第9話「カモミールの咲く庭で」(ファンタジー)

 朝もやの立ち込める庭で、アリスは一輪のカモミールを見つけた。か細い茎に揺れる白い花びらは、まるで彼女の心のように儚げだった。


 「おはよう、お花さん。今日も一緒に頑張ろうね」


 アリスはそっと花びらに触れ、微かに笑った。その笑顔には、どこか寂しさが垣間見えた。


 十二歳になったばかりのアリスは、両親を事故で亡くし、叔母のマーサと二人暮らしをしている。マーサは優しい人だが、仕事に追われる毎日で、アリスと向き合う時間はほとんどない。


 「行ってきます」


 いつものように返事はない。アリスは小さなため息をつき、家を出た。


 学校では、アリスはいつも一人だった。クラスメイトたちは彼女のことを「変わり者」と呼び、近寄ろうとしない。休み時間、アリスは図書室で過ごすのが日課だった。


 その日、アリスは一冊の古びた本を見つけた。『花言葉の世界』。ページをめくると、そこには様々な花の意味が綴られていた。


 「カモミールは……忍耐と、再生」


 アリスは目を輝かせた。


 「私も、カモミールみたいに強くなれたらいいな」


 その夜、アリスは夢を見た。夢の中で、彼女は一面のカモミール畑にいた。風に揺れる花々が、優しく彼女に語りかける。


 「アリス、あなたの中には、もう強さがあるのよ」

 「でも、私には何もできない。みんな、私のことを避けるの」

 「違うわ。あなたには、誰よりも優しい心があるじゃない。その心が、いつか誰かの支えになるはず」


 目覚めたアリスの頬には、涙が伝っていた。


 次の日、学校の帰り道。いつもは誰もいない公園で、アリスは泣いている女の子を見つけた。心臓が早鐘を打つ。でも、カモミールの言葉を思い出し、勇気を出して声をかけた。


 「大丈夫? 何かあったの?」


 女の子は驚いたように顔を上げた。


 「ご、ごめんなさい。私、道に迷っちゃって……」


 アリスは優しく微笑んだ。


 「一緒に探そう? きっと見つかるよ」


 二人で歩き始めると、女の子は少しずつ落ち着いてきた。


 「私、エミリーっていうの。あなたは?」

 「アリス。よろしくね、エミリー」


 やがて、エミリーの家が見つかった。別れ際、エミリーは恥ずかしそうに言った。


 「ねえ、アリス。明日も、一緒に帰ってもいい?」


 アリスは驚いた。誰かに必要とされるのは、初めての経験だった。


 「う、うん。もちろん」


 その日から、アリスの世界は少しずつ変わり始めた。エミリーと過ごす時間が増え、二人で笑い合うようになった。クラスメイトたちも、アリスに興味を持ち始める。


 ある日、エミリーがアリスに尋ねた。


 「どうしてそんなに優しいの?」


 アリスは少し考えて答えた。


 「私には、大切な友達がいるの。庭に咲くカモミールの花たち。花言葉で、忍耐と再生を意味するんだ」


 アリスは、花たちとの思い出を、エミリーに話して聞かせた。


 「へえ、すごいね。私も会ってみたい」


 二人は手をつないで、アリスの家に向かった。


 庭に着くと、アリスは驚いて立ち止まった。カモミールが咲いているはずの場所が、雑草だらけになっている。


 「ど、どうしたの?」とエミリーが心配そうに尋ねる。


 アリスは必死に探し回った。そして、庭の隅に一輪のしおれかけたカモミールを見つけた。アリスの目に涙が溢れる。


 「ごめんね、お花さん。私、あなたのことを忘れてた」


 その時、マーサ叔母の声が聞こえた。


 「アリス、ごめんなさい。仕事に追われて、庭の手入れをする時間がなくて……」


 アリスは驚いて振り返った。マーサの目にも、涙が光っている。


 「叔母さん……」


 マーサはアリスを優しく抱きしめた。


 「もっとあなたと向き合うべきだったわ。これからは、一緒に庭の手入れをしましょう」


 エミリーも加わり、三人でカモミールの周りの雑草を取り除いた。


 「ねえ、アリス。カモミールって、忍耐と再生の花なんだよね」


 エミリーが言った。


 「そうだね。きっと、また元気になるよ」


 アリスは答えた。


 その瞬間、不思議なことが起きた。庭全体が柔らかな光に包まれ、次々とカモミールの花が咲き始めたのだ。それは、まるで魔法のようだった。


 アリス、エミリー、そしてマーサは、驚きと喜びに満ちた表情で顔を見合わせた。


 「見て、アリス! 花たちが戻ってきたよ!」エミリーが興奮気味に叫んだ。


 「うん。みんな、ありがとう」アリスは涙ぐみながら答えた。


 マーサは二人の肩に手を置き、優しく微笑んだ。


 「これは、きっとあなたたちの優しさと努力が花を咲かせたのよ」


 アリスは、エミリーとマーサの手を握りしめた。彼女の心に、新しい希望の芽が力強く生まれていた。


 それから数日後、アリスは学校で驚くべき出来事に遭遇した。休み時間、クラスメイトの一人が彼女に声をかけてきたのだ。


 「ねえ、アリス。噂によると、君の家の庭がすごくきれいになったって本当?」


 アリスは少し戸惑いながらも、カモミールの話をした。すると、クラスメイトたちが興味津々で耳を傾け始めた。


 「へえ、花の力って本当にあるんだね」

 「私も見てみたい!」

 「アリス、今度みんなで見に行ってもいい?」


 アリスは喜びと驚きで胸がいっぱいになった。初めて、クラスメイトたちが彼女に興味を持ってくれたのだ。


 「う、うん。もちろん!」


 その週末、アリスの家の庭は賑やかな声で溢れた。クラスメイトたち、エミリー、そしてマーサ。みんなでカモミールの花を眺め、語り合い、笑い合う。


 アリスは、ふと気がついた。カモミールの花々が、以前よりもさらに美しく咲き誇っているように見えるのだ。


 「不思議ね」


 マーサがつぶやいた。


「みんなの笑顔で、花まで元気になったみたい」


 アリスは深く頷いた。カモミールが教えてくれた「忍耐」と「再生」。それは、決して一人で耐え忍ぶことではなく、人々と繋がり、支え合うことだったのだ。


 夕暮れ時、みんなが帰った後、アリスは一人庭に立った。


 「ありがとう、カモミールさん。あなたが教えてくれたこと、私、やっと分かったよ」


 そよ風が吹き、カモミールの花々が優しく揺れた。まるで「よく頑張ったね」と言っているかのように。


 アリスは空を見上げた。夕焼けに染まる雲の間から、一筋の光が差し込んでいる。それは、まるで両親が微笑んでいるかのようだった。


 「お父さん、お母さん。私、もう大丈夫だよ。これからは、みんなと一緒に歩いていくから」


 アリスの瞳に、決意の光が宿った。彼女の人生という庭に、新たな花が咲き始めようとしていた。


(了)

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