最高の一枚
アスナロウ
1.
その写真が出てきたのは、僕が部屋の整理をしている時だった。大学に合格し下宿先のアパートに引越しするさい、ついでに自分の部屋のいらない物を処分しようと部屋の中を片付けていた時に見つけたのだ。
「何やってんの、終わらへんでしょ」
手伝いをしていた妹が、そう言って上から覗き込む。チャチなアルバムに丁寧に収められた、何の変哲もない風景写真。それを見て彼女は、「おばあちゃんの家の海岸?」と尋ねる。適当にうなずきながらページを繰っていくと、一枚だけ人物写真が混ざっていた。海と空とを背景にした女の子の写真。
「誰、誰? 彼女?」
うれしそうに聞く妹を無視して、そのアルバムを引越し先に持っていく荷物の中に収めた。なおも食い下がる彼女をあしらいながら、部屋の整理の続きに取りかかる。
この写真を撮ったのは三年程前、高校一年の夏休みだった。祖母が入院し、もう長くないかもしれないと言うことだったので、顔を見せに田舎に帰った時のことだ。小さい頃は、夏休みや冬休みのたびに遊びに行っていたのだが、いつの間にか疎遠になっていたために、田舎に帰るのは久しぶりのことだった。もっとも祖母は今でも健在で、その時の騒ぎが嘘のように元気である。
その頃僕は写真部に入っていて、夏休みの課題として、何枚かの写真を提出しなければならなかった。知り合いに頼まれて入っただけで写真に興味があったわけではないが、課題を提出しないといったことはできない性格だったので、ついでに田舎の風景でも撮っておこうと考えていた。その時に出会った女の子の写真なのだ。
本当は全ての写真にその女の子が写っているはずだった。なのに、実際に写っているのはたった一枚だけ……いまだに、何でそうなってしまったのかは分からない。ただその一枚は、僕にとっての最高の一枚なのだ。
駅前で受け取ったチラシとペットボトルを、妹がまとめてゴミ箱に捨てる。分別しろよと声をかけ、僕は形ばかりの改札を抜ける。
大阪の家から四時間半かかる田舎の駅。久しぶりとはいっても、変化などないに等しく、駅の前に大きなマンションが一棟、田んぼの中で不恰好に建っているのが唯一の変化だった。しかし、小学生の頃とは視点の高さが違うため、あやふやな記憶と相まって、初めて見るような新鮮な眺めだ。
蝉の声をステレオで聞きながら、祖母の家に向かう。重量感のある青空。明るすぎる太陽。その光を白く反射させる真緑の稲。その脇で暗く流れる用水路。周り全部がアスファルトに覆われていないせいか、都会のように四方から押し付けてくるような暑さはない。時折そよぐ風は爽やかだった。
自転車ですれ違う真っ黒な男の子達の歓声を聞きながら、暑さに文句をつけている妹のぶつぶつ言う声さえなければ、と思う。
歩いて十分ほどで祖母の家に着く。そこはしんと静まりかえっていた。玄関を開け挨拶をするのだが、誰も出てこない。勝手に上がろうかどうか迷っているところに、ようやく祖父が出てくる。七分丈のズボンにランニングのシャツという姿で現れた祖父は、思っていた以上に年をとっていた。動きはスローになり、話し方も言いたいことがスッと出てこないといった感じだった。
「……おう、おう、よく来た」
その言葉に促され、玄関を上がる。家の北側にあるため、外を歩いてきた身にとっては気温以上に涼しい。今のところ家には祖父しか居ないのだろう、中は静まりかえっていた。人のいない広い家は、どこか冷たい。その上久しぶりということで話の取っ掛かりがなく、どことなく気まずさも漂う。その妙な雰囲気を妹の声が破った。
「おじいちゃん、お風呂入れる?」
祖父は、伯母と母と二人の従姉妹の名前を経由して妹の名前にたどり着く。
「一美、風呂入るのか? まだ沸かしてないから、シャワーしか使えんよ」
「あ、シャワー付けたんや。使う、使う。汗、すごいもん。とりあえずさっぱりしたい」
妹はそう言うと、荷物を持ったまま風呂場に向かう。
小さい時にいつも泊まっていた部屋に荷物を置く。そこも変わりはなかった。床の間の掛け軸も、ガラスケースの中の人形も、止まったままの時計も、小さいころの記憶と同じだった。時間の流れからほんの少し取り残されたような雰囲気。なぜか落ち着かない気分になる。田舎に遊びに来たその日の浮ついた気分。
『何はしゃいでんだか』
そう思うのだが、楽しいと嬉しいがごっちゃになったような気持ちはおさまらない。
とりあえず、線香をあげるために仏間に入る。ここに来たらまずそれをしないとおこられるのだ。だから、小さい頃から理由もわからずそうしてきた。
お盆なので仏壇は広げられ、お菓子や果物が並んでいた。胡瓜の馬の後ろにあったマッチ箱を取り、ロウソクに火をつける。線香に火をつけ手であおぐと、ふっと火が消え同時に白い煙とかすかな香りがたつ。線香を立て、御鈴を鳴らす。長く残るかすかな余韻を、目を閉じて手を合わせて聞く。
ペタペタと廊下を裸足で歩く音がする。線香をあげるよう妹に言おうと、廊下に顔を出す。Tシャツに短パンでタオルを首にかけた妹が、冷蔵庫の前で牛乳をラッパ飲みしていた。
「おい、行儀悪いぞ。ちゃんと、お線香あげとけよ」
妹は髪を拭きながら、「お兄ちゃんも、こう飲むやん」と文句を言う。口喧嘩になる前に、祖父の「スイカ切ったぞぉ」と言う声が聞こえる。先に線香をあげてこいと、もう一度妹に注意すると、スイカを食べに行く。
夏休みのおやつは、いつもこれだった。始めのころは喜んで食べるのだが、休みじゅうそれが続くと見るのも嫌になる。宿題の日記にそのことを書いたら先生に笑われた。今は、汗をかいた体に水分と涼しさを補給してくれる。縁側で汗をかきながらスイカをほおばり、庭に向かって種を吐き出しては叱られる。小さな頃に味わったスイカと同じだった。
近くの小学校から五時のチャイムが聞こえる。祖父は玄関先で迎え火を焚きはじめた。一緒になってしゃがみこみ、その火をみつめる。小さな火がかすかに音をたてながら燃え、煙がうっすらと立ち昇っている。
祖父は立ち上がり、「火事にするなよ」と言って家の中に入った。子供の頃から焚き火の類が好きで、小学校一年生の時迎え火を焚きすぎて、火を鉢植えの木に移してしまったことがあった。それ以来、火には近づけてもらえなくなった。
何か怒られることばかりを思い出しているので苦笑する。まだ匂いのかすかに残る煙を漂わせる灰に、バケツの水をふりかけてから家に入った。
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