ピアソラのアヴェ・マリア

増田朋美

ピアソラのアヴェ・マリア

少し涼しくなってきたかなと思われる日であった。

そんななか、水穂さんも少し楽になってきたようなので、杉ちゃんと水穂さんは製鉄所近くにあった楽器屋さんまで出向いてみることにした。楽器屋さんに行くのには、歩いて5分もかからないのであった。二人が楽器屋の入口から中に入ると、ピアノが特売セールをしているとかで、大型のグランドピアノが、でんと置かれていた。水穂さんがちょっと弾いてみると、かなり古いピアノのようであるが、でもちゃんと音がしてくれたので、まだいいかなと思っていたところであるが。

「こんにちは。」

一人の青年が、バイオリンのケースを持ってやってきた。

「はい。いらっしゃいませ。」

楽器屋さんの店主さんは、にこやかに彼を迎えてくれた。

「今日は何のご依頼ですかな?」

「ええ、ちょっと、弦が切れてしまったので、張替えを手伝っていただきたいんです。」

「はあ、良く練習されるんだな。」

そういう楽器屋さんの店主さんと青年が交わしている言葉に、杉ちゃんがでかい声で割り込んでしまった。

「ああ、自己紹介するの忘れてたね。僕は、影山杉三で杉ちゃんって呼んでね。それで、こっちは、親友の磯野水穂さん。まあ、適当に呼んでくれればそれでいいから。」

「本当によく練習されるんですね。なかなかバイオリンの弦って頻繁に切れてしまうものではないですからね。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんがちょっと頭を下げて言った。青年はありがとうございますと言って、バイオリンを楽器屋さんのおじさんに手渡した。

「はあ。派手に壊したね。ちょっと待ってなよ。今故障のところ直すから。」

楽器屋のおじさんはそう言って、バイオリンの弦を張り替えてくれた。修理に長けた楽器屋のおじさんだから、そういうことができるのだろう。もし、若手の技術者だったら、こんな派手な壊し方をしてとか、文句が出るに違いない。

「はい。じゃあ、一本張り替えて、5000円程度かな?」

青年は五千円をおじさんに払った。

「それにしても、楽器屋のおじさんを唸らせるほど壊すなんて、お前さんも大したもんじゃないか。ちょっとここへ来て一曲弾いてみてくれよ。なんでもいいから。」

杉ちゃんに言われて青年は驚いた顔をしたが、

「いえ大丈夫です。こんな喋り方をする人だけど、決して悪い人ではないですから、気にしないで弾いてください。」

と、水穂さんが優しく言ったので、ちょっと考え直してくれたらしい。

「何なら、水穂さんにちょっと弾いてもらったっていいじゃないか。よく知られている曲だったら、こいつのアレンジで弾いてもらいな。」

と杉ちゃんに言われて、

「最近習った曲なんですけど、ピアソラのアヴェ・マリアとか、弾いていただけますか?」

と、水穂さんに聞いた。

「ああ、わかりました。じゃあ一度弾いてみましょうか。」

水穂さんはそう言って、静かに前奏を弾き始めた。それに合わせて青年も、バイオリンを弾き始める。なかなか様になってるじゃないかと、杉ちゃんがつぶやくほど、なかなか音も取れているし、上手な演奏である。ピアソラという作曲家だけあって、転調も多く、音程の取りにくいところはあるが、なかなかそこもうまくクリアできている演奏だった。

「ほうほう。なかなか出来てるじゃないか。もうバイオリンを習ってどれくらい経つんだ?誰か偉い先生についたのか?それとも音楽大学に言ったとか?」

誰かなと思われる声であったが、そこにいたのは広上麟太郎であった。

「何だ広上さんか。もういきなりはいってきて、変なこと言わないでくださいよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「いやあすまんすまん。だっていい音がするから、ついはいってしまった。それで、もう一度聞くが、誰か偉い先生についてバイオリンを習っているのかな?」

麟太郎はそう青年に聞いた。

「いきなり聞いたら可哀想ですよ。それより、ちゃんと、理由を話して、それから色々彼に聞くべきではないでしょうか?」

水穂さんがそう言うと、

「いやあごめんねえ。つい職業病が出てしまった。俺、アマチュアオーケストラで棒振りやってるんだ。それで次の演奏会で、ソリストをやってもらう人材を探しているんだが、どうだろう、ぜひやってもらえないだろうか?さっきのピアソラのアヴェ・マリアは、とても素晴らしい演奏だったから、ぜひやってもらいたいんだ。」

麟太郎は早口にそういったのであった。

「今俺達、バロック協奏曲をやっていて、バッハのバイオリン協奏曲とか、ヴィヴァルディのグロッソモーグルとかやってもらいたいんだがどうだろう?」

青年は困った顔をする。それはそうだろう。いきなりソリストをやってもらいたいなんて、こんなお願いされれば、困った顔をするのは当たり前だと思う。

「いや、いいんじゃないですか。だって、この人、バイオリンの弦を切るぐらいずっと練習してるんですよ。しかも今回はG弦を切ったので、私もびっくりしたところなんです。きっと、広上先生のところでも、いい人材になるんじゃないですかね?」

楽器屋のおじさんがそういった。青年は更に困っている様子であったが、水穂さんが優しく、

「あなたのお名前は?」

と聞いた。

「鈴木友道と申します。」

と、彼は答える。

「鈴木友道さんね。じゃあ、もう一度聞くけど、どっか偉い先生に習ったの?それとも、音楽学校でも行ったのかな?」

麟太郎が、またそう畳み掛けるようにきくと、

「いえ、音楽学校には行きませんでした。」

と、鈴木友道くんは答える。

「そうか。じゃあ、どこかの音大の先生に習ったのか?」

麟太郎がまた聞くと、

「ええと、学生の頃は音大の先生に習ったこともありましたが、今は地元でレッスンを受けているだけです。」

と、鈴木友道くんは答えた。

「そうなんだ。ちなみにどこだい?」

麟太郎が聞くと、

「ええと、武蔵野です。」

と彼は答えた。

「そいつはおかしいなあ。武蔵野の先生に習ったことがある人が、なんで今地元の先生にしか習えないんだろう?」

「まあね広上さん。今はリモートでもレッスンは受けられますからね。」

水穂さんが助け舟を出すが、

「でもさ、武蔵野の先生に習ったことがある以上、地元の先生ならつまらなくてやめてしまうところだぞ。大体さ、音大の先生に習えるくらいの実力があるんだったら、地元の先生なんて習わないと思うけど?」

麟太郎は疑いの目を持っていった。

「すみません。これには色々事情がありまして。」

と鈴木友道くんは申し訳無さそうに言った。

「お前さんが謝る必要ないんだよ。それよりも、早くお前さんの居場所を作ってさ、早くお前さんが家から出られるようにしないとね。家でバイオリンの練習しているしか居場所がないなんて、これは大問題だぜ。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、友道くんは、なんでわかっちゃうんですかという顔をした。

「まあいずれにしてもだな。ソリストになるとか、そういう前に、広上さんのオーケストラに入らせてもらって、家がすべてという生活習慣をなくすことが必要だ。家にいると、余計にうつやパニックがひどくなっちまうよ。それだって、ちゃんと治療をしてもらえば、怖いことはないの。人間、人付き合いを遮断してしまったら、紛れもなく廃人同様になっちまうぞ。」

「そうですね。そういう事情なら、僕も杉ちゃんの言う通りにしたほうが良いと思いますね。これから先、いろんな事情があって、人とは関わっていなければいけませんから、それを遮断してしまうというのは、あなただけではなくご家族にも申し訳が立たないですよ。それなら、つきに何度か、外へ出るきっかけとして、オーケストラに参加させてもらうというのはありだと思いますね。」

水穂さんも杉ちゃんの意見に賛同した。

「ほら、そう言っているんだから、お前さんも、広上さんの仲間になれ。」

「そうですが、僕、オーケストラで演奏させて頂いたことなんて殆どありませんよ。」

友道くんはそういうのであるが、

「誰でも最初は一年生。だからそれで良いの。誰だって合奏で最初からうまくやれるやつなんて誰もおらんよ。慣れちゃえば大丈夫。そのくらいのことを乗り越えられないと、これからの生活はもっと大変になっちまう。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そういうことなら、今週の土曜日、富士市の文化センターに来てもらえるか?」

麟太郎は友道くんの肩をぽんと叩いた。

「わかりました。自信は全然無いですけど、とりあえず行ってみます。」

と、友道くんは、麟太郎の誘いに乗ってそういった。

それからしばらく経って。

麟太郎が、文化センターの入り口付近で麟太郎が待っていると、

「こんにちは。」

と言って、バイオリンを持った、鈴木友道くんがやってきた。

「よく来てくれたな!今日はよろしく頼む。みんなをあっと言わせよう。」

麟太郎はそういうのであるが、友道くんは自信がなさそうである。

「いや絶対大丈夫だ。君の演奏は絶対に印象に残る。それほどすごかったんだから、それは、自身持っていいの。」

麟太郎はそう言って、友道くんを、いつも練習しているリハーサル室へ連れて行った。バイオリニストや、フルーティストなど、いろんな楽器の人達が音を出したり、曲の一部を演奏したりしているのであった。麟太郎がはいってくると、みんな演奏を止めて彼の方を向いた。

「今日は、新しいバイオリニストを連れてきたぞ。名前はえーと、えーと、忘れてしまった。」

「広上先生、本当に忘れ物が多いですね。彼の名前を忘れてどうするんですか。全くしょうがないな。」

おじいさんのビオリストが呆れたように言った。麟太郎が何だっけと、彼に名前を尋ねると、

「はい。鈴木友道と申します。」

と、友道くんは言った。

「そうそう、鈴木友道くんだよ。それで、次の演奏会でグロッソモーグルのソリストは彼にしてもらおうと思っているから、まず初めに彼の演奏を聞いてもらおう。そういうわけなので、ちょっと、ピアソラのアヴェ・マリアを弾いてみてくれ。ピアノは、なしでやってみてくれるか。」

麟太郎に言われて、友道くんは、バイオリンを取り出し、ピアソラのアヴェ・マリアを弾いてみた。だけど、人前で演奏するのはなかなか経験がなかったようで、ところどころ、音を外したりしてしまったが、音色は実に良かった。もしかしたら、ストラディバリウスみたいなすごい楽器で演奏することができたら、彼の彼の演奏もすごいものになるのかもしれない。

「はあ、まずこれじゃあだめね。これじゃあ、グロッソモーグルのソロは任せられないな。だっていろんなところ間違えているもの。」

女性のバイオリニストが、高飛車に言った。

「いや大丈夫だ。練習さえすれば、絶対弾けるようになる。もともと音色は、若い人には珍しく、ちゃんと出ているからね。もっときちんとした先生に習って、ちゃんと、弓の動かし方とか、そういうことを学び直せば、きっと弾けるようになれるよ。ぜひ、頑張って。」

先程のおじいさんのビオリストはとてもうれしそうに言った。なんだか、新しいメンバーが来てくれて、とても嬉しく感じてくれていたのだろう。

「まあまずソリストという形にしなくても、一度うちのオーケストラのメンバーになってもらって、ハイドンの交響曲とかそういうのを弾いてみたらどうかな?それで、研鑽を積んでいけば、いつかは、すごい演奏になるかもよ。」

若い男性のチェリストが言った。

「いずれにしても、うちのオーケストラが、ベートーベンの交響曲もやれないほど、人が足りないことは明白なんだし、それを解消してくれる人材が一人来てくれたんだから、仲間として、迎えよう。」

別のバイオリニストの男性がそういって、他のメンバーさんたちもそうですねと言ってくれた。ただ、最初に発言した女性のバイオリニストは、嫌そうな顔をしていた。

「じゃあそういうわけで、鈴木友道くんには、うちのオーケストラのメンバーとなってもらおう。今から、この曲を練習するから、ちょっと、やってみてくれるか。君は第一バイオリンにはいってもらおうかな。じゃあ、そこに座ってみてくれよ。一緒に第一バイオリンを弾いてみてくれ。」

麟太郎に言われて、鈴木友道くんは、第一バイオリンのグループにはいって、バイオリニストたちと一緒にバイオリンを弾き始めるのであった。曲は、ハイドンの交響曲50番である。鈴木友道くんは初見でも才能があるようで、すぐに楽譜を読むことができて、バイオリンを弾き始めた。でも合奏にはなかなか慣れていなかったようで、ちょっとテンポが速くなったりしてしまったこともあった。

「あーあ、やりにくいなあ。こんな若い人とやるなんて、あたし全然予想もしていなかった。」

先程の女性バイオリニストは、そんな不満を漏らしている。

「まあしょうがないじゃないの。彼だって一生懸命してるんだから、そこを悪く言っては行けないよ。」

年を取ったビオリストがそう言って養護してくれたが、友道くんは、ごめんなさいと言ってしまった。

「ごめんなさいなんて言わなくて良いんだよ。それよりも、できるように努力してくれればそれで良いからね。」

「すみません。」

親切なビオリストがそう言ってくれるのであるが、友道くんは、確かに、音色は美しいのであるが、ちょっとテンポがずれたり音が外れたり。間違うことにすごい敏感で、すぐ萎縮してしまうのである。

「まあ大丈夫だ。いつかは、必ず、弾けるようになる日が来るさ。きっと君も、そのうち慣れてくると思うよ。だから気にしないで、思いっきりバイオリンを弾けば良い。」

練習時間も終了時刻になり、みんな楽器をそれぞれのケースにしまって、帰り支度を始めた。ビオリストのおじいさんがそう言ってくれて、他の楽器の奏者たちも、はじめはそうだったとか、また来てねとか、にこやかに言ってくれたのであるが、高飛車な女性バイオリニストだけは、そうではなかった。

「ねえ先生。私、グロッソモーグルをやるときには、解任していただけません?」

バイオリニストの女性は、そう広上さんに言った。

「何を言ってるんだ。ただでさえ、演奏者の人数が足りなすぎるくらいだというのに、君が出なかったら、困るでしょ。」

麟太郎は、驚いてそう言ってしまうが、

「だって、この人すごい緊張しているんだもの。私、隣でやりにくかったわよ。確かに、音程は正確だし、リズム感もいいわ。だけど、緊張しすぎて、間違えるのはだめよね。やっぱり、あたしたちは、いくらアマチュアとはいえ、一応音楽を作っている身なんだから、そうやって、みんなの輪を乱す人は、やっぱりいては行けないとおもうわけ。それに、演奏を矯正するのって本当に時間のかかることでもあるし。あたしたちは、待ってなんかいられないじゃないの。この楽団のメンツを保つために、やはり私達だけでやったほうが良いと思うのよね。」

と、女性のバイオリニストは、演説するように言った。

「でも一人メンバーが増えてくれることは良いじゃないか。」

麟太郎はそう言うが、

「いいえ、音楽を作るということは、調和が何よりも大事だって、おっしゃってくれたのは、広上先生では無いですか。それを忘れられては困ります。」

と、バイオリニストは言った。

「すみません。僕もう帰ります。広上先生。僕、なんだかここにいては行けないような気がするんです。バイオリンの先生の方の発言はまさしくそのとおりだと思います。」

友道くんは、そう言って、急いでバイオリンを持って、リハーサル室を出ていった。麟太郎はおい、待て!と言ったのであるが、友道くんは、後ろを振り返ることもなく、市民文化センターを出ていってしまった。

文化センターを出て、しばらく道路を歩いていると、

「よう!練習はどうだったの?」

と声をかけられた。振り向くとそこにいたのは杉ちゃんである。

「なんかお前さんのことが心配でさ。追っかけてきちゃった。その顔だと、やっぱり、難しかったようだね。まあね、お前さんみたいな人にはそう感じちゃうかもしれないね。いわゆる発達障害とか、そういうもんだろうか。それだったら、治す方法も確立されてないし、非常に難しいところがあるよねえ。」

杉ちゃんの発言に友道くんはハイと言って、涙をこぼした。

「まあ、今のお前さんにしてみれば泣くしか無いわな。もし、それが、終わってからでいいから、水穂さんも待っているんだ。一緒にピアソラのアヴェ・マリアを弾こうぜ。」

杉ちゃんはそういったのであるが、待っててくれるのも申し訳ない気がした鈴木友道くんは、

「すみません。すぐ行きます。タクシー手配してください。」

と、言ったのであった。杉ちゃんが呼び出した障害者用のタクシーで、二人は製鉄所に行った。別に鉄を作るところではなくて、居場所のない人たちが、勉強や仕事をするための、部屋を貸し出している福祉施設である。杉ちゃんが、製鉄所の引き戸をガラッとあけると、水穂さんが、待っていてくれた。二人は、何も言わないで、友道くんを四畳半に連れて行った。四畳半なんて大変狭い部屋だけど、どうにかグランドピアノを押し込んであった。水穂さんはそこに座り、静かにピアソラのアヴェ・マリアを弾き始めた。友道くんもバイオリンを取り出して、途中からピアソラのアヴェ・マリアを弾き始めた。今回は二人の息はぴったりだ。先程の麟太郎のオーケストラといっしょにやったときと違って、しっかり演奏になっている。それはある意味、水穂さんが、友道くんに合わせてくれているという種明かしをしてしまうことにもなるが、でも、それは本人の前では言ってはいけないことのように見えた。

「なかなかいい演奏だったよ。音が綺麗だから、きっとそのうち、きれいな演奏になることもできると思うよ。」

杉ちゃんがそう言うが、彼にはそれをしてくれる協力者がいないことは明らかであった。そういう人がいてくれないと、音楽と言うものは難しいものになってしまうのであった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ピアソラのアヴェ・マリア 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画