善い人になりなさい
「──わけでは」
「黙れ」
目の前の女が何か言おうとしているが、それら全てを遮ってそう言う。
「わかった。お前の言い分はわかった。…つまり、お前は俺がお前の体目当てで家まで上がらせて、泊まらせようとしている…そう思ってるんだろ?」
はは、今更ながら意味不明な理論だ。何故そこまで考えがすっ飛んだのかは知らない。興味ない。どうでもいい。
必要なことは一つ、こいつがそう思ったという事実だけだ。
「じゃあさ、そんなのはどうでもいいからさ、…取り敢えず俺の前からさっさと消えてくれ、俺は別にテメェなんかの体に興味はないんだからな」
怒りだ。俺の中に蔓延っているこの感情の名前はそれしか浮かび上がらない。
久しぶりに自分のことでここまで怒っている。キノコ頭に関しては委員長のこともあった。自分のことだけでここまで怒ったのは…心愛の件以来だろうか。
「きゅ、急にどうしたん…」
「あぁいや、別に弁明とかしなくていい。取り敢えず俺の視界から消えてくれ。お前と言う存在を俺の目の前に晒さないでくれ」
出口はそこですよと指を指してやる。しかし女はそれでも動こうとはしなかった。…言葉が理解出来ないのだろうか。
なら仕方ない。もう強制的に追い出すか。
座っていた椅子から立ち上がる。女はそれを見てビクッと体を震わせた。
「俺はな、別にお前がどうなろうと知ったことじゃないんだよ」
こいつがレイプされようとも男達の慰み物になったとしてもどうでもいい。目の前で起きなければ助ける必要もつもりも毛頭ない。
だが、それでも俺が放っておかずに手を差し伸べたのはばあちゃんの言葉があるから。
【
その言葉は今も俺の頭に残り続けている。
ばあちゃん曰く、悪行を為しては人は真の意味で幸福にはなれない。だから目の前に困っている人は助けろとあの人は言った。
…本当に、本当にクソ喰らえだ。
なんでわざわざ関係もない奴を助けなければならないのか、なんで助けようとして逆にこんなことを言われなきゃならないんだ。
「別にお前なんかどうでもいい、目の前でくたばっていようとものたうち回ろうとも俺には知ったこっちゃない。けど、俺は人間としてお前を放っておいてはいけないと思った。放って辛い目に遭うのは可哀想だろうと思った」
その哀れみが逆にプライドを刺激したのなら最初からあんな場所にいなければいい。そうあろうとするのならもっと気高く生きればいい。だがこの女は違った。
「テメェの方こそなんだ? あんな如何にも助けて下さいみたいな感じで座り込みやがって、そんなの見たら普通助けようとするだろ、なんとかしたいと思うだろ。普通の人間なら連れ込んでも何もするわけないだろ!!」
善い人になったとしても全てが報われるわけではない。何度…何度…そういう言葉を投げかけられたか数え切れない。
だから安易に人に関わるのはやめようと思った。本当に目の前で起こっていること以外には手を出すまいと決めた。
いつもの俺ならこの女の見ても無視した筈だ。関係ねぇ奴に関わるつもりはもうないから。
それなのにこいつを助けようとしてしまったのは…きっと、先輩や委員長、先生が俺の知っている人種ではなかったから。
善良で…本気で助けてよかったと思えた人達ばかりだったから、だから、世の中捨てたもんじゃないなと思えた。
それなのにこの仕打ち、本当にクソ喰らえだ。
「なんで俺がそんなことを言われなきゃならない。なんで俺の善意がテメェの勝手な男像というテンプレートに歪められなきゃならない。ふざけん、ふざけるなよ! だったら…! だったら最初からあんな場所に座り込んでるんじゃねぇ!! 誰にも見つからない場所にでも隠れてろよ!! 俺の視界に映ってんじゃねぇ!!!」
キーンと耳鳴りがする。段々と視界の端が暗くなっていく。
この際俺の善意が否定されるのは構わない。それを相手が受け取るかなんてそいつが決めればいい。それはそいつの自由だ。それを押し付けるのは傲慢でしかない。
俺が本気で激怒しているのはそうではなく、この女が勝手な認識で俺という存在を決めつけたことだ。
余計なお世話と罵られても平気だった。平気になった。お前の行為は単なる偽善だと言われても構わなかった。
ただ、目の前の人間を助けられたのなら…自己満足が出来たらそれでいいかなと思えた。
だが、
何故俺がそんなクズと同一視されなければならない。俺はそいつらと違う様に生きてきたのに、そいつらの様にはなるまいと生きてきたのに。
俺は体格という力がある。俺にはこれまでやられたことに対しての知恵がある。やろうと思えばそこらの奴等を食い物にして簡単に快楽を味わえるし簡単に欲を満たせる。なろうと思えばいつでもそういう自分になれる。
だが、そうなっては人間終わりだと思った。そうなればこれまで人間として生きてきた名取愛人は終わると思った。だから、必死に必死に、どんな辛い目に遭ったとしても、なんで俺だけがこんな思いをするんだと嘆いても、堕ちたら楽に生きられると何度も何度も何度も何度も何度もッッッ!!!
……思ったとしても、…それでも悪逆に…悪人として生きる誘惑を跳ね除けてきたというのに。
それなのに何故…、何故そんな俺が……。
「……なんで、そう思われなきゃならないんだよ…俺はただ、…辛いものが見たくないだけなのに…」
どっと気分が落ち込む。声を出すのすらめんどくさい。
怒りすぎて俺の一日で使えるエネルギーを使い果たしてしまった。もうとっとと目の前の存在を忘れて眠ってしまいたい。
「さっさと消えろよ。…俺の目の前から消えてくれ。頼むから」
その言葉はもう懇願に近い。もう目の前の存在と口を聞きたくなかった。
その言葉を言っても目の前の女は出ていかなかった。何か衝撃を受けた様な顔をしている。
しかし俺はもう疲れてしまっていた。目の前の存在を認識したくなかった。
「テメェの望み通りの展開なら下の階に住んでいる種田さんがやってくれるだろうよ。あの人ならテメェが望んだ通りお前の体を家賃にして何日でも泊めてくれんじゃねぇかな」
会話は終わりだと、そいつの服の襟を掴もうとする。もう俺が話すべきことはない。さっさと出て行ってもらう。
「お前みたいなカスビッチと付き合うと頭がおかしくなる。さっさと消えてくれ、二度と俺にその面を見せないでくれ」
そうしないとここまでこうあろうとした俺が死んでしまうから…悪逆の道に入りそうになるから、俺という存在が弱くなるから…だから、目の前からいなくなってくれと切に願う。
そうして、その女を追い出そうと手に力を込めるが…その女は事もあろうに抵抗してきやがった。
襟を掴もうとした俺の手を掴み。そして、頭を下げて…そいつは言う。
「…ごめんなさい。私の勝手な思い込みで貴方を傷つけてしまいました。本当に申し訳ありません」
「うるせぇ、さっさと───」
どの口でそれを言うのか、一度植え付けられた不快感は変わらない。この女が何を言おうとも俺の意思は変わらないし変えたくない。
しかし、しかし……。
「私は…どうしても家には帰れません…帰る場所がないんです。本当に馬鹿なことを言いました…私には、…本当に頼れる人が誰もいないんです…お願いします。…私を、助けて下さい…っ!」
「────ッッッッ!」
何を、馬鹿なことを。
本気で言っているのか? あんなことを言っておいて、俺をレイプ犯と同一視して、どの口でまだそんなことが言えるのか?
意味がわからない。頭がおかしい。ふざけている。
何故…なんで、俺はこいつへと伸ばした手を引っ込めているんだ?
【善い人になりなさい】
「クソ…」
引っ込めた手を強く握る。握りすぎて手からは血が流れ出した。無意識にその言葉に対して俺の体が抵抗している様だった。
善い人になったところでなんだってんだ。別にこいつを見捨てても俺は何にも悲しまないし、俺は何も損をしない。
【困っている人を助けなさい。助けを求めていたら手を差し出しなさい】
「クソっ…!」
例え相手が俺を貶したとしても? 俺を貶めたとしても? 例え俺が助けたくないと思ったとしても?
「───クソッッ!!」
例え相手を助けても、幸福になれないのだとしても?
【──ばあちゃんとの、最後の約束ね】
(………そりゃ、ねぇだろ。…そんなこと言われちゃ…裏切れないだろ)
下唇を噛みすぎて舌が鉄の味を感じる。脳の血管が千切れる寸前だ。
だが、それでも──。
「………チッ」
その
強く結んできた力も解いてしまっている。思わず舌打ちを大きく鳴らした。
「……二度はない、次舐めたこと言ったら速攻叩き出す」
俺は馬鹿だ。過去の記憶に執着して自分の為にならないことをしている。
反吐が出そうだ。自分の性質が変わらないことに苛々する。
「ありがとう…ございます」
こいつを泊めることを了承したとしても一度膿んだ不快感は拭いきれない。
苛々する。頭が沸騰しそうだった。
「…………じゃあさっさと寝ろ。俺にテメェの生きた面を見せるな」
気絶しそうな怒りをなんとか制御しながら、俺は部屋の電気を消した後、用意していた寝袋の中に入る。
目を閉じて深呼吸をする。熱くなった脳を冷静にさせる。
心臓が痛いくらいに鼓動していた。激痛が走る程焦燥が心を支配していた。
息がしづらい、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかの様だ。は、は、は、と動悸が激しくなる。
だが冷静に、少しづつでもいいから落ち着いて…。
…
……
………
(名取愛人よ。お前は知っているだろ? 怒りに身を任せて行動する恐怖を…だったら落ち着け、冷静になれ)
目を強く瞑っているせいか、暗い筈の視界が白く見える。視覚はないので別の感覚器官が段々と鋭くなっていくのが体感する。
触覚は寝袋の感触だけ。味覚はしょっぱい唾の味。嗅覚は俺の知らない甘い匂い、そして聴覚が拾い上げたのは…何かが布団から出る音…?
冷静になることに集中していたせいか、時間の感覚がない。あれからどんなに時間が経ったのか、それとも経っていないのか何もわからなかった。
足音がする。その足音は段々と何処かは向かおうとしている。足音が右往左往し、一度その音が止まる。
そして、足音がこちらに向かってきた。
目を開ける。強く目を瞑ったせいか瞳孔が開いている。だから暗闇の中でもある程度の物の判別は出来た。
女だ。俺の敵である女がこちらに向かって歩いてきている。
「それ以上近寄るな」
女が更に一歩踏み出した時にそう告げる。ピタッと足音が止まった。聞こえるのは女の息を飲む音のみ。
「何の用だ。用がなければ近寄るな」
警告を含めてそう言う。それ以上の接近は先程の舐めたことに該当する。
「……その、お手洗いを貸して欲しくて…」
……生理的な現状なら問題はない筈だ。ちゃんとこちらに寄ってくる理由になっている。
「勝手に使え、トイレの場所は玄関から見て左手側の扉だ」
もし勝手に使おうとしたものなら速攻叩き出しただろうが、許可を求めたのならばその限りではない。ここで追い出したらそれはいちゃもんと変わらない。それでは見放すのと同義だ。
「…ありがとうございます」
その返事を聞き、俺は再び目を閉じる。
胸に湧き上がった怒りを落ち着かせるのに、俺はそれから二時間の時を有したのだった。
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