第3話 将ちゃんの報復
針山がビルの入り口からそっと顔を出して上を見上げると、将ちゃんがドヤ顔で笑っていた。また
ビルは何階建てか見ていなかったが五階以上はあった気がする。当然ながら浜瀬は死んだ。
針山は怒りと何かの感情がぐちゃぐちゃに混ざり合ってわけが分からなくなった。混乱している。発狂したと言ってもいい。
針山は階段を駆け上がった。途中転んで脛を打ったりもしたが、お構いなしにとにかく上へ上がった。
屋上に辿り着くと、将ちゃんはまた隣のビルにいた。
橋はまだかかったままだ。針山は梯子に飛びかかり、橋を回収できないようにしがみついた。
将ちゃんはまるで最初から梯子を回収する気がないかのように、梯子から離れた位置で何か作業をしている。
「は?」
将ちゃんは紙飛行機を折っていた。
針山の見立てでは、将ちゃんは中学生か高校生くらいの年齢だ。この状況で紙飛行機を折るなんて知恵遅れか何かではないかと思っていると、そうではないことを知る。
将ちゃんはとんでもない狂気の持ち主だった。
紙飛行機にライターで火をつけた。
「そらっ、飛べっ」
将ちゃんは火の点いた紙飛行機を飛ばした。
針山は紙飛行機を取ろうと跳ねたが、床がヌルヌルで思うように跳べないし、跳んでも届かない高さで頭上を通りすぎる。
紙飛行機は針山からだいぶ離れた所に着陸しようとしている。
しかし床は一面にガソリンが撒かれており、紙飛行機が着陸したときには屋上が一面火の海と化し、自分は炎に包まれることになる。
針山は跳んだ。
紙飛行機が着陸する直前に、梯子の上へと飛び移った。
その瞬間、想定されたとおりにビルの屋上が火の海と化した。
「ねぇ」
カシャッと音がした。将ちゃんの足が梯子の端にかけられている。
将ちゃんが少し蹴れば、針山は梯子とともに真っ逆さまに落下するだろう。一気に蒼白する。針山の心臓が跳ねて破裂しそうになる。
「ご、ごめんなさい。許して……」
針山はぎこちない笑顔を将ちゃんに向けた。
腕と脚が震えている。早く対岸に渡らなければ、将ちゃんが落とさずともバランスを崩して落ちてしまいかねない。
「じゃあさ、そこで三回まわってワンって言ってよ」
針山は絶句した。恥がどうのという問題ではない。前に進むことすら恐ろしいこの状況で、回れと言う。
「早く!」
「わっ、分かったから……」
針山は四つん這いのまま、慎重に、慎重に回った。
腕一本動かすときはもう一方の腕と両脚を動かさない。脚一本を動かすときはもう一方の脚と両腕を動かさない。
その慎重さでどうにか三回まわり、そして震えた声でワンと言った。
「言ったわ。ね? だから、その足を梯子からどけてくれないかな?」
「まだだよ」
将ちゃんは口を尖らせた。
針山は泣いていた。恐怖か絶望か、涙の種類が分からない。
「どうすれば、いいの?」
「その場で裸になってよ。そして服を全部投げ捨てるんだ」
「それは無理!」
屋外で女に裸になれなどと、そんな命令を微塵の遠慮もなく言い放つとしたら、それはもう比類なき鬼畜な人間である。
そう考えるよりもいまの針山には女としての恥すら意識する余裕がない状況にある。
針山はジーパンを履いていた。風もあり、バランスの悪い梯子の上にあって、それを脱ぐというのは初心者が命綱なしで綱渡りするのも同然だ。
「ねえ、お願い、助けて! そっちに渡ったら何でもするから!」
将ちゃんの足はまだ梯子にかけられたまま。
「ねえ……お願いよ……」
針山は懇願した。大人が幼子ばりに大泣きしながら頼み込んだ。
「本当に何でもするの?」
「本当よ。誓うわ!」
将ちゃんはしばらく沈黙した後、ようやく結論を出した。
「分かったよ」
将ちゃんは梯子から離れ、屋上から降りる階段へと向かう。
針山はただひたすら対岸を目指して梯子の上を這いずった。
針山があと少しで対岸に到達するというところで将ちゃんがポケットから何かを取り出した。
ライターだった。
針山は嫌な予感が脳裏をよぎり、
「何でもするんでしょ?
将ちゃんがライターを落とす。
将ちゃんの足元から針山の眼前まで炎が広がった。
炎の海の向こう側で将ちゃんが手を振る。
「僕は見ないけど、ちゃんと踊ってよね」
将ちゃんは階段を下りていった。
ここまでくると、もう針山の眼は涙すら流そうとしなかった。
「ああ、神様。あんな奴が生きていてもいいのですか? 神様……いいえ、悪魔でもいい。何でもいいわ。あいつに制裁を加えてよ。あいつを殺して。お願いだから……」
針山は早々に飛び降りる決意をした。
しかしその決意が折れるのも早かった。いざ下を見ると恐くなった。地面が近づく光景に耐えられそうにない。
眼を閉じていても想像してしまう。体に受ける風が想像を鮮明にしてしまう。
恐くて飛び降りることができなかった。
針山は火の海を渡りきる覚悟を決めた。
火の海へと、少しずつ近づく。少し、また少し。
しかし、梯子の上にいるうちから、その熱さのために体をうねらせなければならなかった。
火の海を走り抜けようにも、まずは床に足をつけなければならない。そこまで行くのが難しい。いまはバランスの悪い梯子の上にいるのだ。
「ええい、くそっ!」
針山は決心した。どんなに熱くても前に進むと。
そうしてようやくビルの屋上に両足で立つまでに至った。
もちろん、彼女はいま大きな炎に包まれている。梯子からの脱出には時間がかかり、すでにだいぶ
火の海の対岸へと走り抜く気力も体力もない。もはや方向など分からない。
結局、針山は火達磨になった後、生の苦痛から解放されるために自ら飛び降り、落下して死んだのだった。
将ちゃんは浜瀬と針山の死体の横を、その二人に見向きもせずに通りすぎていった。
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