第16話「蝶の記憶」(現代ファンタジー)
私の記憶は、鮮やかな色彩と甘い香りで満ちている。
幼い頃から、夜になると不思議な夢を見ていた。体が軽くなり、見たこともない花畑の上を自由に飛び回る。最初は怖かったが、やがてその感覚に魅了されていった。
夢の中で私は、美しい蝶だった。
「ユメコ、また寝ぼけてるの?」
母の声で我に返る。朝食のテーブルで、私は空中を舞うような仕草をしていたらしい。顔を赤らめながら、慌てて箸を握り直す。
「ごめんなさい。あたし、またあの夢を……」
母の表情が曇った。
「そう……。そろそろ話さなければならないわね」
その日の夕方、母は私を庭に連れ出した。夕陽に照らされた花々が、まるで炎のように燃えている。
「ユメコ、あなたはもうすぐ10歳よね」
母の声には、どこか緊張が混じっていた。
「私たちの一族には、ある特別な能力があるの。夢の中で蝶になれるのよ」
私は驚きのあまり、言葉を失った。てっきり、自分だけの秘密だと思っていたのに。
「でも、それには危険も伴うわ。夢の中で24時間以上蝶でいると、二度と人間に戻れなくなってしまう」
母の真剣な表情に、私は不安を覚えた。今まで楽しんでいた能力が、突然恐ろしいものに感じられた。
「どうして今まで教えてくれなかったの?」
「能力が完全に目覚める10歳まで待つ必要があったの。それまでは、単なる夢だと思っていた方が安全だったから」
その日から、私の夢での冒険はより慎重になった。でも同時に、蝶になることの魅力にますます引き込まれていった。
世界中の美しい花園を巡り、見たこともない風景を楽しんだ。高く舞い上がれば、人間では決して見ることのできない景色が広がる。低く飛べば、花の中に隠れた小さな生き物たちの世界を覗ける。
時には危険な目に遭うこともあった。大きな鳥に追いかけられたり、蜘蛛の巣にかかりそうになったり。そんな時は、慌てて目を覚ました。
毎朝目覚める時、私は母の顔を確認した。安心と期待が入り混じった表情で、母は私を見つめる。まだ人間のままでいられることへの安堵と、新しい冒険の話への期待。
月日は流れ、私は大人になった。
結婚し、娘のハルカにも恵まれた。
そして、ハルカが10歳になる前夜、私は決意した。
夕暮れ時、庭で娘と二人きりになる。
「ハルカ、あなたはもうすぐ10歳ね」
娘の目が期待に輝いた。
「私たちの一族には、ある特別な能力があるの」
そう言いながら、私は密かに微笑んだ。
実は、これはすべて作り話なのだ。
幼い頃から夢の中で蝶になれると信じ込んでいた私。母から聞かされた家族の能力の話。24時間の制限。全て、想像力豊かな祖母が作り上げた物語だった。
ある日、祖母の日記を見つけて真実を知った。そこには、代々伝わるこの「能力」の話が、実は子供の想像力を育むための仕掛けだったことが記されていた。
最初は裏切られた気分だった。しかし次第に、この「嘘」が私の人生をどれほど豊かにしてくれたか気づいた。想像力を育み、世界の美しさに目を向けさせてくれた。現実の制約から解放され、無限の可能性を感じさせてくれた。
そして今、私はその素晴らしい「能力」を、娘に受け継がせようとしている。
「私たちは、夢の中で蝶になれるのよ」
ハルカの目が大きく見開かれた。その瞳に、無限の冒険への期待が輝いている。
いつか、ハルカが自分の子供にこの話を語り継ぐ日が来るだろう。そして、その子もまた、夢の中で蝶になる冒険を楽しむのだ。
現実よりも大切な夢がある。それが、私たち蝶族の秘密なのだ。
(了)
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