赦さなければならない。これだけは

「俺はなんとかそいつら全員をボコして家に帰りました。…そこでキレながら妹に対して事情を聞い……」


「いやちょっと待って…え? 全員ボコしたの?」


保険医が唖然としながらそう聞き返してくる。…まぁ確かに我ながらあの状況から巻き返したのは凄いと思っている。でも、やろうと思えば出来たもんだぞ? というかやった。


「相手が俺に危害を加えようとしていたのはわかっていましたからね。…その文言を言い終えた瞬間に目の前にいた奴をぶん殴って倒す。すかさずその場から逃げて、追ってきた奴を一人一人倒す。…それを繰り返しただけですよ」


その時の俺は一年前の一件により人間に対しての信頼を限りなく無くしていた。全ての存在がどうでもよかった。

だからすぐに行動した。自分の身を守るのは自分だけだと俺は信じ込んでいた。…思えばそれが間違いだった。


それが成功するにせよ失敗するにせよ、一度は俺の事情を話すべきだった。隣の画像の人物は単なる妹でしかないのだと説明するべきだった。…そうしたら誤解は解けていたかもしれない。

その可能性を捨てていきなり暴力で解決したんだ。…何もわからない状況だったとはいえあまりに軽率な行動をしてしまった。


だから、半分は俺の責任なのだ。


「…でも、たったそれだけで人に暴力を振るうだなんて…本当にそんな人達がいたの?」


先輩が言っているのは俺…ではないようだ。多分俺を最初に囲んだ人間のことを言っているのだろう。


「………」


先輩の目は微かに揺らいでいる。それは自身の経験を思い出しているからだろうか。


先輩は一度大変な目に遭った。二度もあった…その時の絶望はきっと今も先輩の胸の中にある。

世の中そんな人しかいないのだろうか…と、不安に陥っているのだろう。


「……ふ」


俺の経験からすれば、その答えは当然イエスとなる。俺が関わってきた人間の殆どは碌でもない奴らばかりだったから。


「…当然、そんな奴ばかりじゃありませんよ」


けど、俺はそうじゃない人達も知っている。少ないけど、確かにいたんだ。


「いいですか? 先輩…世の中、悪辣な人間、最低な人間というのは思ったより少ないんです。中央値、平均値を調べれば平凡な人、善良な人しかいませんよ。…ただし……」


だが、ここにただしと付いてくる。…世の中綺麗事だけで出来ていないのが現実だ。


「人間の中にも最低値というものがあります。そういった奴等は数こそ少ないですが、やる所業は大きく目立ちやすい…そして、それを多くの傷を与える」


俺の場合はそういう奴等と多く出会ってしまうだけだ。本来ならイイ奴の方が多い筈…。


そしてまぁ、そういう普通の人間というのは本当に目立たない。優しい人間も同様だ。


自分を心配している声よりも、自分を責める声を多く聞いてしまうように錯覚するのもそれが理由だ。…人の心は思ったよりも傷つきやすい。責める声を聞き続け、簡単に壊れてしまう。


「…でも」


だからこそ…耳を澄ますのだ。


「でも…そういう時は近くの…自分の味方の声を聞くんです」


自分のことをちゃんと見ていてくれる人の声を、自分の味方になってくれる人の声を。


「一つの嫌な声よりも、多くの優しい声を聞くんです。…その逆も同様、多くの嫌な声よりも一つの優しい声を聞くんです」


そのどちらの状況になっても…大切なことは一つだけだ。


「そうなれば人は負けません。いずれそんな嫌な声を雑音と認識することも出来ます。…先輩にもそういう人達はいるでしょう?」


チラッと保険医の方を見つめる。この人はきっと先輩の味方だ。


「そんな人達を大切にすればいいんですよ。…どうでもいい嫌な相手のことなんかは忘れても…見なくてもいい。俺はそう思っています」


「…うん…っ! 私も…そう思いたい。…名取くんの言葉を胸に刻み込む」


先輩は若干目を潤ませている。…そこまで大層なことは言っていないので、そんなふうに思う必要はないのだが…。


「はは、大袈裟ですよ。…俺は当たり前のことしか言ってないんですから」


だけど、俺の言葉が先輩の心に響いたということなのであれば…俺はそれを嬉しく思う。


「ささ、弁当もまだ全然食べ終えていませんし食べましょう! お昼休み終わっちゃいますよ?」


「あ、そうだね…」


そうして、俺達は再び弁当を食べ進めた。


「…………」


その間、保険医は先程までの雰囲気を消し、俺のことをじっと見つめていた。




「それじゃあ、失礼しました」


「うん、名取くん…また、…ね?」


先輩がほんの少し不安そうな顔をしている。まるでもう二度と俺がここに来ないとでも思っているかの様だ。


「……えぇ、また明日」


「…っ! うん!」


その不安を一蹴する為にそう言い、俺は保健室の扉を閉める。


「……教室に戻るか」


そうして、ほんの少しの名残惜しさを振り切り、体の向きを保健室とは逆の方向に向けようとした時…。


がらっ…と、再びその扉が開かれる。


「…名取、ちょっと付き合って」


現れたのは先程の保険医、名前は…なんだったかな。


「何を、ですか?」


思い出せなかったので取り敢えず問われたことを聞き返す。

付き合って…と言われているが、よくある勘違いを俺はしない。相手は教師だしな。


「頼んでいた消毒液とか絆創膏とか…その他諸々の道具が職員室に間違えて運び込まれちゃったらしくてね。運ぶの手伝って」


「……昼休み、あと五分で終わるんすけど」


弁当を食べ終わった後はほんの少し雑談をしていた。気付いたらこんな時間になっていたので慌てて教室に戻ろうと保健室を出たんだが…。


「まぁまぁ、結構な荷物があって重いんだよ。私一人じゃ何周もしないといけないわけだ。…か弱い私を助けてくれない? ちゃんと教務の先生には言っておくからさ」


「…へいへい」


そういうことであれば断る理由はない。俺は先導する先生の後ろを黙って付いて行った。



「…聞いてもいい?」


「何をですか?」


職員室に辿り着き、割と重い荷物を運んでいる途中、徐に保険医はそう言う。


「さっきの話の続き、…私が中断してしまったけど、それからの名取がどうなったのか」


あぁ、それか。


「別に何も、"馬鹿な妹を叱って、なんとか事態は収束しました“ …これじゃだめなんですか?」


「その言い方だと実際は違うんでしょ? …興味本位で聞いちゃダメなことなら聞かないけどね」


…流石は大人…ちゃんと真実を見抜いて…いや、俺が単に未熟なだけか。

…はは、今の俺の言い方。まるで続きを聞いてくれって言ってるようなもんじゃないか。


流石は大人…と再び言わせてもらおう。その意図を察して、言い方で自分を悪くしている。興味本位…という言葉を使ったのがその証拠だ。


「……まぁ、先輩がいないのならいいか」


実は、俺はあの時先生に感謝していたのだ。俺に最後まで話をさせないでくれてありがとう…と。


だって、この話に救いなんてなかったのだから。


現実は甘くない。馬鹿な妹を叱りました…それだけで終わるわけがなかった。



俺は家に帰った。頭から血を流しながら。


確かに俺はその大勢の奴等に勝った。全員ボコすことには成功した。…だが、俺の方も無傷とまではいかなかった。


普通に考えて一人の人間が多数の相手…しかも自分よりも年上の人間に対して完勝出来るわけがないのだ。


逃げてもいずれ追いつかれる。体力には自信があるが、それでも逃げきれない状況にはいずれなる。

追いつかれた末に酒瓶で頭を殴られたりもした。体には幾つもの殴打の痕が残った。


本気で殺されるんじゃないかと思った。それ程大人数で襲われるということは怖かった。

だから必死に抵抗した。どんなものを使ってでも生き延びようとした。


俺がその全員に勝てたのは奇跡だ。…今の鍛えた俺ならもう一度やれないことはないだろうが、当時の俺にもう一度やれと言われたら無理と断言出来る。


家に帰った俺は妹を問い詰めた。何故、こんな画像が広がっているのかと。


妹は…心愛は呆然としていた。多分俺の姿を見て血の気が引いたのだろう。

俺は心愛の持っていたスマホが原因なのだろうとそれをひったくる様に奪った。心愛は大した抵抗はしなかった。


そこで全て理解した。今、俺がこうなっている状況の全てが妹のせいなのだと。


人は本当に怒ると何も言えなくなるというのは本当らしい。何かを言おうとしても言葉が出てこないのだ。

結局、俺の声から出てきたのは口をパクパクさせる音だけ。言葉は何も出せなかった。


「俺はなんとか現状を変えようとしました。妹にその投稿を削除、果てにはアカウントも削除させました」


妹は何も言わずに俺の指示に従った。自分でもわかっていたのだ。自分がどれだけのことをしてしまったかということを。

…けれど、ネットの世界は甘くない。


「そのどれもが無駄でした。…なんたって俺の画像は至る所に転載されてましたからね。幾つものサイトに俺の有る事無い事いろんな噂が跋扈していた」


キノコ頭が使っていたサイトもそう。…あそこにも俺の噂はある。


「一度ネットに上げられたものは一生消えない。誰かがそれを覚え続けている限り一生。…なんなら過去の投稿を見て新たにそれを知る人も増える」


だから俺はネットが怖い。SNSが怖い。不特定多数の人間が関わるものが怖い。


「俺の情報はすぐさま拡散、そして特定されました。…なんとか意地で住んでいる場所と名前は隠し通しましたが、それでも実家周辺に住んでいるという所まで特定は進んでいました」


正確にはその特定に至る前に事態を収束させた。方法は簡単だ。


この一件、多くの人間が関わってはいたが根本にいたのはただ一人の人間だった。

そいつが一人で多くのサイトに俺の噂を流していた。他の人間は後からそれを追いかけているだけだった。


変に正義感を翳した者、単純に心愛をメチャクチャに出来るという情報に踊らされた者、合法的に人間オレいう存在を殴ることに快楽を感じるクズ…それらは全てたった一人の人間から生み出された。


たった一人の人間がここまで人を追い詰めることが出来る。無論、ここまで行き着くことは殆どない。単純に…俺の運が悪かっただけなのだろう。

そいつの投稿を信じる者がいた。そいつの情動が強過ぎた。その幾つもの偶然が重なり、俺はあそこまで追い詰められたのだろう。…それもネットの恐ろしさだ。


俺はこの地獄から抜け出す為に必死だった。執念でそいつの情報を特定し、住んでいる場所を突き止めた。その間は家にも帰れなかったので必然的に野宿をしていた。…関係ない家の奴等を巻き込むことは許されなかった。


警察には頼らない。というより誰かを頼るという発想が俺の頭から抜け出てしまっていた。

現状を変えるには自分の力しかないと、本気でそう思っていたのである。


モラルも常識もなんにもない。生きる為に善悪を全て捨てて見つけ出したそいつの家へと侵入した。


一歩間違えれば俺はそいつを殺していただろう。逆に一歩間違えていれば俺はそいつに殺されていただろう。

俺はそいつを足の骨を折り、言葉で脅した。投稿をやめなければ命を奪うと。


そいつは思ったよりも気弱な奴だった。俺の脅しに簡単に屈っし、二度としないと誓った。

俺は、それを信じていない。


物的証拠に俺はそいつの個人情報を写真とか様々な媒体で保管した。次また何かをされた時、もう一度こいつの心をへし折る為に。

そこまでしてようやく俺は安堵の日常を……得られなかった。


元凶を倒しても意味がないのだ。だって情報は今も残り続けているのだから。


「俺が町を歩くと少なくない人間が俺を見ました。怪訝そうな顔で、疑うような顔で…あの人、噂の人じゃない? とか、そんなふうに陰口を言われる」


もう何を言っても無駄だった。学校での居場所もなくなった。


そういえば…あの時俺には好きな人がいたんだったか。あの一件が起きるまでは割と仲良くしていたと思う。

まぁ、その一件が起きてからは距離を離されたし、その二週間後には彼氏が出来ていたっけな。…懐かしい記憶だ。


「……別にそういう声を気にするほど俺は柔じゃないんですが…あの町にいる限り馬鹿な野郎が喧嘩を吹っかけてくるんですよ」


俺という存在が"そういうもの“と周囲が思っていたからな。…おかげで中学の頃は頻繁に荒事に巻き込まれていた。俺が喧嘩慣れしてるのはそれが理由だ。


「だから中学を卒業する時にこの町に引っ越してきたんです。…もう面倒なことに巻き込まれるのは嫌だーって…こんな話、先輩には言えませんから」


あの人はきっと人の悪意に敏感になってしまっている。それでも優しさを信じたいと思っている人だ。

そんな人に対してこんなクソ怠いことを話してどうなる? 余計に人と関わることに臆病になってしまうだろう。


「ちなみに、その妹さんはどうなったの? …その子に対してどんな感情を持ってる?」


「あぁ、あの馬鹿妹ですか…あいつは俺と同様に地元の外にある高校に受験させました。全寮制の学校なのと、俗にいう金持ち学校に入れさせたのでその噂を知ってる奴はあまりいないと思いたいですね」


無論馬鹿正直に金は払ってない。特待生制度を使って強引にねじ込んだ。あいつは頭がいいからな、そんぐらいは余裕だ。


そしてアイツに対してどんな感情を持っているか…か。

…そりゃ、無論負の感情しかない。馬鹿でアホでカスな妹だと罵りたい。


「…あの馬鹿がやった行いを俺は絶対に許しません。二度と同じことをさせない為にSNSの使用を禁じてますよ」


本当は携帯も没収しようと思ったが、それだと連絡を取るのに不便だ。…仕方なしに設定でそういったアプリを禁止にして使わしている。


「本当に馬鹿な妹です。あいつが余計なことをしなければ俺は今でもあの町でのほほんと暮らしていたんじゃねぇかなって思います。絶対に…絶対にこの仕打ちは忘れません。…でも、あの時のあいつは子供だった」


判断能力が弱いのだから仕方がないのだ。やっていいことと駄目なことの判断がわからないのだから仕方ないのだ。


それを教える役目である上の人間は俺の家にはいない。だから仕方ない。

母は自分のことに夢中、父は俺達を責任の一部としてしか扱わない。姉は…アレのことは思い出したくもない。


ある意味ではあいつは家の被害者だ。…だったら、失敗したことを一方的に責めるわけにはいかないだろう。それはイジメと変わらない。

誰だって失敗はする。アイツの場合はそれが致命的なまでのことだっただけ。…運が悪かったとしか言えない。…そう思いたい。


「馬鹿でアホで考え足らずのカスです。やった仕打ちを絶対に許さないし一生恨みます。でも、…それでもアイツは可愛い妹です。…だから、それ以上にアイツに被害が出なくてよかったって思ってますよ」


本当に、俺だけで済んでよかった。…それだけがこの一件のイイところだ。そう思わないとやっていけない。

俺はなんにも悪くないのに…なんて、思わ、…思ってはいけない。


「名取……君って」


と、そんなところで荷物が運び終わる。


「…じゃ、俺はこれで、保健室の中までは運べますよね」


…大体五分遅れか、なら授業を聞くのに支障はないな。


「…そう、だね。本当に助かったよ、名取」


「いえいえ、だったらよかったっす。…そんじゃさいなら」


「あぁ、またな」


そうして、俺は自分の教室へと戻る。教室まで中々遠いから少し大変だと他人事のように思った。



少年は立ち去った、この場に残るのは一人の保険医だけである。


「そんな目に遭っても他人の心配をする。それって…いや、私が口を挟むことではない…か」


保険医は単にその事実しか話されていない。その時少年が思った葛藤や何もかもを教えられてない。

つまり、そこから先は触れてはいけない部分…タブーだ。そしてそれに触れる権利を保険医が得ることはないだろう。


彼女はあくまで保険医…助けを求めようとしない声に答える義務はない。立ち入ることは出来ない。


「…世の中、ままならないものだね」


その一言を言い切ると共に、保険医は荷物を保健室の中に入れるのであった。

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