一つ目の諦念

ぐちゃりと、そんな音がした。

なんてことはない、俺の頭蓋骨が砕ける音だ。その音を俺は感覚で感じ取っていた。


窓ガラスが割れていた。飛んできたものは何なのだろうと冷静に判断しようとすることすら出来なかった。


知覚出来るのは痛いとすら思えない程の激痛と、頭からたらたらと流れ続ける出血の感覚。今もなおびゅーびゅーと吹き続ける風の音だけだった。


「…………ぁ?」


割れたガラスから雨水が流れ続けていた。風と共に吹き続けていた。部屋の中が雨水でぐちゃぐちゃになっていた。


雨水どころではない、撒き散ったガラス片、飛んできた何かの破片、俺から流れ続ける流血…いろんなもので汚くなっていた。

俺が普段から清潔を保ってきた全てがその一瞬で全てぐちゃぐちゃになった。…風とはそれ程の力があるものだった。


「………ぁ、ぁ?」


痛みで上手く口が開かなかった。額が割れているのだから当然だろう。


そも、即死していないだけ運が良かった。もしくは即死していないことが運が悪かったのか…ほぼほぼ死体と変わらない状態で俺は意識も失うことなくその場に倒れていた。

多分、俺の頭にぶつかったものは直撃はしなかったのだろう。…だが、それが余計に痛みを激しくしていた。


アドレナリンが出ないまま俺はその痛みと戦うことになった。多分、俺が痛みに強くなったのはこの時の経験があるからだろう…でなければ頭を瓶でぶっ叩かれても即座に反撃は出来やしない。


「……だれ、か………たす、け…て」


狂う程の痛みが響く中、俺はそんな声を出した。助けを呼べば誰かが助けてくれると思ったのだ。

でも、俺の声はか細く…風の音に掻き消されていく。だから、必死に…気付いて貰える様に窓ガラスが散乱する床を這いずって俺は家の中を移動した。


「だれか………だれ、か…」


俺にとっては必死の叫び声だ。どんなに小さく、誰にも聞こえないものだったとしても、その声は俺にとっての精一杯なのだ。

でも誰にも届かない、誰も俺の声を聞いてくれない。


『……今、下の方で変な音がした様な…』


床を這いずって、血の跡を残して…俺は二階の階段にまで辿り着いた。その二階からそんな声が響いて来る。


耳鳴りが激しく鳴る中、その声はスッと俺の耳に届いてきた。きっと俺の耳が助けを求めていたのだろう…人の声を敏感に聞き取っていた。


『パリン…って、何か物が割れる様な音が…もしかしたら下で何か起きたのかしら…?』


その声は母の声だった。どうやら母は下の様子に勘付いている様だった。


「……母、さん…たす、け、て…」


俺は助けを求めた。子供らしく、親に助けを求めた。…それはきっと間違いだったのだ。


子供だから無条件に助けてもらえるなんてものは幻想で傲慢だ。俺はそんな当たり前の傲慢さを有していた。

今だったらそんな甘えを持ちすらしない。そんな甘えを抱くことすら気持ち悪い。そんな甘えは唾棄して当然のことだ。

少なくとも俺はもうそう思うことはない…俺はその日に子供である自覚を捨てたのだから。


『そう? 俺には何も聞こえなかったけど』


人とは自分の欲望を第一に考える存在だ。よくある、自分のことよりも大事な存在なんてものは欺瞞なのだと俺はその時に知った。


母親は子供が第一? そんなわけがない。もしそうだったのなら俺はあの時すぐに助けられた筈だ。母親だからって誰でも子供が第一なんかじゃないことを俺は知っているべきだった。


『そうかしら…そうよねっ! それに下で何かあっても愛人がいるだろうし…』


『そうそう、それよりもさ…続き、シようか』


……そこから、ずっと嬌声が響き渡るんだ。


母親が喘ぐ声、男のぐぐもった声…死に掛けの体で俺はそれを聞き続けた。聞きたくもないのに聞き続けた。


頭が痛いんだ、心が苦しいんだ。信じたものが全て幻だったなんて直視するのは辛いんだ。


痛くて、苦しくて、辛くて…きっとその時俺はいろんなものを諦めた。母親に対しての何もかもを諦めた。


下らない、本当に下らない。


俺が間違っていたのだ、危ない状況に遭ったのなら誰かが助けてくれるなんて思った方が悪いのだ。

他人の善意を信じる必要なんてなかった。だって、結局人間は自分のことしか考えない生き物だから。


今、この状態で生き残る為には自分の力しか頼れない。自分以外の全ては頼れない。


俺が、俺が、俺が…俺を助けるしかないんだとその時俺は気付いた。


「────ッッッッ!!」


叫び声は出なかった。怒りなんてものは湧かなかった。

あるのはただただ子供という立場に甘え続けていた自分に対しての吐き気と、性行為に対しての嫌悪感だけだった。


血液が流れ続ける頭を手で押し留め、這いずった姿勢から必死に起き上がった。


その時にあったのは意地だけだった。こんなところで死んでたまるかと砕けた脳味噌でそう思ったのだ。


だって、そんなの救いがないじゃないか、こんな馬鹿みたいな事故で死ぬなんて許せるわけがない。こんな母親に助けられなかったから死んだなんて認められない。


俺は俺を守りたかった。可哀想な存在にしたくなかった。だから、俺は自分の死を否定する為に外に出た。家の内に俺を助ける存在なんていないから。



外は風が強かった。あの時家に流入していた風よりも強かった。

体が重い、血を流しすぎたのか、それとも浴びる様に体に掛かる雨水を服が吸い過ぎたのか…この倒れてしまいそうな倦怠感の原因がどちらなのか俺にはもうわからなかった。


風が強いんだ、ふらふらと揺れる体を支えるのが本当に大変で、視界は馬鹿みたいに悪くって…見慣れた道路の筈なのに見知らぬ場所にいるかと思った。


「……………」


視界が揺れる。段々と視界が狭まって来る。足元は俺の流血で薄赤く染まっていた。

滲むように血の足跡を地面に踏みつける。…どう見ても血を流し過ぎていた。


当てもなく歩き続け…結局俺は地面に倒れ伏した。当然だよな、普通の人間が頭から血を流し続けて立っていられるわけがない。


それでも生きることは諦めたくなかった。それでも這いずってもがき続けた。

地面に打ち捨てられた芋虫の様に、道端に捨てられ、踏み潰された虫の様に…俺は地面に蹲っていた。


そんな時だ、こんな台風の日には不釣り合いの高級車が俺の前に現れたのは。


『……?』


ライトが俺を照らしている。眩しくて目も開けられない。

その時の俺は気付いていなかったが、どうやら俺は道路のど真ん中で倒れていたらしい。


何故車の下敷きにならなかったのか不思議な状況…こんな嵐の中なのだから視界も悪いだろうに…それでもその車は俺を轢くことはなかった。運転手…という職業が伊達ではないことがわかる一瞬だ。


「……あら、貴方…こんな場所で倒れてどうしたの?」


その人はこの嵐の中、濡れることもお構いなしに車の外に出た。俺を避けて先に進むことが出来た筈なのにそうはしなかった。


「…って、貴方酷い怪我をしているじゃない!? ちょっと、今すぐ病院に…いや、この台風の中やっている保証もない…。仕方ありません、早くこの人を我が家へ連れて行って!」


そしてその人は汚れることも、濡れることも気にしないで俺をその車に乗せてくれた。…俺は、その時の言葉を忘れることはしない。


母親が見殺しにした人間を赤の他人が助けることもある。…結局善意なんてものはその人個人にしか宿らないものなのだと初めて知った。…本当に、初めて知ったんだ。


こんな世界に誰かの優しさなんてものがあるって初めて知った。俺はそんな善意で救われた。…本当に、本当に嬉しかった。


気が付けば俺は意識を失っていた。気付いた時には何処かの病院のベットの中にいた。


どうやら俺は死に損なったらしい。俺の悪運は俺を殺すに至らなかった。…俺は、確かに生き残った。


俺のことを助けてくれた人の名前は金ヶ崎綾華という人だということを知った。その人の名前を実は俺は知っていた。お嬢は学校の中でも特に有名な人だから。


目が覚めた時、お嬢は俺の目の前にいた。どうやら暇を見て様子を見てくれていたらしい。


「…あ…! 起きたんですの!? よ、よかったぁ…ちょっとナース! お医者様を呼びなさい! 今すぐに!!」


「………」


その声は何処までも真摯だった。俺が生きていてよかったと心の底から思ってくれている声だった。


多分、人の優しさで泣いたのはその時が最初で最後だ。…嬉しさの涙で視界がぐちゃぐちゃになったのは初めてだった。


俺はお嬢に恩がある。命を救ってもらったという…人の優しさを信じさせてくれた恩がある。

きっと、お嬢がいなければ俺は死んでいたし、死んでいなかったとしても今の俺は存在してなかった…言うなれば人生の分岐点の一つがここにある。


そしてもう一つの分岐…家族に対しての情…特に母親に対しての情を俺はこの一件でほぼ失った。もう目の前のを親として認めることが出来なくなっていた。


これが俺を変えた一つ目の原因…今の俺を作った起因の一つと言ってもいい。


その日、俺は諦めるということを覚えたのだ。

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