第3話

帰りの馬車の中は終始無言だ。対価にもらい受けた彼は、僕の向かい側に大人しく座って前を真っ直ぐ見つめている。エヴィは自身が透明になったかのような気分にさせられていた。瞳にはエヴィを映しているはずなのに、どこも見ていないその瞳はただただ空虚だ。こんなにも自分の存在が相手にされないというのは新鮮だ。

クラリネス嬢との別れ際に、何かを告げられた彼はひとつ頷き返すと、馬車を待つエヴィの背後にそっと立ち一礼をしたのを思い出す。言葉の理解は出来るようだな、とタウンハウスまでの暇つぶしに彼に話しかけることにした。

「今日から僕が君の主人になる、メンティーラだよ。君の名を聞かせてくれるかい」

「……」

「名前はないのかな。……僕が君につけてあげよう。名前が分からないと不便だからね、そうだな、プリムファ、はどうだろう。素敵な名前の響きは君にぴったりだよ」

プリムファ、そう呼ばれた彼は今度こそエヴィをしっかり捉えると不安げに瞳を揺らしている。自分がどのようにふるまうべきか迷っているようだったが、エヴィが何も言わずプリムファを見つめつづけると、それに耐えられなくなったのか首を微かに縦に動かした。

「プリムファ、君はこれから何をしてもいいよ。喋っても動いても怒られることはない」

彼の着ているシャツは首元を隠すようにフリルになっており、襟元はリボンをきつく結ばれていた。しかし、エヴィの身長から見下ろされた視線はその隙間をかいくぐり、首元の擦り切れた傷と痣が痛々しいと思うほどくっきりと見えてしまっていた。使用人に当たる貴族は少なくはない。彼の場合も例に漏れないばかりか、家畜同様の扱いだったことは見て取れた。

「君は喋ることができるのかい?」

相変わらず、微動だにしないままエヴィを見つめているプリムファの反応をいちいち待つのはやめて、好きなように問いかけることにしたが、先程の質問にすぐに返事がくる。言葉ではないが、首を横にはっきりと振ったプリムファ。

「そうか、聞き取りは問題ないのかな?」

今度は縦に首が動く。

「文字は書ける?」

首は横に。

イエスとノーの会話はできそうだが、聞き取りが出来るのになぜ喋れないのかと不思議に思う。心的要因か、外的要因かその場では判別がつかなかったが、おしゃべり九官鳥は社交界の貴婦人方でもう充分だと、プリムファのその状態に満足そうに目を細めて笑う。

単純なイエスノーの質疑を繰り返すが、知れたのはほんのわずかなことだった。生まれはどこか分からない。物心ついたときには檻の中にいた。檻から出されたのはクラリネス嬢に買われてから。

汚いもの、綺麗なもの、醜いもの、美しいもの、ありとあらゆるものから遠ざけられ目の前の現実のみが彼の全てだったのだろう。何か欠如している表情に納得がいく。

あらかた質問もし終えたところで、窓の外に目を向けると、贅を尽くした邸宅が立ち並ぶ中心街を抜け、狭い区画に連なる高層住宅地の街並みに変わっていた。

人間界に長く逗留することなど滅多にないエヴィの塒になっているタウンハウスの一棟は簡素な造りで、近隣の住人は頻繁に顔ぶれが変化し、短期の滞在を目的に居住している人がほとんどだった。馬車を降りて扉の前に立つとひとりでに扉が開いて、中へと入る。タウンハウスの中は、外側からは想像もつかないほど豪華な設えで整えてあり、暖かいランプの色味は帰ってきた主人を歓迎するかのように灯っていた。

「今日からここが君の家だよ」

瞳を大きく見開き、瞬きすることも忘れているプリムファはどうやら驚いているように見える。

エヴィがプリムファから初めてもらった感情は、驚きだった。

仕立てこそ卓越しているが、広さ自体はこじんまりとした部屋には、質のいいソファ、傍らには小さなテーブルに本が置かれ、日がな一日このソファで微睡むエヴィがいることが知れる。くつろぐようにとそこにプリムファを促すと、ためらいがちに座った様子を見届け、布と水桶を用意をするため部屋を出る。

季節は夏に近く、汗ばむ肌に洋服が張り付くようになる。エヴィは、張り付いた服の気持ち悪さと重さから解放されたいと、ゴテゴテと着飾った服を無造作に脱ぎ捨ててラフなシャツに着替える。

プリムファの着替えと共に水を溜めた桶を持って、先程の部屋に戻ると、プリムファがソファの横にぼんやりと佇んでいた。

「何かあったのかい」

「……」

何かあったとて喋れない彼から返事は返ってこないと早々に諦めたエヴィは、豪奢な絨毯の真ん中に躊躇なく水桶を置くように足を向けると近くにいたプリムファの体が硬直したように感じられる。はたと気づく、もしや罰されると思っているのではないか。反射的に身構えたであろうプリムファには近付くことなく視線を合わせる。

「僕は君を傷つけるようなことはしないよ」

優しく語りかけることを努めて声をかけると、出会った時の、あのうるんだ黒曜石の瞳が不安げにエヴィを見つめてくる。吸い込まれるようなその瞳を振り切るように言葉を続ける。

「体を拭いて着替えよう。自分で服を脱げるかな」

首が横に振られる。

「……仕方ない。僕が脱がそう」

プリムファは緊張に体を硬直させたまま、服を脱がせるエヴィをじっと見ているだろう。穴が開くほど見つめられているエヴィは、その視線よりもこの目の前の人形の肌がはだければはだけるほど、陶器なのではないかと錯覚を起こしかけていた。壊さないように、と手が震えることに気付いてしまった。

プリムファの体は、首の擦り切れと痣だけではなく、陶器のような肌のいたるとこに赤黒い鞭の痕や青紫の内出血が広がっており、エヴィは思わず顔を片手で覆い頭を抱える。

束の間そのまま無言でいたが、おもむろに水桶に浸された布を絞って肌を拭く。

体の傷を避けるように、布を滑らす間、二人の間に言葉はなく、濯がれる水音と布の擦れる音だけが耳に聞こえる。何事もなかったかのように新しい服に着替えさせ、プリムファの手をとってしっかりと繋ぎ寝室へと連れて行く。

「今日はこの部屋にしかベットがないから一緒に寝よう。明日は君の部屋を作るよ」

なかなかベットに入ろうとしないプリムファを抱えると、優しく自らの隣に横たえてシルクの掛け布をかける。しかし、いつまでたっても眠ろうとせずに目を開けたままのプリムファに思いついたかのように話しかける。

「プリムファ、これから嬉しいと感じたことがあれば教えてよ。どんな風に嬉しさを伝えてくれてもいい。ね、いいかな」

ベットサイドに置かれたランプの灯りが、プリムファの不思議そうな表情をはっきりと浮き上がらせていた。

「そうだな、嬉しいことがあったら抱きしめてよ。君の表情はあまり変わらないから行動の方が分かりやすそうだ」

表情の機微を読み取ることに長けているという自負があったエヴィだが、何故か、彼の貌からは何かを読み取ろうとしても上手くいかないと感じた末の提案だった。微かに首を縦に動かしたプリムファに満足して、エヴィはおやすみと目を閉じて彼に背を向けた。

睡眠を必要としない意識体ではあるが、緊張して眠れないであろうプリムファを慮って、先に寝ているふりをする。横たえたまま微動だにしなかったプリムファが寝返りをうったのか、ベットの軋む音と布の擦れる音がした。瞬間、エヴィの背中にじんわりとしたぬくもりが広がり、肩に少しの重みが加わるがすぐに離れていくそのぬくもりと重みに、思考が止まる。

抱きしめてくれたのだと思う。嬉しいことがあったのだと思う。しかし、こうもすぐに行動に移してくれると思わなかったと、心臓が早鐘を打つのを抑え込むように胸を押さえる。エヴィの心にほんのりと色がついた気がした。

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