風が吹いている

先輩のお兄さんが言うには、今日の夜から先輩の家族が全員家から離れるらしく、先輩を一人で留守番させるのは少し心配…ということで少しの間先輩を俺の家に泊めて欲しいということだった。


何故俺の家に…という疑問はある。そもそも直前に頼み込むことではないとは思う。


しかし、それを追求したところで意味はない。一般論に男の部屋に先輩を入れるのはどうかとか、もし俺が何かしたらどうするんだ…とかそんなことを言っても無駄だ。


『だって、君はそういうことはしないだろう?』


そんな言葉で俺の反論は全て封じられてしまう…その通りだから何も言えるわけなかった。


全人類の中で見ても俺は見た目と言動さえ気にしなければ人畜無害の部類の人間だと自己申告出来る。ある一定のラインを越えなければ基本的に優しい人間だぞ、俺は。


そんな俺がこんなに俺のことを信頼し切っている人を裏切れるわけがない…結果として俺は先輩を家に泊めることを決めてしまった。


「それじゃあ穂希をよろしく頼むね」


そんなことを言って先輩のお兄さんは帰っていった。あの人は今日に限って友達の家に泊まる用事があるらしい。


「お邪魔します」


「………」


そうして、先輩は俺の家に再びやって来た。

こうやって人を呼ぶ度に自分の家の匂いがわからなくなる。…この感覚は一生慣れる気がしない。


「…先輩、申し訳ないんですが…今から少しやるべきことがあって…」


「わかってる…台風の備えをするんだよね? 私も手伝うよ」


何故先輩がそのことを? と思ったが、台風への備えなんて何処の家庭でもするものと割り切る。段々と雨足が強くなっているから無駄な会話をしたくないのだ。


「ガムテープ貼りなら任せて! 私、実家にいた時も台風の時にはよく対処したものだよ」


「…じゃあ、お願いします」


だから、俺は何も気にすることはなく先輩に手伝ってもらうことにした。


結果として先輩が手伝ってくれたことにより作業は早く終わった。お陰で風が勢いづく前に作業を終わらせることが出来た。


「……」


びゅー、びゅーと隙間風の音が鳴る。ガタガタと窓ガラスが揺れている。

ベランダから部屋の窓までほんの少し距離があるはずなのに雨がぶつかる音が鳴っている。どうやら横っ風が吹いているらしい。


「………」


風が吹く度にほんの少しだけ体が身構える。心配する必要なんてないはずなのに、頭の傷が風の音を聞く度に少しだけ疼く。


「どうしたの?」


「……ん」


窓ガラスから目を離し、その声の方向に顔を向ける。


「何か辛そうな顔してる。…風の音が気になるの?」


「……少しだけ、ほんの少しだけですが…ちょっと、気になりまして」


別に雨音なんて怖くはない、雷鳴なんてものは恐ろしくはない。

…だが、この風の音だけはダメだ。怖くて堪らない。


びゅーびゅーと鳴り響く音、それが鳴るたびに身が縮こまる気がする。頭から血の気が引いてる気がする。

気にしたくないのに、気にする必要はないのに…頭からその音を追い出そうとすればする程その音は脳裏に響き続ける。


「…そっか、じゃあこうするのはどう?」


先輩は携帯端末を起動したかと思うと…何かのアニメのBGMを流す。


『〜〜〜〜〜♪ッ!!』


しっとりとしたものではなく、聞けばついつい笑ってしまう様な…心がノッて来る様な音楽…最近のメジャーのものではないものが辺りに流れる。…確か、パラパラとか、ユーロビートと呼ばれる音楽だった筈だ。


「……はは、いきなりなんてものを流すんですか…」


思わず苦笑してしまう。先輩の趣味がよくわからなくなってしまった。


「これ、お気に入りの曲なんだ。…苦しい時も、辛い時も…この曲を聞けば何処までも走り去っていける…そんなふうに思わせてくれる曲だから」


確かにそうかもしれない…選曲は謎だったが、確かに風の音は消え去った。


『〜〜〜〜〜♪ッ!』


機械で作った音が鳴り響く。どう聞いてもこんな音は自然界には存在しないだろうという曲…人間の手で作り出した音。

だからだろうか、…段々と、風の音が気にならなくなっていく気がした。


「…聞いてもいいかな?」


「何を…ですか?」


男ヴォーカルの熱唱が響き渡る中、先輩がそんなことを言ってくる。


「名取くんがどうしてそこまで風の音を嫌うか…聞いてもいい?」


「………」


それは一歩踏み込んだ質問だったと思う。

俺が無意識線引きしている境界線…その内に一歩踏み込んだ言葉…普段の俺ならば適当な言葉で誤魔化しているであろう言葉。


「……三年前に、一度…こんなことを経験していまして」


だけどどうしてだろうな…この人を前にすると自分のことを話してもいいのではないかと思えてしまう。

この人の雰囲気がそうさせるのだろうか…多分そうなのだろう。

きっとこの人は聞き上手と呼ばれる人だ。でなければ偏屈な俺が身の上話をしようと思いすらしない。


「俺が中学一年の頃…確か今日と同じ様に風が強い日に、俺は…」


ズキズキと頭の傷が幻肢痛を覚える。既に傷は完治してここにはその名残しか残っていないのに、その痕は今も俺に痛みを与え続ける。


「…当時の俺は今の俺とは違って…なんというか普通の奴でした」


その痛みを抑えるべく頭を手で押さえてみるが全く痛みは薄まる気配がない。


「普通のガキで、普通に人の優しさとか、善意とか…そういうものに全幅の信頼があると思っていました。…そう、例えば、死にかけの人間がいれば誰もが手を差し伸べてくれると思っている様なガキだったんです」


「……今は違うの?」


今? …そうさな。


「今はそうですね…多少の信頼は寄せています。そういうものを少しは信じていいとは思います。…けど、盲信することは二度としませんね…そういうのはちょっと無理です」


しない、したくないのではなく無理だ。…もう、俺にはそんなこと出来ない。


「先輩は家族のことが好きですか?」


「うん…好きだよ?」


そりゃ素晴らしい。家族とはやはり人間が最も信頼出来る団体なのだと想像出来る。


「俺は家族のことをあまり快く思っていません。特に父と母と…姉に関しては若干の嫌悪感を抱いてしまっています」


「……そうなんだ」


何となく俺にそういう気質があるのは察していたのだろう。

あの家族の団欒の際…俺の雰囲気が変わったことを先輩はきっと察していた。先輩のお兄さんが気付いたことなんだ。もしかしたらあの家族全員に知られていたかもしれない。


「俺の家は先輩の家程上手くはいっていなくて…簡単に言えば家族仲が無いんです」


「…家族仲が無い…?」


「えぇ、…悪い良いとかではなく、無いんです。…多分、家族として呼んでいい関係ではないんですよ」


父とは関係が希薄だった。希薄過ぎて俺は今も父を父と呼ぶことに抵抗を覚える。

母とはそもそもの関係が破綻している。あれを母と呼ぶ勇気は俺にはない。


根底の二人から全て崩れているのだから子供の俺との関係が終わっているのも当然だ。

…家族仲が無いとはこういうこと、家族と呼べる程関係を俺達は構築出来ていない。


「昔の俺はそのことに気付いていなかった。…もしくは見ないふり、知らないふりをしていました。…知らなければ、見ていなければ…きっとその仮初で偽物の関係を続けられると思っていたんです」


…だから、その諦念は余計に俺たちの溝を深めた。…もう、取り返しの付かない程に。


「…三年前の当時、先輩に聞かせることも恥ずかしい話ですが…母は他の男と不倫をしていました。何ならそれよりも前から、そして現在もその不倫は続いています」


「…え?」


驚くのも無理はないだろう。他人の母親が不倫していた…なんて聞かせられて正常でいられる人間は少ない。


「その不倫相手は俺の元友人で…ぶっちゃけ俺はそのことに気付いていました。その上で気付かないふりをしていました。…その日も元友人は俺の家にいました。俺は元友人がやって来ることは知りませんでした」


放課後から家にいて、母は元友人と奥の部屋に入っていった。その部屋は唯一とある作業が終わっていた部屋だった。


「その日は台風の日でした。風が強く、外出規制が出る程の強風が辺りに吹いていました。…俺は何も用事がなかったのですぐに家に帰りましたが、他の家族は皆友達の家に泊まったりしていました」


それはきっと偶発的に起きたことだ。偶々友達の家でパジャマパーティをするとか、特になんの理由もない。

そんな理由で家には母と元友人と…俺だけが残ることとなった。


「…俺はいつも通りに家事を終わらせて、少し遅れて台風の対処をすることにしたんです。…家の家事をするのは俺の仕事だったんです」


別に言う必要がないので先輩には言わないが、無論その時にも隣の家の家事もやっていた。…それを終わらせてから台風の対処をし始めたんだ。


「先ずは個人の部屋から作業を終わらせて、次は玄関、そして最後に外の庭に出るためのガラス戸にも処置をするつもりだったんです。…あの時も吹く風は強く、びゅーびゅーと隙間風の音が鳴り響いていました」


脂汗が出て来る。その時を思い返すだけで心臓が縮こまる。

…けれど、それはもう過ぎ去ったことだから…だから、だからこの口でもその事実を言葉に出来る。


「それは仕方ないと諦めて、俺は最後の作業をする為にそのガラス戸に近付きました。…そうするとですね、急に視界が真っ黒になったんです」


あの時ことは忘れもしない。こういう…風の強い日にはいつも思い出す。


「ギャグ漫画にはよくあるものです。風の強い日に物が飛んできて、それが当たるなんてことは…でもね? 実際にそれを経験すると…全く笑いものにならない事態になるんです」


ガラスが割れる音、それが頭に激突する激痛。頭の骨がぐちゃりと砕ける音が耳からではなく脳髄から聞こえる。


そうだ、俺はあの日、あの時…死に掛けた。

そしてその日、俺は全てのことに諦念を抱いたのだ。

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