第4話 弱者の一撃。

 朝7時、ほとんど満員電車に近い混み合いの車内。

 僕と神井は黒瀬さんの痴漢被害の対応によりわざわざ同じ電車に乗り込んだ。

 僕はすでに黒瀬さんが見える配置で立っていた。


 ターゲットが黒瀬さんに接触すると思われる駅に着き、僕と神井は警戒態勢を強めていた。

 人に紛れる事がいくらでもできるこの環境。

 ターゲットの顔を押さえるだけでも一苦労ではある。


 黒瀬さんはこれまでに何度か時間帯を変えて電車を利用していたりしていたわけだが、今回はその何回目かの変更の後である。

 ターゲットが現在はこの時間帯に乗り込んで痴漢を再開したのは昨日から。

 よって昨日の流れから今日も同じように黒瀬さんを見つけて行為を行うだろうことは予測できる。


 だから僕らはそこを押さえる。

 黒瀬さんにはスマホで痴漢された時はスタンプでも文字でもなんでもいいから送るように指示をしてある。


 個人的にはスマホで自撮りしてターゲットの顔を撮れるくらいたくましかったら有難かったが、黒瀬さんの精神的に難しいだろう。


「……!」


 黒瀬さんの背中に立つ男。

 くたびれたスーツにシワの残るシャツ。

 黒瀬さんの身長が150ちょっとであることから逆算してターゲットの男の身長は165くらいか。


 男が黒瀬さんに張り付いて1分ほどしてはスマホが静かに震えた。

 僕と神井と黒瀬さんのグループチャットに黒瀬さんからの連絡により、僕と神井に痴漢された事が伝わった。


 僕は少しずつ男に近付き、最寄りの駅に着いて人の入れ替わりのタイミングで男の隣に立った。

 斜め後ろから見える黒瀬さんの顔は恐怖に脅えながらもただひたすらに耐えていた。

 車掌の車内アナウンスが始まり、僕は男の耳元近くで静かに声を出した。


「……気弱な女の子に興奮するか?……」

「ッ?!」


 男はこちらを見ようとはしない。

 油断している最中さなかで唐突に的確に声を掛けられたと冷や汗を流し出した。


 それでも車内アナウンスは無機質にひたすら車内を満たす。


「……支配出来ていると錯覚できてさぞ気持ちがいいだろうな……」

「…………」


 痴漢する奴は常習的に犯行を行う。

 だから今回上手く対処したとしても、魔が差したらまた同じ事をする可能性がある。


「……抑圧された社会の中で、密かな背徳感に酔いしれるのはどんな気持ちだ?……」


 人混みに紛れられる秘匿性、匿名性。

 これらは人の理性を緩めるか、或いは破壊する。

 だから人は平気で罪を犯せる。


「……社会に虐げられてきた自分が、か弱い女の子を使って自分を慰めることができて嬉しいか?……」


 名も知らぬ女の子を支配できている気がして興奮したのだろう。

 世の中上には上がいて、下にも下がいる。


 支配下に置くことで自分の存在の優位性を得られたような気になって、そうして自分の自尊心を保とうとこんな事に依存しているのだろう。


 獣よりもタチが悪い。


「……満たされないまままさぐって、現実逃避して、楽しかっただろう……」


 自分の都合のいい世界を求めて伸ばしたその手はこんなにも穢れている。

 これが人の言う「大人になる」ということならば、大人はみんな死ねばいいと思う。


 きっと多くの大人は真っ当に生きているかもしれない。

 だけど、少しずつ衰退していくこの国を漠然と見てきた僕らにはあまりにも酷な世界で、どうしようもない現実。


「……自分の弱さから逃げてきたお前が、僕はゆるせない……」


 男は目を見開いて、小さく肩を震わせた。

 何者かであろうとした男の末路が、こんな情けない姿だなんて嫌だった。

 数ある可能性の中で、どうしてそうなったのか。


「……さて、犯罪者、選べ……」

「…………」


 僕らの高校の最寄り駅に到着した。

 僕は男を逃がしはしない。


「……社会的に死ぬか、自分の罪の責任を取るか……」

「ッ!!」


 動揺していた男の手を、自身の身体からだをまさぐっていたその手を黒瀬さんはしっかりと掴んだ。

 唇を震わせ、目には涙を浮かべて、それでも彼女は手を伸ばした。


 ガックリと肩を落とした男は小さく頷いた。




 駅員室で項垂れた後頭部を晒した男は泣いていた。

 みっともなく泣く男は実に情けなかった。

 泣いたって、誰も助けてくれない事はわかりきっているだろうに。


「黒瀬さん、どうしますか?」

「……」

「被害届けを出してもいい。被害者としての当然の権利だし、身元も押さえてる。黒瀬さんの好きにしていい」


 調べによると、男は中小企業のサラリーマンであり妻子持ち。

 この男を警察に突き出せば家庭は崩壊して地獄に落とす事もできるだろう。


 黒瀬さんにはこの男を地獄に突き落とすだけの権利はある。

 今まで耐えてきたのだから。


「……どうか、どうか……」


 男は頭を下げた。

 おおよそ垂直と言ってもいいくらいのその謝罪で、黒瀬さんが納得するのかは知らない。

 ただ何も言わず、唇を噛み締めるようにして眺める黒瀬さんからは未だ苦しみから解放されたようには見えなかった。


が高いんじゃないか?」


 男は黒瀬さんの横に来て、床にひざまずき額を床に擦り付けた。


 僕ら男は弱い。圧倒的に弱い。

 簡単に社会的に死ねる。

 男が置かれている今の状況は、それだけこの事なのだ。

 下げる頭があるだけまだマシですらある。


「……」


 そしてふと何を思ったのか、黒瀬さんは男の頭をローファーで踏み付けた。


「ふふっ……」


 かかとで踏みにじるようにして踏み、黒瀬さんは邪悪な笑みを浮かべた。


「ふふっ。ふふふっ」


 あ、あれ……?

 なんか、なんかヤバくない?

 黒瀬さんが楽しそうに男を踏んでいるという背徳的な絵になってしまっている……


「顔を上げなさい」

「は、はい……」


 脅える男を前に黒瀬さんの口調もどこかそれっぽくなっていて、なんだか僕まで怖いと感じてしまった。


「……私はこんな男に脅えていたんですね……ふふっ」

「く、黒瀬ちゃん……?」

「今私の下着しましたよね?」

「す、すみませぇん!!」


 男は再び踏みつけられた。

 ……今度のはわりと理不尽な気がするのはきっと僕だけではないはずだ。


「ブタがどうして人の言葉を使っているの?」

「す、すみまガハッ!」

「ブタはすみませんって言わないんですよ」

「ぶ……ブヒッ!!」

「そう。それでいいんです」


 そうして黒瀬さんは優しく微笑んだ。

 ……いやいやめっさ怖いんですけど……


「本当はブタ箱にぶち込んでこそブタだとは思いますけど、あなたがブタであるとわきまえて生きるのでしたら赦してあげてもいいです」


 なんだろう、初対面の時はこんなに饒舌じょうせつに喋るイメージなんてなかったんだけど、調子に乗るとこうなるのか、黒瀬さん……

 まあ楽しそうではあるけれど。


「あ、ありがとうござグハッ?!」

「わかっていないようですね、このブタは」

「ブビィィィィィ!!」


 そうして男は赦された。

 悲しくも踏まれて喜ぶその男を見ていて僕は虚しさすら感じた。

 哀れだ。男が社会性を守る為に、漢としてのプライドを捨てたのである。


「ブヒッ」



 ☆☆☆



 その日の放課後。


「なんか、今日は疲れましたね」

「今日というか、朝だな。うん。疲れた」


 痴漢騒動の後は普通に通学して授業を終えて放課後の今、朝の疲れを引きずってしまっている。

 なんていうか、なんでそうなったのか未だに理解は追いついていない。だった意味わからんし。


「せんぱいが悪いんですよ? 『頭が高いんじゃないか?』なんて言うから黒瀬さんの何がおかしくなったんですよ」

「いやいや、謝罪として最も効果的だしそっちの方が効率がいいだろう。あれでもダメならそれこそブタ箱行きだ」


 しかし考えてみれば、社会人の大人が女子高生に土下座という中々普段見ない光景、どころか異質なシチュエーションで黒瀬さんも頭のネジが一時的にぶっ飛んだだけだろう。

 ……そうであってくれ。


「今日は部活、もう終わりにし……」


 僕がそう言って帰るようにうながそうとした時、部室のドアがノックされた。

 ここでまた相談を受けるのは気が滅入るなぁなんて思ったが、入ってきたのは黒瀬さんだった。


「今日は本当にありがとうございました」

「いえ、わたしとからなんもしてませんし、せんぱいが色々やらか……やってくれたからですよ」


 あの、神井さん? 今やらかしたって言いかけましたよね?

 いやまあ確かにそうかもだが、べつにヤバい事なんてやらかしてないはずだ。


「あ、あの……お願いがあるんですけど」

「ん? なんですか?」

「私も、この部活に入部したいんです」

「いいの?! わたしは全然嬉しいよ!」


 いや、いやいやいや……

 ヤバいだろこいつ。


 しかし僕の心の声など聞こえるはずもなく、黒瀬さん、というか隠れ女王様はお悩み相談部に入部が決まってしまった。







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