【えっ!? おばあちゃん計算速すぎ……!? 小説】おばあちゃんの頭の中の秘密の算盤

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:「眠れる算盤の目覚め」

 久我くがミチは、朝日が差し込む縁側で静かに目を覚ました。七十八年の人生を重ねた彼女の瞳には、いつも以上の輝きがあった。今日は大切な日――孫の太一の誕生日だ。ミチは、ゆっくりと身を起こしながら、頭の中で贈り物のリストを整理していく。


「太一くん、プレゼントは何がいいかしら……」


 つぶやきながら、ミチは驚くほど正確に太一の好みを鮮明に思い出していく。いまだに衰えないその記憶力は、家族でさえ気づいていない彼女の才能の一つだった。


 朝食の準備を終えたミチは、長男の健一とその妻美香、そして太一を起こしに行く。健一の部屋のドアをノックすると、中から疲れた声が返ってきた。


「はい、起きてます……」


 ミチは息子の声に、わずかな心配を感じた。


「健一、体調は大丈夫?」


「ああ、大丈夫だよ。ちょっと最近仕事が忙しくて……」


 健一の言葉に、ミチは深いため息をついた。息子の仕事へのストレスは、このところますます顕著になっていた。彼女は何か力になれないかと考えるが、自分にできることの限界も感じていた。


 朝食の席で、ミチは家族に向かって言った。


「今日は太一くんの誕生日のプレゼントを買いに行こうと思うの」


 太一の顔が明るくなる。


「わあ! おばあちゃん、ありがとう!」


 美香も笑顔で応じる。


「お母さん、ありがとうございます。でも、私も一緒に行きましょうか?」


 ミチは優しく首を振る。


「いいのよ、美香さん。あなたは仕事があるでしょう? 私一人で大丈夫」


 健一は黙ったまま新聞に目を落としている。

 ミチは息子の無言に、わずかな寂しさを感じた。


 午後、ミチは近くのショッピングモールへと向かった。彼女の頭の中では、太一の好みや、予算、そして様々な店の割引情報が、まるで精密な計算機のように整理されている。この能力が、かつて丁稚奉公時代に培われたものだと、ミチ自身も気づいていない。


 服飾店で太一の好みそうなTシャツを見つけたミチは、レジに向かう。店員が価格を打ち込み始めると、ミチの頭の中で自然と計算が始まった。


「えっと、これが2900円で、30%オフで……あれ?」


 店員が困惑した表情を浮かべる。ミチは思わず口を開いた。


「2030円になるはずですよ」


 店員は驚いた顔でミチを見る。


「すみません、そのとおりです、すぐに修正します。でもどうやって……?」


 ミチは少し照れながら微笑んだ。


「昔、お店で働いていたときの癖みたいなものかしら」


 その瞬間、ミチの心の中に小さな喜びが灯った。しかし同時に、この能力を誰にも理解されていない寂しさも感じていた。


 買い物を終えたミチは、静かな満足感を胸に家路についた。バスに乗り込むと、窓際の席に腰を下ろし、街の景色を眺めながら思考に耽る。頭の中では、今日の出来事と昔の記憶が絡み合っていく。


「あの頃も、こんな風だったわね……」


 丁稚奉公時代、ミチの計算の速さは主人にもよく褒められたものだった。算盤も使わずにすべて暗算で、しかも正確に計算できる。それは他の奉公人にはできない技だった。

 しかし、結婚し、子育てに追われるうちに、その能力を使う機会は減っていった。今では、家族のために尽くすことが彼女の喜びとなっている。それでも、心の奥底では何か物足りなさを感じていた。


 家に戻ったミチは、プレゼントを隠すと、夕食の準備に取り掛かった。台所で野菜を刻みながら、テレビからふと耳に入ってきた言葉に、ミチは動きを止めた。


「さて、視聴者の皆さんに問題です。1から100までの奇数の和は、いくつでしょうか?」


 ミチの頭の中で、数字が踊り始める。瞬く間に答えが浮かび上がる。


「2500ね」


 ミチはつぶやいた。しかし、誰も聞いていない。彼女は少し寂しそうに微笑むと、再び野菜を刻み始めた。


 夕暮れ時、久我家のダイニングルームに家族が集まってきた。ミチは台所から最後の一皿を運んでくると、やわらかな笑顔を浮かべながらテーブルに着いた。


「さあ、みんな。今日の夕食はカレーよ」


 健一が鼻を鳴らす。


「うーん、いい匂いだ」


 美香が皆の前にご飯をよそい、太一が楽しそうにスプーンを手に取る。家族全員が席に着くと、ミチはゆっくりと立ち上がった。


「あの、みんな。食事の前に、ちょっと待ってね」


 ミチは部屋を出て、すぐに戻ってきた。手には、カラフルな包装紙で包まれた四角い箱を持っている。


「太一くん、これ」


 ミチは優しく微笑みながら、プレゼントを太一に差し出した。太一の目が大きく見開かれる。


「わあ! おばあちゃん、これ、僕に?」


 ミチは頷いた。


「そうよ。今日、買ってきたの。開けてみて」


 太一は興奮した手つきでリボンをほどき、包装紙を丁寧に剥がしていく。箱の蓋を開けると、中から真新しいTシャツが現れた。


「わあ! これ、僕が欲しかったバスケットボールチームのTシャツだ! 今度試合を観に行くのが楽しみだなあ。おばあちゃん、ありがとう!」


 太一は立ち上がり、ミチに駆け寄って抱きついた。ミチは孫の頭を優しく撫でる。


 美香も嬉しそうに微笑んでいる。


「お母さん、いつもありがとうございます。太一のことをよく覚えていてくださって」


 健一も珍しく柔らかな表情を見せている。


「母さん、ありがとう」


 ミチは幸せそうに家族を見回した。


「みんなが喜んでくれて、私も嬉しいわ。さあ、カレーが冷めないうちに食べましょう」


 家族全員が笑顔でテーブルを囲み、和やかな雰囲気の中で夕食が始まった。太一は時々新しいTシャツを見ては嬉しそうにニヤニヤしている。ミチはそんな孫の様子を見て、心の中で静かな喜びを噛みしめていた。


 しかし、ミチは健一の様子が少し気になった。彼は今はただひたすら黙々と食事を続けている。ミチは息子に優しく声をかけた。


「健一、どうかしたの?」


 健一は顔を上げ、疲れた笑顔を見せた。


「ああ、ちょっと仕事のことで……心配かけてごめん」


 ミチは息子の言葉に、胸が締め付けられる思いがした。何か力になれることはないだろうか……。そう考えながら、彼女は数学の問題を思い出していた。かつて仕事の悩みを数字で解決してきたように、今の問題も数学で解決できるのではないか……。しかし、その考えを口にする勇気は、まだなかった。


 夕食後、ミチは太一の宿題を手伝うことになった。数学の問題を見ながら、ミチの目が輝き始める。


「ねえ、太一くん。この問題、こんな風に考えるとおもしろいわよ」


 ミチは数式の美しさを語り始めた。しかし、太一の目は少し遠くを見ている。


「うん……でも、おばあちゃん。僕、数学より部活のほうが好きなんだ」


 ミチは少し寂しそうに微笑んだ。孫に理解されないことへの失望と、自分の情熱を共有できない寂しさが胸に広がる。それでも、太一の気持ちを尊重しようと思った。


「そうね。太一くんにはバスケットボールのほうが確かに合っているわ」


 太一は安心したように笑顔を見せた。ミチは孫の笑顔に慰められながらも、自分の中に眠る才能と情熱を、誰かと分かち合いたいという思いが強まっていくのを感じていた。


 就寝前、ミチは自室で密かに大学の数学の問題集を取り出した。ページをめくる指先に、小さな期待と不安が混ざっている。


「こんなおばあさんが、まだこんなことをしていて……」


 自嘲気味に呟きながらも、問題を解き始めると、ミチの目は若々しい輝きを取り戻していった。複雑な方程式を解いていく過程で、彼女は自分の存在意義を確かめているかのようだった。


 しかし、深夜になっても健一の帰宅する気配はない。ミチは息子を心配しながらも、明日への小さな希望を胸に眠りについた。彼女の夢の中では、数式が美しい花となって咲き誇っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る