葉を聞いて心臓が一度大きく鳴る。
…俺、先輩と遊びに行く約束したよな…。海でも俺の家でも何処でもって、楽しい夏にしようって…。
俺は阿呆か? それとも馬鹿か? 叩いても治らないゴミ屑か?
何故俺から誘わなかった。…何故向こうから声を掛けるまで待っていたんだ。俺だって先輩と一緒に遊びたかったのに。
「だから僕の方から出向かせて貰ったんだ。僕は君の連絡先を知らないからね。直接家に向かわせて……な、名取君? ど、どうしたんだい? そんなに震えて…」
「は、腹を切ってお詫びします…!!」
「えぇ!?」
これはもうハラキリでしか償えないだろう。…包丁どこにあったかな。
「いやいや!? 元はと言えば誘えたのに誘わなかった穂希が悪いから! そこまで思い詰めないで欲しいな…!」
「んぐぅお…!」
包丁を探す為に立ち上がろうとしたが、先輩のお兄さんに無理矢理座らされてしまった。…ちからつよい…。
「そんなに穂希のことを考えてくれて嬉しいよ…でなんだけど、もしよかったら穂希と一緒に遊んでくれないかな?」
「此方こそ喜んでその任、拝領させて戴きます…」
「う、うん…? よろしく頼むね…?」
─
「というわけで、本当にすんませんでした…」
「え、え!? どどど、どうして名取君が私の家に…? それになんでスーツ…??」
翌日、俺はスーツを着て先輩の家まで向かった。スーツはバイトで使うやつを使用している。
「今日は先輩が夏祭りに行くということで…不肖、この名取が先輩の護衛をさせて戴きます」
「ご、護衛…? それに夏祭り……あ」
そこで先輩は何故俺がここに来たのか察した様だ。まぁ俺の後ろで先輩のお兄さんが微笑みながら立っているしね。
「お、お兄ちゃん!! もしかしてお兄ちゃんが名取くんを呼んだの!?」
「ははは、悪かったかな?」
「悪くは…ないけど、もっと事前に知らせてくれてもいいんじゃないかな…」
「だって穂希がずーっとメール画面を見て悩んでいるのを見ていたからね、兄としては力になってあげたいと思ったのさ」
「もぅ! もー!!」
先輩とお兄さんのやり取りを微笑ましく眺める。兄妹で仲が良いというのはいいことだ。
それに先輩がここまで子供らしいのは珍しい…貴重な一面が見れて眼福だな。
「それより名取君を放置してもいいのかい? 彼は今日、君の為にここまで準備してくれたんだよ?」
「え、…あ、そうだよね。…でも、どうしてスーツを来ているのかな? カッコイイけど…」
おっと、ようやく俺のターンか、兄妹の仲を邪魔しちゃいかんと黙っていたからな。少しだけ反応が遅れた。
「…先輩が夏祭りに行きたい…というオーダーを完璧に遂行する為にはある程度周囲の警戒をしなければなりません。…先輩の安全を確実にする為に自分も気を引き締める必要がある…ということで、仕事で使うスーツを着たというわけです」
これを着た俺は戦場に立っているのと同義…このスーツを着ている間は誰一人として先輩へと危害を加えさせないということを決意させる…そういう服装だ。
「お仕事? 名取くん、なんのお仕事しているの?」
「簡単に言えば警備…ボディガードのバイトです。お金持ちの人間がやる会食とかでは危ない人間が偶に入ろうとしてきますから…それを事前に防ぐ仕事をしています」
ちなみにこのバイト先は没落する前のお嬢に教えて貰ったものである。金払いがよくてとても助かる。
中学生でも受けられる仕事なーい? と軽く聞いたらこれが返ってきたんだよな…その時の俺もそこそこタッパはあったし、最初は立っているだけでいいと言われたので気軽に引き受けた。
だが実際にはとても緊張感のある仕事だし、責任も生じる仕事でもあった。…万が一のことがあれば俺達のクビが物理的に飛ぶ…とその仕事場の先輩に言われたもんだ。
なんで、俺はその先輩に徹底的に扱かれ…最終的にボディガードとして認められる程度には成長させて貰った。俺が喧嘩に負けないのはこういう訓練もあるからなんだよなぁ。
と言っても何か格闘術を習ったというわけではなく、襲ってくる相手と相対した時に何を考えるべきなのか、そして最優先で守る存在がなんなのか、その為に何が出来るか…などなど、教えて貰ったのはそういう意識の振り分け方とかだな。
「す、凄いお仕事をしているんだね…」
「えぇ、割と自負があります。…ですから、先輩も安心して下さい。貴方の身はかならず俺が守り通してみせます。…例えこの身が引き裂かれようとも、貴方だけは無事に家に帰すと誓いましょう」
「ひゅ…ッ!」
覚悟を持ってそう言ったが先輩の反応はそれほどよくない…もう少し具体的に何をするか言った方がいいかな。
「あはは、まるで漫画の登場キャラクターみたいな台詞だね。それなのに違和感がないのが凄いよ」
先輩のお兄さんにそう言われる。…まぁ、実際言い慣れているからな。
「会場にいる令嬢とか令息にこういうことを言うと喜びますからね。非日常感が堪らんとかなんとか」
雇い主…の子供のリクエストなら受けなければならんと言い続け、そのうちこういう小っ恥ずかしいことを言うことに慣れてしまった。
言うてこのスーツを着ている時だけだけどな、素面なら絶対に言いたくない。
「……令嬢、ね」
「………っ!?」
今、一瞬寒気がした様な…夏が終わる直前とはいえまだ気温が下がる様な時期じゃないんだが…。
「名取くん、その姿はカッコイイし、出来れば見続けたいけど…ちょっと目立つから違う格好をしよっか」
「え、でもこれは俺の覚悟の表れで…」
「大丈夫だよ」
覚悟の印、守る為に特化した姿を彼女は必要ないと言う。
「君はどんな姿でも私を守ってくれる…でしょ? その格好しなくても信頼しているよ」
彼女はいつだって、俺のことを信じてくれているのだから。
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