台風がやって来る
『明日は巨大な台風が日本全域に上陸するでしょう』
朝、ニュースを見ている時にそんな声が聞こえて来る。…そうか、台風が来るのか。
どうやら低気圧やら高気圧やらがぐっちゃぐちゃとなった台風が日本に来るらしい。更に言えば俺の住んでいる地域に直撃するコースでもあった。
「…愛菜、台風が来るってよ」
一緒に朝ごはんを食べている愛菜に世間話のつもりでそう言ってみる。
「…ですね」
「どうやらとんでもない規模の台風になるみたいだな、一日中日本全国に上陸しっぱなしだってさ…こりゃ数日間外に出る気が湧かないなぁ…」
「……はい」
流石に一箇所に留まり続けることはないとはいえ、そこまでの規模の台風はいつぶりだろう? …記憶にある限りでは…そうだな、三年前の…丁度今と同じ時期に一度来たかもしれない。
「…暫く、家に戻ってなさい。ほら、実家には台風の備えもあるからさ…ここにいたら万が一のことがあるかもしれない」
「あのっ…! ………私は、愛人さんと一緒にいたいです」
台風は危険だから…という理由で愛菜を実家に戻そうとしたが、そう言われた。
しかしながらこの家には台風の備えはそこまでない。実家と比べればその差は歴然だ。…そんな場所に愛菜を置いておくわけにはいかない。
「ごめんな? 愛菜…本当に悪いけどその期間はここにお前を置いていけない。…お前に万が一のことがあったらいけないから」
「………」
愛菜は顔を下に向けて顔を俯かせてしまった。…きっと家に戻りたくないのだろう。…母は、きっと変わらないだろうから。
でも、それでも実家に戻すしかない…ストレスを感じるであろう場所に戻すしかない自分が腹立たしかった。
「本当にごめん…でもさ、台風の備えは俺がやるからさ…なんとか戻ってくれないかなぁ…?」
情けない口調でそんなことを言う。…どう見ても頼りない兄だな…本当にみっともない。
だがそれでも…愛菜は実家に戻った方がいい。
「っ…私は、…………はい」
結局愛菜は俺の言葉に頷いてくれた。…本当にありがたかった。
すぐに外に出る支度をする。…台風の備えはなるべく早くに…だ。
………
「私は、別に私の心配なんてしません」
一人の青年が慌ただしく動くのを尻目に、同じ空間にいる少女がそう呟く。
「別に、いいのです。あの家を守る必要なんてないのです。…貴方が親身になって守る価値はあの家にはないのです。そこから生じた私にもその価値はないのです…」
届かないと知っていても少女はその背中に手を伸ばす。…いずれ、その腕はだらりと重力に従って垂れ下がった。
「私は…貴方が平穏であり続ければそれでいいのに…どうして、私は貴方に平穏を与えられないのでしょう…?」
その独り言は誰に届くことはない。…青年の呼び掛けの言葉が聞こえた時、再び少女は自分の役割を再認識する。
「…私は貴方にとっての守られるべき存在…庇護するべき存在…私は貴方の助けになることはないし、助けようとしては行けない…わかっている。わかってはいます…そうしなければならないということは…嗚呼、でも…どうしてもそれがもどかしく思ってしまう」
遠い、遠すぎる。
一見近くに見えていてもその背中への距離は遥か彼方だと少女は思っている。
その感覚は間違いではない。確かに彼女と青年との差は開き切っている。そしてその差は埋まることはなく、今も離れ続けていっている。
万物にのしかかる枷が彼女を縛っていた。この世に在り続ける限りその枷は外れることはない。例えどんな存在がいたとしても決して不可能なのだ。
だからこそ彼女は嘆く。
「何故、私は…貴方の背中を追いかけることしか出来ないんでしょうね…」
己の無力を嘆く、無力で在り続けるしかない自分を蔑む。いつまでも変わることが出来ない自分達をずっとずっと呪い続ける。
そうして、誰にも届かない独白が終わる。…こうして、彼女はこれまで通りの彼女を演じ続けるのだった。
─
トントンと無心で家を補強する。この作業も慣れたものだ。
家のありとあらゆる窓ガラスを補強し、念の為にガムテープを貼る。これでもし飛来物が飛んできてもガラスが飛び散ることはないだろう。
「母さんの部屋も愛菜の部屋も…他の場所も全部補強した。これで心配はない…よな?」
……ダメだ、心配はないと考えることすら烏滸がましい…そんな気持ちを抱いて何かがあったらどうする?
補強を続ける。一心に、ただこの作業に没頭するだけでいい。
結局、台風の備えが終わる頃には陽が傾いてしまっていた。…だがそのおかげと言ってもいい、台風の備えは完璧なものとなった。
もし飛来物がやって来ても問題ない。外にある小物も全て家の中に入れた…これで何があっても安心だ。
「愛菜、作業が終わったから俺帰るな」
「…はい」
全て終わったことを愛菜に伝える。このまま無言で帰るのが忍びなかったからだ。
「いいか? 台風が収まるまでは絶対に窓ガラスには近付くなよ? それと外に出るのも禁止だ。誰かが家の中に入れてと言っても絶対にその相手を確認しろよ? チェーンロックは絶対に付けろよ?」
「わかってます。…わかってますから、愛人さんはご自分の家の補強を…私ばかり気にしていてはダメですよ?」
俺のことを心配してくれる言葉がすっと心に染みる。…愛菜は賢い、俺がくどくど言わずとも言ったことはちゃんと理解出来る子だ。…ダメだな、この心配性は一生直る気がしない。
「ごめんごめん、しつこかったよな…それじゃあ、台風明けにでもまた会おう」
「………はい」
別れの挨拶をしつつ、俺は実家から出る。
…次は、俺の家の補修をしないと。
実家を出る頃には既に辺りは昼間ほどの明るみを消してしまっている。これから数時間もすればすぐに暗くなっていくだろう。
「………」
夜道を歩くのは慣れている。だから特に恐怖を感じることはなく、スタスタと歩みを進められる。
「………?」
ぽたっ…と鼻の上に何かが落ちて来た。…なんてことはない、ただ、小雨が降って来ただけのことだ。
そう言えば雨雲自体は今日の夜にでもやって来るんだった…と、今朝のニュースを思い返しながらそう思う。
…そうか、今日の夜にはもう嵐が来るのか…早く、家に帰らないと。
足取りを早足に変えて歩く。ここからきっと雨足が強くなって来る。
別に雨は嫌いじゃない。体が濡れたり、洗濯物が濡れたりするのは面倒だがそれでも雨はいろんなものを掻き消してくれる。
雷も別に嫌いじゃない。単なる自然現象に恐怖を覚えたことはない。ただ光り輝き大きな音が鳴るだけだ…直接被害を受けたこともないのに恐怖を覚えるわけがない。
…ただ、俺が怖いのは…恐ろしいと思っているのは…。
「名取くん」
声が聞こえる。俺の名を呼ぶ声だ。
「……え?」
気付いたら俺は家の玄関に立っていた。いつの間にか辿り着いていたのだろう。…そこで、この場にいるはずのない人がいた。
「先輩? どうしてここに…」
先輩が目の前にいた。どうやら一人でいるわけではない…先輩のお兄さんも側にいた。
「名取くんにお願いしたいことがあって…いいかな…?」
「頼みたいこと…?」
やけに急な言葉に少しだけ頭が混乱する。…何故、今ここで頼み事を伝えるのだろうか…。
だが、それでも聞かないわけにはいくまい…きっと先輩にとっては必要なことなのだ。
「えぇ、俺に出来ることなら…頼みたいこととは何でしょうか?」
「うん…名取くんにとってとっても迷惑なことかもしれないけど…」
先輩はそんな前置きをすると、こほんと少し咳払いをする。
「…名取くん、今日と明日と…もしかしたら明後日まで…名取くんのお家に私を泊めてもらえないかな…?」
そうして、そんなことを言って来るのだった。
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