第3話「鏡の国の眠り姫 」(ファンタジー)

 私は、ある日の夜更けに不思議な夢を見た。

 そこは鏡に映し出されたように、左右が反転した世界。空を飛ぶは下向きの鳥、道行く人は逆立ちで歩く。

 だが、よく見ると、彼らの足の裏……いや手のひらは地面に付いていない。まるで、重力から解き放たれたかのように。


「不思議ですか? でも、ここでは当たり前のことなんです」


 そう言って微笑んだのは、私と瓜二つの少女。鏡に映る自分自身──イド。


「アリス、あなたはこの世界の Alice なのよ」


 イドは私の手を引き、《方向の宮殿》へと案内する。

 玉座に座る王と女王は、私を見るなり顔をしかめた。


「この世界を蝕む《眠りの瘴気》……どうかお救いください」


 そう願う女王の瞳は、青白い光に濁っている。


 イドに導かれ、私は《眠り姫の間》へ。

 ベッドには美しい姫が眠る。透き通るような肌は、まるで大理石のよう。

 そっと頬に口づけをすると、姫はゆっくりと紅潮し、目を開けた。


「Alice……。目覚めさせてくれて、ありがとう」


 しかし、宮殿に戻ると、待ち受けていたのはイドの姿だけだった。

 王も女王の姿はない。


「ああ、お気の毒に。本当の眠り姫は、私なのに」


 イドは私を見据え、にっこりと微笑む。

「この国の全てを眠らせ、永遠の夢の中へ連れていってあげる。それが、私の願い」


 イドの瞳が、青白い光に染まっていく。

 それは、女王の瞳と同じ色だった。


「さあ、眠りなさい。アリス。永遠の安らぎが、あなたを待っているわ」


 その時だった。

 眠り姫が、私の前に立ちはだかる。


「お願い、アリス。私を、この国を、自由にして」


 姫の瞳は、透明な光に溢れていた。

 それを見た瞬間、私の心に決意が生まれる。


 私は姫の手を取り、イドに向き直った。

「眠りも、夢も、永遠じゃない。私は目覚めるために来たの」


 鏡の国の Alice として。

 自由を求める、すべての人々のために。


 イドの瞳から、青白い光が消えていく。

「……そう。あなたは本当の Alice。私の役目は、これで終わりね」


 光に包まれ、イドの姿が消えた。

 同じように、歪んでいた世界も、少しずつ形を変えていく。


「ありがとう、アリス。私はこれから、みんなを目覚めさせる旅に出ます」


 姫はそう言って、私の頬にキスをした。

 その瞬間、私の意識は現実へと引き戻されていった。


 目覚めた私の手には、一枚の手鏡が握られている。

 その鏡に映るのは、自由な未来に向かって歩き出した、勇敢な少女の姿。


 私は微笑み、その手鏡を大切にしまった。

 不思議の国の Alice として、今日も前に進むために。


(了)



●イド(Id)は、フロイトの精神分析理論における無意識の部分で、基本的な欲求や本能的な衝動を表す。


・イドは無意識に存在し、快楽を求める衝動(食欲、性欲など)を含む。

・イドは「快楽原則」に従い、快楽を追求し、苦痛を避ける。

・心はイド、エゴ(自我)、スーパーエゴ(超自我)から成り立ち、イドはエゴやスーパーエゴと相互作用する。

・イドは基本的な欲求の源であり、過剰になると社会的な問題を引き起こすことがある。

・抑圧されたイドの欲求は、不安や心理的問題を引き起こすことがある。

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