辛い辛い、蜜の様な味

俺は自分で言うのもなんだが大柄な方だと思う。同年代に限って言えば俺より体格がいい人間は見たこともない。

しかし、目の前の人物は違った…。


「一度君に会ってみたかったんだ! 本当に会えて嬉しいよ!!」


ガバッ…! と椅子を引いて先輩のお兄さんが立ち上がる。大きな体が俺の眼前に立ち塞がった。

お、俺より大きい…一体身長何センチあるのだろうか…。


先輩のお兄さんは俺の手を掴み、大ぶりに上下させる。力強ぇ…。


「あ、あはは…」


なんだろう。生物としての格を見せつけられた気分だ。…こんな爽やかで力も強くて体格が大きいとか何? 俺の完全上位互換?


「ささっ! 座って座って! いつまでもお客様を立たせるわけにはいかないからね!」


「あはは、お構いなく…」


目算だと…195前後か…力は多分五分くらいだろうか…。…ふむ、相手をするのなら筋肉が邪魔でそこまで過敏な動きは出来ないと見た。これなら多分勝て…はっ!


ついつい襲われた時の状況を想起してしまった。…生物としての完全に負けているからな、どうしてもそんなことを考えてしまう。

これまでの経験により、どんな時でも相手に勝たなければならなかった俺にとって相手の分析は必要…いつもの癖でそれをやってしまった。


危ない危ない…一つ間違えたらいきなり襲い掛かるところだった。

…よーし、自己暗示しろ…この人は敵じゃないこの人は敵じゃないこの人は敵じゃない───。


「名取君! 僕と腕相撲をしてみないか!」


敵じゃな…え?


「腕相撲…ですか?」


「うん、ダメかな?」


…ふむ、ダメでもないが、よくもない。どう考えたって勝てるビジョンが浮かばない…。

が、しかし。


「…受けて立ちましょう」


男は売られた喧嘩は買うもんだ。それに相手の力を調べてみたい気持ちもある。これでも結構鍛えてんだぜ? 俺。


「いきなり僕の言葉を聞いてくれてありがとう! それじゃあそこでやろうか」


先輩のお兄さんに導かれそこの机に…互いに肘を机に置き、手を組み合わせる…。


「穂希、頼んでもいいかい?」


「うん」


先輩が俺達の手にそっと手を添え…。


「レディー…ゴー!」


「フンッッ……!!!」

「───ッッッッ!!!」


勝負の火蓋が切って落とされる。

ミシっ…! と机が一瞬軋み、筋肉と筋肉が躍動する音が辺りに響いた。


「ほう、中々…」


「つ、強い…っ!」


先輩のお兄さんの力は相当のものだった。この見た目は伊達ではないということなのだろう…が、これ多分アレだな、俺の方が力強いわ。


いや、筋力的には互角なのだろうが…筋肉の使い方がなってない。…ここは経験の差が出たということだろう。…いや腕相撲の経験って何? 我ながら言ってて意味不明だな。

ここで言う経験とは…喧嘩か? いやなんか違う…そうだな、肉体を如何に酷使し続けてきた差と言うべきだろう。


「よっこらしょ」


「ぬわぁぁ!!!」


少し(マジ本気)力を入れてKOする。うん、久しぶりにいい勝負が出来たわ。


「わぁぁ……」


「す、凄いね…! 陽穂に勝っちゃうなんて」


先輩が感嘆したような声を出し、先輩のお母さんが素直に賞賛してくれる。…照れるぜ。


「…ほ、本気でやったのに負けた…。…ふふ、上には上がいるってことだね。…ありがとう、名取くん。僕の我儘に付き合ってくれて」


「いえいえ、自分も楽しかったので」


こういう…何? 普通の遊びをあまりやったことがないからなぁ…新鮮で楽しい。


「いやぁ、本当に凄いね名取君、陽穂は現役のプロレスラーなのに…」


「あぁ~プロレスラー…」


納得、それならこの筋肉量も頷けるというものだ。


「あんまり驚かないね…名取くん」


「まぁ世の中沢山の職業がありますからね。プロレスラーの人が近くにいても不思議ではないでしょう」


俺の場合職業拳法家やらにも喧嘩売られたことがあるからな…むしろプロレスラーなんて普通の職業でしかない。


「ははは、流石妹を助けてくれた人だ。度量が違うね! 今日はゆっくりしていって欲しいな!」


「う、うっす…」


爽やかさと巨漢のギャップが凄い。…慣れる気がしないな。



とまぁ、そうして先輩の家族と交流することとなった。

先輩のご家族は暖かい人達ばかりで、どうしても疎外感を感じてしまう。


俺の知っている様で知らない世界が広がっている。どうにも現実にいるという実感が湧かない。


食べている料理の味も不思議だ。今まで食べたことがない様な…昔食べたことがある様な…そんな味。


「へー…先輩のお父さんは先輩の為に在宅ワークに切り替えたんですか」


「そうだね。…この子のことが心配でね…会社にどうしてもとお願いして頼み込んだんだよ」


先程までの騒ぎを聞きつけたのか、それとも仕事を終わらせたのか…先輩のお父さんがリビングに出てきた。

これといって特徴的なところがない普通の父って感じの人だ。一つ特徴を挙げるとするのなら身長が高い所? でも俺よりちょい下ぐらいだ。


「幸い上司や社長も僕の言葉を聞いてくれて…むしろ在宅ワークを取り入れるキッカケになったと言ってくれたんだ。…本当に感謝しているよ」


「おぉ、ホワイト企業ですね」


最近聞いた上司像とは掛け離れた人だな…むしろ高嶺の父はいったい何処の企業に勤めているのやら…大手会社と言っていたからもしかしたら名前を知っているかもしれんな。


「無論、君にも感謝しているよ。…本当に穂希を助けてくれてありがとう」


「あぁ…いえ、そんな畏まられても困ります」


突然頭を下げられたのでそれを止める。…うーん、やりづらい。

今まで相手してきたのは大体やばい奴らだったせいか、こういう普通のご家族に対してどう接せばいいのかがわからんわからん…困るなぁ。


名前の無い臓器が痛くなるような…不思議な焦燥感が体の中を駆け巡っていた。

なんだろう…居心地が良すぎて逆に居心地が悪い…そんな感覚がある。


「ははは、噂に違わぬ好青年だね。穂希の言った通りのお人だ」


「も、もう! お父さん…!」


父と娘が楽しそうに話をしている。


「母さん、お代わり!」


「本当に陽穂はよく食べるわねぇ…」


母と息子が気楽に接している。


見たい光景だ。見たくない光景だ。

…これが、二律背反という感情なのだろうか。


「………」


貸し与えられた茶碗の中身を減らす速度を徐々に上げる。おかずも食べずに、なるべく早く米を減らすかのように。


こんなぬるま湯に浸かっていると多分俺はダメだ。ダメになる。

過度な不幸を味わうのも嫌だが、過度な幸せも時には毒なのだと思い知らされる様だった。


そうして、徐々に徐々にご飯をかっこみ…俺の茶碗の中身は空になっていた。


「…ご馳走様でした。本当に美味しかったです」


本音の感想。本当にここの家の料理は美味しかったと思う。ただ、俺の舌には合わせられないだけ。


「申し訳ありませんがここいらでお暇させて頂きます。…妹が家で待っていますので」


「うーん…もっとゆっくりしていって欲しいけど…それは私達の我儘よね…」


「いえ…また機会があればお邪魔させていただきます」


その機会が本当にあればの話だが…少なくとも今はその機会を作る気にはなれない。…本当に浅ましい自分が嫌だった。


卑しいとはこういうことなのだろう。…まさか、他人の幸せを見て羨むなんて、そんなことをするなんて…。

幸せは祝福すべきだ。幸せは尊ぶべきだ。…それが他人のものであったとして、自分には絶対手に入らないものだとしても…そうすべきなのだ。


善い人間とは、そういうものなのだろう?


「あ、名取くん…! 近くまで送るよ」


「いえいえ、お構いなく…それに今は夜遅いですし…」


先輩の気遣いを断り外へ向かう途中。


「じゃあ、僕が近くまで送ることにするよ」


と、その爽やか過ぎる笑顔を浮かべながら、先輩のお兄さんがそう言うのだった。




「すいません…わざわざ」


「いやいや、僕が勝手にやったことだから。あまり気にしないで欲しい」


爽やか巨漢のお兄さんはずんずんと俺の後ろを歩く。…これ、襲おうとしても誰も襲えないんじゃね? 側から見たら二人組のヤバい奴にしか見えないぞ。


「……名取君、もしかして我が家の雰囲気がお気に召さなかったかな?」


歩いている途中、突然の言葉。その声に少しばかり心臓が跳ねてしまう。


「……いえ、特にそういうことは…」


「いや、お気に召さなかったと言うのは少し違うね。…例えるとするなら…見たくない映画を見させられた…という感じかな」


……深く息を吐く。

誰にも聞こえない様に、ゆっくりと。


「……本当にそういうわけじゃないんです。…もし、不快にさせてしまったのなら申し訳ありません」


「いやいや、逆だよ。むしろこちらが申し訳なかった」


先輩のお兄さんは少しばかり深く頭を下げる。


「妹の恩人に辛い思いをさせるなんて言語道断だ。…何が君の気分を害したかはわからないけど、それでも謝らせて欲しい」


「…いや、あの…本当に違うんです」


ビックリした。本当にビックリした。

何がビックリしたって、先輩の家族の暖かさにビックリした。


慣れていないのだ、この暖かさに。熱の差で心が火傷してしまいそうになる。


「俺は…家庭環境がちょっと複雑で、あんまりにも先輩達の家が暖かかったから…少し辛くなっただけなんです」


相手に負わされたものではなく、自分が勝手に傷ついただけのこと。

妬み…という感情を俺は先輩一家に抱いていた。


「あの空気と接すると…凍え切った心が溶けていく気がするんです。…固く尖らせた支えが壊れていく気がするんです」


俺が生きて行く為に培ったその全てがボロボロと崩れていく。…それが怖かっただけなんだ。


「心地良すぎて、その状態で居続けると後に戻るのが怖くなる。だから、ほんの少しだけ居づらかっただけなんです。…と、すいません…急にこんなことを言ってしまって…」


愚痴のようなことを言ってしまった。まだ会って数時間の人間に言うべきことではないだろう。

反省し、謝ろうと頭を下げるが…。


「わかるなぁ、その気持ち…」


先輩のお兄さんがそう言ったことで動きを止めてしまう。…一体どういうことだ?


「僕達家族もね、半年前までは本当にバラバラだったんだ。…穂希が中学一年生の頃、大人の男に襲われて…そこから僕達の平穏は崩れた」


絞り出すような声でそう言う先輩のお兄さんの顔は後悔に満ちている。


「…今でも思い出すよ。暗い部屋、泣き啜る妹の声、母の絶望した顔、父の慟哭。…そして、妹が襲われる原因を作った僕の後悔…」


先程までの雰囲気は失せている。今の彼に爽やかさなんてない。…あるのは、暗く染めた痛嘆だけだった。


「ここから少し離れた場所で、僕が当時やっていた部活の大会があったんだ。…妹はそんな僕を応援しようと電車に乗って、そしてその会場に行く道中で襲われた」


「それは…」


違う…と、言いたいが…俺が言ってもこの人は納得しないだろう。この人の顔はそんな甘えに満ちた顔ではない。


「…妹は最後の最後で守られたらしい。妹の言葉によると、妹を助けてくれたのは自分と同い年ぐらいの子供だったと言っていた。…けれど、妹の受けた心の傷は深く、大人の男を見ると震え上がるんだ」


先輩のお兄さんの目には力がない。その顔から先輩の傷がどれ程のものから手に取るようにわかった。


「……僕は無力だ。様々な目で見られる妹を守る為に強くなろうとしたのに、一番大事な時にはいつもいない。…あの時も、そしてつい先日のことも…」


つい先日…とは、あの日のことだろう。

俺が偶々通り掛かって、そして叩き伏せた事態。


「妹が一人で帰るってことはわかっていたのに、妹の今後の為だと付いて行きすらしなかった。…母も、父も、僕も、いつまでも帰ってこない穂希のことをただ待っているだけだった…おかしいと、そう思った時には既に遅かった」


大きな体が縮こまるように震える。…その恐怖、その絶望…それが目に見えてわかる。


「僕と父は慌てて外を探した。母はもしかしたらの備えで家に待機してもらっていた。…僕達は事前に言われていた妹の通学路を辿って妹を探した。…でも見つからないんだ。探しても探しても妹の痕跡すらわからない」


そんな時、母から連絡があった。妹が帰って来たとそう言われた。…その言葉を続けた割には、その顔は深く沈んでいる。


「…妹は大人数の男に襲われていたらしい。…それを助けたのは通り掛かった通行人…その人が助けてくれなかったら僕達は半年前の日々に逆戻りだ。…もし、そうなったら…今度こそ我が家は終わっていただろう。…もう、この日々の幸せを知ってしまったらから…」


先輩のお兄さんは一瞬深く目を閉じる。


「…僕達はそんな過去という薄氷の上に立っている。…だから、君の言うことも少しは理解出来るよ…君にとっては知ったかぶりと思うことかもしれないけどね」


…そして、そう言った後に再び爽やかさを取り戻す。先程までの暗い雰囲気が嘘の様だった。

そうして、改めて俺の方へと体を向ける。


「…君は妹だけではなく、我が家の恩人だ。…家族を代表して御礼を言わせてもらう。…本当にありがとう。…何か、力になれることがあるのなら遠慮なく言って欲しい。僕でも、穂希にでも…僕達は君の力になるよ」


「…はは、大袈裟っすよ」


わかってる。俺のやったことはこの人達とっては大袈裟じゃないんだって。この人達は誠心誠意、本気で俺に感謝を伝えたいんだってことはわかっている。

だって、ここの家の人達は俺に対して真摯に、…本当に真摯に接してくれた。あんな暖かさ感じるのは久しぶりだったかもしれないと思えた。優しさで死んでしまうと思うのは初めてだった。


多分この人達は俺が困っていたら助けてくれようとするだろう。それを受ける方が俺にとっていいのかもしれない。…でも、それでも俺はこの人達に頼ったりすることは出来ない。

それが、これまで頑張り続けていた俺の意地だからだ。そうじゃないと…俺は今後やっていけなくなる。


「大丈夫っす。気持ちだけ受け取っておきます。…ほら、俺…強いんで」


だから、自分でもわかるくらいに軽薄な声を出す。貴方達に頼るつもりはないと告げてみせる。


「…そうか、…急にこんなこと言ってごめんね。驚かせてしまったよね」


「いえいえ、お気になさらず…見送りはこの辺で大丈夫です。今日はお招きいただきありがとうございました」


話を切り離すようにそう告げる。


「…うん、またね」


向こうも深く食い下がることはしなかった。

俺は、その言葉に何も返さず前を歩くのであった。

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