このケースにおいて、誰もが悪いし、誰もが悪くないとも言える

いいんちょ。

そのちょっと馬鹿にしたような愛称を使う人間を私は一人しか知らない。


「え、え? え??」


「はぁー、マジで焦ったぁ…あのまま強情を貫かれたらマジで救う手立てがなかったから本気で助かったぁ…てかお前お前お前! マジで意思が硬いんだよ! もうちょっと自分のことを優先してくれよマジで、お前がそう思ってくれないと俺は動けないんだよ」


先程まで私の胸を弄っていた手をまるでばっちいものを触るかのように飛び退くように抜く。おい。


「……ってか、一人抜け駆けしてる奴いるくね?」


その声は突然響いた。


「あ、マジじゃん。おいおいそれはないんじゃねぇの? 俺達だって時間が来るまで我慢してるんだぜ? こんなイイ女を提供してもらってるんだからそういうのは守れよなww」


声の感じからしてチャラチャラした雰囲気の人が覆面の誰かに近寄ってくる。軽い感じに言ってはいるけど、その声には苛立ちが充分に含まれていた。


「ふむ…」


隣にいる誰かさんはそんな声を出す。


「…おい、テメェ話聞いてん…」


「お前と、お前…あとそいつがさっき写真を取ってた奴か」


覆面の誰かさんは奥にいる複数人を指さす。合計三人。

まるで自然体だ。こんな状況に慣れきっているみたいな雰囲気を出している。


「あ? テメェ何言って…」


「そい!」


その覆面のなと…誰かは一瞬でその男と背後の二人に詰め寄り、指を刺した複数人のスマホとカメラを奪った。


「は?」


「おっ、スマホは起動しっぱなし、これなら写真の削除は用意…っと、カメラはメモリ抜いて物理的にぶっ壊せば問題ないか」


突然の出来事で他の男の人達は動けていない。覆面のなと…誰かは依然と手元を操作し続けている。


「はい、スマホは返してやるよ。クラウドにはアップしてないみたいだしな、いやぁ、写真があるのが内部ストレージだけでよかったよかった」


ぽいっと、スマホを投げ渡し、カメラにあるメモリーカードを引き抜き…その媒体であるカメラを思いっきり下に叩きつけ、ドンっ! と踏み砕いた。


「あ、あ、あぁ…!! ぼ、ボクのカメラが…っ!」


それが合図となる。


「テメェッ!!」


「ははは! お前ら愚図すぎだろ。何十秒経ってると思うんだ??」


男達の怒声が響き渡る。その声は建物を震わす程だった。

複数人の男達がなとり…覆面の男に殴り掛かるけれど…。


「へっ、ノロマが、もう少し運動してどうぞ!」


覆面の男…いやもういいや、名取はその拳を簡単に避け、その反動を生かし、少ない動作で逆にその男を後方へと投げる。


「よっと…、捕まってろよいいんちょ。ちょいと激しく動くぜぇ!!」


「わっ!」


名取は座っている私を簡単に抱き寄せる。お姫様抱っこなんて初めてだった。


「ヒャッホウ!!」


名取はその状態で男達をすり抜け、出口へと走って向かっていた。


「…あ、ついでにこれも…」


途中、名取は走りながら近くにあったビデオカメラらしきものを拾う。手癖が悪い。


バンッ! と、ドアを強引に開け、名取は悠然と駆け出した。


「なはは! 俺は例えサモエドを抱えながらでも走れる男…! この程度の重さで足は遅くならねぇよ!!」


「ちょっと! 重いってなによ重いって!!」


この男本当にデリカシーがなさすぎる。女の子に対して重さって。


だけど本当に足が速い。追ってくる人達を簡単に置き去りにして風のように駆けていく。


「…ふ、ふふふ!」


なんだかとても清々しい気分だった。この風のように爽やかな気分だった。


「ひっひっひっ、あぶ…あべ、…流石に人を抱えながら全力で走るとちょっとキツイ…」


「はぁ! さっきあんな調子のいいこと言ってた癖にこんなに早く弱音吐く!?」


「や、だって…人抱えながら走り続けるのなんてやったことねぇし…アレだな、レスキュー隊の人ってマジ凄いな…!」


「こんな状況でレスキュー隊に情景の念を抱かないでよ! なにキラキラした目をしてるの!」


なんだろ、さっきまでのことが嘘だったみたいだ。


絶望して目を塞いでいたのが嘘みたいだ。状況に嘆いて涙を流したのが嘘みたいだ。


さっきまでの気持ち全部全部! この爽やかな風が吹き飛ばしてくれていた。


もう後ろに人影はいない。もう、誰も私達を追いかけていなかった。




「でー! でー!」


膝に手を置き、舌を出しながら全力で空気を吸う。俺の三半規管はボロボロだ。覆面ももうポイ! 息しづらいんじゃボケぇ…。


「はいお水、そんな大層な見た目してるのに体力ないね」


「ばっっきゃろ…俺何キロ走ったと…」


うーん、だいたい二キロぐらい? マラソンには遠く及ばないな。マラソン選手すげぇ…。


ふー、ふー…よし、息整った。

じゃ、やることやるか。…違うな、やらなければならないことか。


「……先程はまことに申し訳ありませんでした」


姿勢を土下座に、なるべく誠意を伝えられるように…。


「ちょ、急にどうしたの土下座なんかして…」


「さっき、俺は状況が状況とはいえお前の体を弄んだ。それはどんなに理屈を並べても通らない最低の行為だ」


言葉だけじゃ伝わらない。直接やらなければ伝わらなかった…そんな言い訳を口にすることも出来るが、俺はそうはしたくなかった。


やってはいけないことをしたのだから、それを変に誤魔化したり、やり過ごすことなんてしてはいけないのだ。…それは俺が最も険悪する行為の一つだから。


「なんでもは出来ないが、俺に出来ることならなんだってする。…さっきの行動に対して償いをさせてくれ」


ふと、デジャヴのようなもとを感じる。

…俺はその原因に心当たりがあった。


「……そっか、その言葉って言われる側はこんな気持ちなんだ…。…じゃあ名取、取り敢えず立って」


言われた通りに立ち上がる。そこには困ったように苦笑いを浮かべているいいんちょの姿があった。


「じゃあ、歯を食いしばって」


いいんちょはビンタをするように大きく腕を振りかぶる。俺はそれを黙って受け入れるように見ていたが…。


こつんと、軽い衝撃が頭に来るだけだった。


掌が俺の頬に当たる直前、いいんちょはその腕を停止させ、ゆっくりと手をこつんと俺の頭に当てた。…それだけ?


「……こういう時、目を閉じるのがセオリーなんじゃないの? 名取に恐怖心とかないの?」


「あるよ、でも、これは受け止めるべきことだからな…目を塞いでやり過ごすことは許されない」


「…ばーか、やっぱり変に真面目だね、名取」


いいんちょは手を後ろに組みながら俺から距離を離す。


「……名取は悪くないよ。どんな行動をしたって、それが私のことを助けようとしてくれたことならね…まぁ、ちょっとした鬱憤はあったけど…それはさっきの一発で許してあげる」


「………」


いいんちょはイイ奴だ。例え自分にそんなことをした相手であっても、それに事情があるのなら許せてしまう。

それは世間一般ではいいことなのだろう。社会では必要な能力なのだろう…けれど、俺はそんな建前大っ嫌いだ。


「……自分のことを棚に上げてそう言うか?」


「…もしかして、この状況をわざと作ったの? …ほんと、お人よしだね」


デジャブとはこのこと。今のこの状況はいいんちょが昔経験したものとほぼ同一だ。


別に狙ってやったわけじゃない。行き着く所までいったらそうなるだろうなと思っていただけだ。


「…お前から聞いた話、俺なりに噛み砕いて言わせてもらうが…やっぱりお前は悪くない。お前の姉も、キノコ頭の兄も…そしてキノコ頭だって最初は悪くない」


本当の悪い奴が誰なんてとても言えない。強いて言えば状況が悪かったとしか言えない。


「お前達の誰もが悪くないが、お前達の誰もが悪いとも言える。…それは空気だったり、恥ずかしさだったり…いろんな理由があると思うが、それでもお前達は伝えることを放棄し過ぎた」


いいんちょは必要以上に自分を責めるところ。キノコ頭はいいんちょに八つ当たりをして、その後いいんちょを自分のモノであるかのように扱ったこと。


いいんちょ姉はキノコ頭の気持ちに気づいていたのに、その気持ちを曖昧に誤魔化し、所詮は子供の感情なのだからいずれ移りゆくだろうとタカを括ったこと。キノコ頭兄は鈍感なこと、鈍感野郎はそれだけで罪だ。


「それらが悪いように行き着き、最終的にお前の破滅を呼び込んだ。…人はそれを自業自得と言うのかもしれない…けど、それだけで終わらせるのは悲しすぎる」


最初は誰だって悪くない。その事実を無くして誰かを集中的に責めるのはおかしい。責めるのだったら平等に全員を責めるべきだ。

多分、いいんちょの周辺でそれを伝える者はいない。もう誰もそれが出来なくなっている。

…なら、外野の俺が言ってやる。


「…お前は責任感を持ち過ぎだ。何でもかんでも自分のせいにして、その結果傷つく。そんなの側から見たらウザイの一言でしかない。馬鹿なんじゃねぇの? としか思えない」


社会の為に個人があるのではなく、他者の為に自分がいるのではなく…個人の為に社会があって、自分の為に他者があるんだ。

最近の社会構成は前者を推進しているが、俺はそれが気に入らない。なんたって他人の為に自分の身を粉にしなくちゃならないんだ。


度が過ぎなけれいい、人の助けになるのは気持ちいいし、人に助けられるのは心が休まる…だが、それが一辺倒になると途端に話しが変わってくる。


俺は嫌だ。自分の幸せも顧みずに誰かに尽くすなんて…その結果があんな結末になるなんて。

そんな悲しい結末は見たくない…俺が見たいのはいつだって優しい世界なんだ。


「もっと自分を大切にしろ。他人のことを気にかけることが出来るのは自分のことをちゃんと大切に出来る人間だけだ。そのことがわかっていないお前が誰かを助けようとしたって良い結末には至らない。…それを今、実感しただろ」


ケースバイケース、それはわかってる。でも今はそれを置いて置かせてくれ。この女にはいろいろと言ってやらんと気が済まん。

だから、俺は最後まで言ってやる。それが他人である俺の役割だ。


「…いいか? キノコ頭がおかしくなったのは少しはお前の……」


「うん、わかってる。今実感した」


最後の言葉を突きつけてやろうとする前に、これまで黙って俺の言葉を聞き続けていたいいんちょが割って入ってくる。


「…凄い魅力だよね。なんて言葉…幾らでも悪い想像が出来ちゃった」


いいんちょはほんの少しため息を吐き、吐露するように言葉を投げ掛ける。


「…彼も、いろいろと葛藤したんだろうな。…そして、負けちゃったんだろうな。…その気持ち、今ならわかる気がする」


いいんちょの顔は俯いているし、顔を俺の反対方向に向けているからわからない。


「言葉には力があるって話を何処かで聞いたことはあるけど、それって本当なのかもね。…だって、こんなにも人を変えてしまうのだから」


その顔は、きっと…。


「………そっかー。…かれを変えたのは…むせきにんな私の言葉だったんだね…? …自分の罪悪感から逃げたくて使った…あれが、あれが…っ」


小さく涙する音がする。ぽたりと地面に雫が落ちる音がした。


…その顔はきっと、深い後悔と悲しみで染まっているのだろう。

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