【えっ!? おばあちゃん計算速すぎ……!? 小説】おばあちゃんの頭の中の秘密の算盤
藍埜佑(あいのたすく)
第1章:「眠れる算盤の目覚め」
「太一くん、プレゼントは何がいいかしら……」
つぶやきながら、ミチは驚くほど正確に太一の好みを鮮明に思い出していく。いまだに衰えないその記憶力は、家族でさえ気づいていない彼女の才能の一つだった。
朝食の準備を終えたミチは、長男の健一とその妻美香、そして太一を起こしに行く。健一の部屋のドアをノックすると、中から疲れた声が返ってきた。
「はい、起きてます……」
ミチは息子の声に、わずかな心配を感じた。
「健一、体調は大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。ちょっと最近仕事が忙しくて……」
健一の言葉に、ミチは深いため息をついた。息子の仕事へのストレスは、このところますます顕著になっていた。彼女は何か力になれないかと考えるが、自分にできることの限界も感じていた。
朝食の席で、ミチは家族に向かって言った。
「今日は太一くんの誕生日のプレゼントを買いに行こうと思うの」
太一の顔が明るくなる。
「わあ! おばあちゃん、ありがとう!」
美香も笑顔で応じる。
「お母さん、ありがとうございます。でも、私も一緒に行きましょうか?」
ミチは優しく首を振る。
「いいのよ、美香さん。あなたは仕事があるでしょう? 私一人で大丈夫」
健一は黙ったまま新聞に目を落としている。
ミチは息子の無言に、わずかな寂しさを感じた。
午後、ミチは近くのショッピングモールへと向かった。彼女の頭の中では、太一の好みや、予算、そして様々な店の割引情報が、まるで精密な計算機のように整理されている。この能力が、かつて丁稚奉公時代に培われたものだと、ミチ自身も気づいていない。
服飾店で太一の好みそうなTシャツを見つけたミチは、レジに向かう。店員が価格を打ち込み始めると、ミチの頭の中で自然と計算が始まった。
「えっと、これが2900円で、30%オフで……あれ?」
店員が困惑した表情を浮かべる。ミチは思わず口を開いた。
「2030円になるはずですよ」
店員は驚いた顔でミチを見る。
「すみません、そのとおりです、すぐに修正します。でもどうやって……?」
ミチは少し照れながら微笑んだ。
「昔、お店で働いていたときの癖みたいなものかしら」
その瞬間、ミチの心の中に小さな喜びが灯った。しかし同時に、この能力を誰にも理解されていない寂しさも感じていた。
買い物を終えたミチは、静かな満足感を胸に家路についた。バスに乗り込むと、窓際の席に腰を下ろし、街の景色を眺めながら思考に耽る。頭の中では、今日の出来事と昔の記憶が絡み合っていく。
「あの頃も、こんな風だったわね……」
丁稚奉公時代、ミチの計算の速さは主人にもよく褒められたものだった。算盤も使わずにすべて暗算で、しかも正確に計算できる。それは他の奉公人にはできない技だった。
しかし、結婚し、子育てに追われるうちに、その能力を使う機会は減っていった。今では、家族のために尽くすことが彼女の喜びとなっている。それでも、心の奥底では何か物足りなさを感じていた。
家に戻ったミチは、プレゼントを隠すと、夕食の準備に取り掛かった。台所で野菜を刻みながら、テレビからふと耳に入ってきた言葉に、ミチは動きを止めた。
「さて、視聴者の皆さんに問題です。1から100までの奇数の和は、いくつでしょうか?」
ミチの頭の中で、数字が踊り始める。瞬く間に答えが浮かび上がる。
「2500ね」
ミチはつぶやいた。しかし、誰も聞いていない。彼女は少し寂しそうに微笑むと、再び野菜を刻み始めた。
夕暮れ時、久我家のダイニングルームに家族が集まってきた。ミチは台所から最後の一皿を運んでくると、やわらかな笑顔を浮かべながらテーブルに着いた。
「さあ、みんな。今日の夕食はカレーよ」
健一が鼻を鳴らす。
「うーん、いい匂いだ」
美香が皆の前にご飯をよそい、太一が楽しそうにスプーンを手に取る。家族全員が席に着くと、ミチはゆっくりと立ち上がった。
「あの、みんな。食事の前に、ちょっと待ってね」
ミチは部屋を出て、すぐに戻ってきた。手には、カラフルな包装紙で包まれた四角い箱を持っている。
「太一くん、これ」
ミチは優しく微笑みながら、プレゼントを太一に差し出した。太一の目が大きく見開かれる。
「わあ! おばあちゃん、これ、僕に?」
ミチは頷いた。
「そうよ。今日、買ってきたの。開けてみて」
太一は興奮した手つきでリボンをほどき、包装紙を丁寧に剥がしていく。箱の蓋を開けると、中から真新しいTシャツが現れた。
「わあ! これ、僕が欲しかったバスケットボールチームのTシャツだ! 今度試合を観に行くのが楽しみだなあ。おばあちゃん、ありがとう!」
太一は立ち上がり、ミチに駆け寄って抱きついた。ミチは孫の頭を優しく撫でる。
美香も嬉しそうに微笑んでいる。
「お母さん、いつもありがとうございます。太一のことをよく覚えていてくださって」
健一も珍しく柔らかな表情を見せている。
「母さん、ありがとう」
ミチは幸せそうに家族を見回した。
「みんなが喜んでくれて、私も嬉しいわ。さあ、カレーが冷めないうちに食べましょう」
家族全員が笑顔でテーブルを囲み、和やかな雰囲気の中で夕食が始まった。太一は時々新しいTシャツを見ては嬉しそうにニヤニヤしている。ミチはそんな孫の様子を見て、心の中で静かな喜びを噛みしめていた。
しかし、ミチは健一の様子が少し気になった。彼は今はただひたすら黙々と食事を続けている。ミチは息子に優しく声をかけた。
「健一、どうかしたの?」
健一は顔を上げ、疲れた笑顔を見せた。
「ああ、ちょっと仕事のことで……心配かけてごめん」
ミチは息子の言葉に、胸が締め付けられる思いがした。何か力になれることはないだろうか……。そう考えながら、彼女は数学の問題を思い出していた。かつて仕事の悩みを数字で解決してきたように、今の問題も数学で解決できるのではないか……。しかし、その考えを口にする勇気は、まだなかった。
夕食後、ミチは太一の宿題を手伝うことになった。数学の問題を見ながら、ミチの目が輝き始める。
「ねえ、太一くん。この問題、こんな風に考えるとおもしろいわよ」
ミチは数式の美しさを語り始めた。しかし、太一の目は少し遠くを見ている。
「うん……でも、おばあちゃん。僕、数学より部活のほうが好きなんだ」
ミチは少し寂しそうに微笑んだ。孫に理解されないことへの失望と、自分の情熱を共有できない寂しさが胸に広がる。それでも、太一の気持ちを尊重しようと思った。
「そうね。太一くんにはバスケットボールのほうが確かに合っているわ」
太一は安心したように笑顔を見せた。ミチは孫の笑顔に慰められながらも、自分の中に眠る才能と情熱を、誰かと分かち合いたいという思いが強まっていくのを感じていた。
就寝前、ミチは自室で密かに大学の数学の問題集を取り出した。ページをめくる指先に、小さな期待と不安が混ざっている。
「こんなおばあさんが、まだこんなことをしていて……」
自嘲気味に呟きながらも、問題を解き始めると、ミチの目は若々しい輝きを取り戻していった。複雑な方程式を解いていく過程で、彼女は自分の存在意義を確かめているかのようだった。
しかし、深夜になっても健一の帰宅する気配はない。ミチは息子を心配しながらも、明日への小さな希望を胸に眠りについた。彼女の夢の中では、数式が美しい花となって咲き誇っていた。
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