第6話 空手は私を解放する
今回は私個人の心情について具体的に書いてみたい。そのために題材にするのは私個人の体験である。
私は空手を長く習っている。ご存じない方も多いと思うので、空手について簡単に紹介しよう。
空手は相手に当てない「寸止め」と相手に当てる「フルコンタクト」などと称される「当てる空手」とに大別される。
前者は全国的な連盟があり、学校の部活動でおこなう空手がこれに当たる。部活動以外には地域の体育館や武道館などを借りて活動している団体も多い。東京オリンピックの種目となったのは「寸止め」の方である。
後者には全国的な連盟はない。実際に突きや蹴りを相手に直接当てる。キックボクシングとの共通点も多い。テレビなどで中継される「立ち技格闘技」に出場する空手経験者は、そのほとんどが「当てる空手」の経験者である。
空手は柔道や剣道と違い、流派が統一されていない。そのため多数の流派がある。そのどれもが「空手」である。
私が習っているのは「当てる空手」である。空手というと昔は喧嘩イコール空手というイメージがあったそうで、空手を習っているなどと口にすれば、乱暴者か、喧嘩が強いなどという印象をもたれてしまったようだ。
特に女性が空手を習っているなどと言おうものなら好奇の目にさらされること間違いなしだ。「男なんて簡単にやっつけられるんでしょう?」などと私も言われたことがあるが、そんなことはない。男性の方が筋力があるし、いざとなれば力で押さえ込まれてしまう。
しかし例外はある。女性にも筋力が強い人はいるし、テクニックがあれば男性からの攻撃を防ぐことも可能であろう。筋力の弱い男性もいるし、筋力はあってもテクニックを使いこなせない男性もいる。勝つか負けるかを決定づける要素は多くあり、単に筋力の強弱やテクニックの巧拙だけにとどまらない。
空手を始めたきっかけは、登場人物たちが体一つで戦う少年漫画だ。自分もその登場人物たちのように戦いたいと思ったからだ。
もともと私は気性が激しい。感情が高ぶると言葉は荒くなり態度も悪くなる。実母はそれを批判した。私は実母が好きではなかった。彼女との関係が改善したのは、彼女がこの世を去る直前であった。私が思春期の頃、彼女は常に素の私を受け入れなかった。私が私でいられるのは、共働きだった両親に代わって私を育ててくれた母方の祖父母の前と、二次創作に打ち込んでいる時だけだった。
母親を怒らせると私は家に居場所がなくなる。だから私は彼女が望むように振る舞わざるを得なかった。私と同じジャンルで二次創作に打ち込む友人は身近にほとんどいなかった。非行に走るという選択肢は初めから思い浮かばなかった。
私は人前ではその激しさを出さないようにせざるを得なかった。周囲から排除されれば居場所がなくなる。人前で自分を隠すのは今でも同じ理由からだ。だから私を初めて見る人は私を「まるで妖精のようだ」そして「ナチュラルな人だ」と評する。それも確かに私の一面ではあるけれど、すべてではない。
空手は私を解放する。空手に取り組んでいる時だけは私は奥底に隠す激しさを合法的に発揮することが許される。
「当てる空手」の醍醐味は組手だ。
組手では私は相手にのみ集中する。空手を始めたばかりの頃は相手を攻撃するだけだった。今は相手の出方を見極め、相手との距離を測りながら確実に有効な技を当てることを考えながら動けるようになった。
しかしそうなるまでには長い時間がかかった。年下の女の子からみぞおちに中段蹴りを食らい、呼吸が止まったことは数えきれない。悔しかった。一撃も返せないことが悔しくてたまらなかった。
組手をする回数を重ねても私の技能は向上せず、彼女には勝てなかった。ところがある日突然彼女は道場に姿を見せなくなった。理由はわからないが辞めたとのことだった。
それでも私は組手でうまく動けないままだった。そんな私が「覚醒」する時が訪れた。館長からのたった一言のアドバイスがきっかけだった。
「相手が出した拳を叩け」
私は素直に実行した。すると相手がひるんだ。そこから私の攻撃は面白いように相手に当たり始めた。同時に相手の動きが見えるようになった。自分でも相手に合わせて動けるようになった。館長は私を褒めた。
「踊り場にいる時間が長かったけれども、あなたにはポテンシャルがあったからね」
上達することを階段を上ることに例えたのだ。私はずっと踊り場で足踏みしていたということになる。
組手はコミュニケーションだと思う。組手をすれば、その人がどのように相手に働きかけるかがわかる。構わず突っ込んでくる人、相手が仕掛けてきて初めて動く人、軽く手を出して様子をうかがう人、怖くて引いてしまう人、焦ってやみくもに有効でない手を打つ人、様々である。
とはいえ組手は真剣勝負である。私などは相手を倒すつもりで臨む。公の場では適切な言葉づかいでないことを承知で言うが、
「てめえ、ブッ殺す」
というくらいの勢いで立ち向かわなければ、倒れるのは自分である。
相手が子供であっても私は手を抜かない。女性と組手をする時は、相手の本気度から判断して出方を決める。あまり打ち合いたくなさそうに見える人には軽く当て、本気で倒しに来る人には全力で向かう。男性には覚悟を決めて本気の全力で打ちに行く。いずれの場合にも相手を見くびることはしない。こちらが怪我をするからだ。
こんな私なので、立ち回りを書くのが楽しくて仕方ない。三国志での戦闘場面や、恋愛もので登場人物同士が対決するところなど書いているとわくわくする。
こう書くと私のことを好戦的な人間だと思う方もいるだろう。ところが私は争い事が大嫌いである。怒鳴られるのも怖いから嫌いである。電話口で怒鳴られたことがあるが、しばらく電話に出たくない、話したくないと思ったくらいである。だから小説投稿サイトで悪意ある感想を受け取った時など、退会しよう、小説を書くことをやめようと本気で考えた。
誤解されることがないようにつけ加えるが、空手の実力がある人ほど控えめで腰が低く、丁寧で柔らかい言動をする。
空手には型もある。「形」とも表記するようだ。空手の型(形)は仮想の敵と戦う前提で動く。その型(形)は相手の攻撃を受ける動作から始まる。私は型(形)が得意で、大好きだ。真剣に取り組むとそれだけで神経をつかい、終えたあとはしゃがみこんでしまう。
「空手に先手なし」
という教えがある。あくまでも空手をとおして人との和を実現することが本来の目的であると私は学んでいる。
自分のことを初めて書いてみた。楽しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます