第2章:「江戸の暗号が照らす現在」

 久我ミチは、朝もやの立ち込める早朝、玄関先で新聞を手に取った。朝日を浴びながら、彼女は静かに紙面を開く。そこに目を引く見出しがあった。


「江戸時代の商人の暗号、解読イベント開催」


 ミチの目が輝きを増す。記事によれば、地域の古い蔵から発見された暗号文書の解読イベントが、地元の博物館で企画されているという。


「まあ、なんて面白そうなの……」


 彼女の心は、若かりし日の好奇心で満たされていく。丁稚奉公時代に培った商売の数字の感覚が、今にも目覚めそうだ。


 朝食の席で、ミチは家族にその話をしてみた。


「ねえ、みんな。面白い記事があったのよ」


 しかし、反応は思わしくない。長男の健一は無言で新聞に目を落とし、その妻美香は気のない返事をする。


「へえ、そうなんだ」


 孫の太一は少し興味を示すも、すぐにスマートフォンに夢中になってしまう。ミチは胸に小さな失望を感じつつも、諦めずに続けた。


「私、参加してみようかしら」


 その言葉に、美香が驚いたように顔を上げる。


「お母さん、そんな難しいもの、大丈夫なんですか?」


 ミチは少し悲しそうに微笑んだ。家族は自分の能力を全く理解していない。それでも、彼女は静かに決意を固めていた。


「大丈夫よ。昔取った杵柄ってものがあるのよ」


 健一はようやく顔を上げたが、その表情は疲れきっていた。


「母さん、無理しないでくれよ」


 その言葉に、ミチは思わずため息をつきそうになった。最近、健一の帰りが遅くなっている。何か問題があるのだろう。だがそれが何かまではミチの知る所ではなかった。


 数日後、ミチは密かに博物館へ向かった。イベントの会場に入ると、若い参加者たちに囲まれ、一瞬たじろぐ。しかし、暗号が書かれた古文書を目にした途端、ミチの目に光が宿った。


「これは……」


 ミチの頭の中で、数字と文字が踊り始める。かつての商売の知恵が、今よみがえろうとしていた。


 時が経つのも忘れ、ミチは解読に没頭した。その姿は、まるで若かりし日の自分に戻ったかのようだった。周囲の参加者たちが苦戦する中、ミチの筆は滑るように動いていく。


「これは驚きました……」


 突然、穏やかな男性の声がミチの耳に入った。顔を上げると、温厚そうな中年の男性が立っていた。


「あら……」


 ミチは我に返り、少し慌てた様子で答えた。


「ごめんなさい。つい夢中になってしまって」


「いえいえ、こちらこそ突然話しかけてしまって申し訳ありません。私、田中と申します。実は、このイベントの運営に携わっているんです」


 田中先生は優しく微笑んだ。その目には、純粋な驚きと興味の色が浮かんでいた。


「久我さん、あなたの才能は特別です。どのようにしてこの暗号を解読されているのですか?」


 ミチは少し戸惑いながらも、自分の解読方法を説明し始めた。話しているうちに、彼女の目は次第に輝きを増していった。


「ここにある数字の並びが、実は昔の商売の帳簿の付け方に似ているんです。それで……」


 田中先生は熱心に耳を傾けながら、次第に目を見開いていった。


「驚きました。久我さん、あなたの才能は本当に特別です」


 ミチは照れくさそうに首を振る。しかし、その言葉は彼女の心に小さな自信の火を灯した。長年眠っていた才能が、今ようやく日の目を見たような感覚だった。


「まあ、そんな。昔の商売の知恵が少し残っているだけですよ」


 謙遜しながらも、ミチの心は弾んでいた。しかし、その喜びもつかの間、ふと健一の顔が脳裏をよぎる。息子の会社での問題を思い出し、ミチの表情が曇った。


 田中先生はその変化を見逃さなかった。


「久我さん、何かお悩みでも?」


 ミチは少し躊躇したが、意を決して口を開いた。


「実は……息子の会社で問題が起きているんです」


 ミチは健一の会社での状況を簡単に説明した。話しているうちに、彼女は不思議な感覚に襲われた。暗号解読と息子の会社の問題。一見まったく関係のないように思えるこの二つの間に、何か共通点があるような……。


「田中先生、少し相談があるのですが……」


 ミチは勇気を振り絞って、自分の考えを話し始めた。暗号と現代の会計システムの類似性について、専門家の意見を聞きたかったのだ。


 田中先生は興味深そうに耳を傾け、しばし考え込んだ。そして、ゆっくりと頷いた。


「面白い視点ですね。確かに、暗号と会計システムには共通点があるかもしれません。久我さん、一緒に研究してみませんか?」


 ミチの目が輝いた。長年抑え込んでいた情熱が、今、一気に溢れ出そうとしていた。しかし同時に、不安も湧き上がってくる。自分のような年寄りが、現代の複雑な問題に口を出して良いものだろうか……。


 そんなミチの葛藤を見抜いたかのように、田中先生は優しく言った。


「久我さん、年齢は関係ありません。あなたの経験と洞察は、現代の問題を解決する鍵になるかもしれないんです」


 その言葉に、ミチは深く頷いた。そうだ、自分にもできることがあるはずだ。健一のため、家族のため、そして自分自身のために、この才能を活かさなければ。


 ミチは決意を固めた。これから始まる新しい挑戦に、胸が高鳴るのを感じた。


 その日の夕方、ミチは興奮冷めやらぬまま帰宅した。玄関を開けると、美香が心配そうな顔で待っていた。


「お母さん、どこに行っていたんですか? 心配しました」


 ミチは少し申し訳なさそうに答える。


「ごめんなさい。あの暗号解読イベントに行ってきたの」


 美香は驚いた顔をした。


「え? 本当に行ったんですか? どうでしたか?」


 ミチは嬉しそうに暗号解読の経験を語り始めた。しかし、その瞬間、玄関が開く音がした。健一が帰ってきたのだ。


 健一の顔は青ざめていた。ミチは息子の様子に胸を痛める。


「健一、どうしたの?」


 健一は重い口を開いた。


「会社の問題が……もっと深刻になったんだ」


 ミチは息子の言葉に耳を傾けながら、暗号解読で得た洞察と、健一の会社の問題を結びつけようとしていた。そして、その瞬間、ミチは確信した。自分の才能が、健一を、そして家族を救う鍵になるかもしれないと。


 しかし、まだそれを口にする勇気は持てなかった。ミチは静かに決意を固めた。明日、家族に自分の考えを伝えよう。そして、田中先生と共に研究を始めるのだ。


 その夜、ミチは久しぶりに充実感を覚えながら眠りについた。明日からの新たな挑戦に、期待と不安が入り混じる。しかし、彼女の心の中には、かつて感じたことのない確かな自信が芽生えていた。


 人生は、まだまだこれからなのかもしれない……。そんな思いを胸に、ミチは穏やかな寝息を立て始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る