#7

 かつてシャドウタウンが都市機能を有していた頃、霧島は両親と弟とともに暮らしていた。決して裕福な家庭ではなかったが幸せだったと思う。いや、当時はその当たり前を幸せとは感じていなかった。退屈だったと言ってもいい。


 だが戦争が始まると状況は一変した。父は出先でスパイと疑われて殺され、母と弟は空襲で焼け死んだ。運悪く生き残った霧島は、シャドウタウンでたった一人生きてきた。無力さを嘆き、孤独を抱え、怒りを抱きしめ、悲しみを殺して生きてきた。


 だからこそ心の底から助けたいと思っていた。ハナも、カイも。死んだ家族も、罪もない人々も。


 社会へ大きな影響を与えなくとも、人は生きている。たとえ慎ましくとも、見えないところで確かに生きている。それを理不尽に踏みつけるような行いは断じて許せない。これ以上、同じような思いをする人間を出してはならない。


「三田村がカイの父親だって話はあいつに伝えたのか」


 グエンの問いに霧島は首を横に振った。


 病院を去る際にハナから告げられたのはこのことだった。あの辺りの高級娼館には都市部の人間もやってくる。三田村はハナのもとに通い、そして身ごもった彼女を捨てたということだ。


「これ以上あの子に重荷を背負わせるわけにはいかんさ。あまりにも酷すぎる」


 カイに彼の父を伝えようかとも思った。己の無力さゆえにハナを助けられなかったことを詫びようかとも考えた。だがそれらは霧島が楽になるための方便だ。霧島はこれまでに多くの嘘を重ねて生きてきたが、死んだ弟によく似た少年にだけは正直でいたかった。


「こんな話がある」


 いきなり口を開いたグエンに目を向けると、いつもの人を食ったような表情はない。


「一人の馬鹿な国家公務員の話だ」

「藪から棒になんだ」

「黙って聞けよ。戦争が始まるか始まらないかくらいのときだ。まだ若かったそいつは、ネオンシティのあの庁舎で総務課の一員として働いていた」


 どこか遠くへ思いをはせるグエンを見て、霧島は思い至った。他人事のように話してはいるが、これはおそらくグエン自身の話だ。


「ただの課員ではなさそうだな」

「理解が早くて助かるよ。一言で言ってしまえば、国の情報部の人間だった。ネオンシティの内情を探るために派遣されていたんだ」


 この国は十数個の自治都市から構成される。各都市は高度な自治が認められており、それゆえ国としてのまとまりを維持する必要があった。そのために国の人間が極秘で各都市に紛れこみ、逐一報告を行っているのだという。


「最初は言われた通りに任務を遂行していたさ。表向きは総務課として市民のために働きつつ、裏では情報を流し続けた」


 グエンはコーヒーを口に含む。ぺろりと唇をなめた彼の目は暗い。


「そうこうしているうちに戦争が始まった。俺たちは理由の説明もなく撤退するように指示された」

「引き上げたのか」


 グエンは苦しげに眉を寄せて首を振る。


「俺は上司に食い下がって理由を聞き出した。そしたら奴は表情一つ変えずに『空襲を受けるからだ』と抜かしやがった」


 国内で空襲を受けたのは旧ネオンシティが初めてのはずだ。霧島の困惑を見て取ったのかと思ったが、グエンは霧島のことを見てはいなかった。


「敵国の情報を得ていたにもかかわらず、国はここを見殺しにしたってことだ。いや、利用したと言った方がいい」


 あまりにも衝撃的なグエンの言葉に霧島は声を失った。グエンは自嘲的な笑みを浮かべて言った。


「俺がこの都市に不穏分子があると伝えたからだ」


 グエンは上の指示通り、任務を遂行していた。国の政策に反抗的な勢力が表面化する前に、芽が出るまでに摘み取るのが彼の仕事だったからだ。


 グエンは椅子から立ち上がると拳で壁を殴りつける。


「何も考えずに、ネオンシティを破壊したってことだ」


 グエンが何度も殴るうちに、壁には赤黒い染みができていく。グエンは血のにじんだ拳を見ながら吐き捨てた。


「人の生き死にを決めるのが権力なんて、狂ってやがる。ここで暮らす人間を駒としか見ていない李も三田村もクズだ。でもそれ以上にクズなやつがいる」


 グエンは底知れないほど暗い笑みを浮かべる。


「俺だよ。俺が元いた国はとうの昔に消えた。ほとんど記憶にもない。この国で過ごした時間の方がはるかに長い。それでも結局俺は弾き者だ。世話になった国を裏切った余所者の俺は、見つかればおそらく即射殺される。どこへも行けない俺はここでクソな世界をただ眺めることしかできないクズだ」


 グエンは自分の仕事をしただけだ。霧島はそう伝えようとしたが、口を開くことはできなかった。グエンが情報を伝えなければ家族は死なずに済んだのかもしれない。口を開けば最後、自分の理解とは裏腹にグエンを罵倒してしまいそうだった。


 深い後悔と自責を吐露したグエンは、どこか清々しくもあった。


「霧島、恨むなら俺を恨め。国を恨め。おまえが家族で一人だけ生き残ったことも、カイやその母親を救えなかったことも、全部おまえのせいじゃない」


 立ち尽くす霧島のカップをグエンが奪い取った瞬間、短い電子音が連続して鳴った。初めて耳にするその音に困惑してグエンの方を見ると、彼は険しい表情で手元の小さなモニターを凝視していた。


「噂をすれば、だ」


 霧島が後ろから覗きこむと、カイが一人で路地に立っているのが見えた。


「おまえ、ひょっとしてこの場所を教えたのか」


 グエンは霧島を振り返り、押し殺した声で尋ねた。グエンはうなずいた霧島の胸倉を掴み、勢いよく立ち上がった。


「自分の置かれた状況をわかって言ってんのか」


 グエンは低い声で問い詰め霧島を揺らそうとしたが、体格の良い霧島はびくともしない。


「子供には寄る辺が必要だ」

「あれは子供じゃない。シャドウだ。他人を簡単に信用するな。売られるぞ」


 さすがに聞き捨てならない言葉に頭に血が上った。霧島はグエンの腕を振り払う。よろけて舌打ちしたグエンはモニターを操作すると部屋から出て行った。


 取りつく島もない態度にいら立ちを感じながら、グエンの出て行った扉を見つめる。ため息をついてディスプレイの前の椅子に座りこむと、扉がノックされた。家主のグエンはノックをしない。不審に思ってノブを回そうとした瞬間のことだった。


「開けるな!」


 鋭いグエンの声がした後、呻き声とともにどさりと何かが倒れるような音が聞こえた。霧島は迷うことなく扉を開ける。


 グエン、と名を呼ぶ間もなくそれが倒れこんでくる。胸からはおびただしい量の血が噴き出している。霧島は膝をつき、腕でグエンを支えゆっくりと床に横たえる。むせ返るような血の臭いに顔を上げると、血まみれのナイフを両手で握りしめたカイが立っていた。


 なぜ、カイが。


 膝を震わせながら血走った目で立つ姿を見て、自分が初めて人を殺したときのことを思い出した。身じろぎするグエンの胸を右手で強く押さえながら、霧島は左手でカイを制す。


「ナイフを置け。馬鹿な真似はやめろ。まだ間に合う」

「おまえが母ちゃんを殺したんだろう」


 霧島は舌打ちした。真実を告げなかったことで、カイは嘘を真実と思いこんだらしい。あるいは、誰かに何か吹きこまれたか。


「母ちゃんを返せ!」


 怒りと憎悪をこめ、カイは雄叫びを上げて霧島に突進してきた。霧島はカイの腕を取り、凶器を遠くへ弾き飛ばす。飛んで行った刃物にカイが一瞬気を取られたところで関節をかため、腕をへし折る。その場に倒れたカイの足首を踏みつけると、固い靴の下から枝が折れるような嫌な音が聞こえた。


 カイには目もくれず、グエンに駆け寄ると周囲には鮮やかな血だまりが広がっていた。霧島は自分の服を引き裂きグエンの傷口を押さえようとしたが、血は一向に止まらない。


「殺され、かけたっていうのに、とどめを刺さ、ないんだな」


 呆れたように力なく笑うグエンに、霧島は唾を飛ばしてまくし立てた。


「いいからしゃべるな。大丈夫だ、必ず助ける」


 己の判断が間違っていたのだと気がついたがすでに遅い。ほぞを噛む思いでグエンに体重をかけているが、グエンの命は刻一刻と失われていく。雑な縫合程度なら霧島にもできるが、これは手に負える状態ではない。シャドウタウンの劣悪な病院ではなく、設備の整ったネオンシティの病院に連れていく必要がある。


 だが、外に出れば霧島は捕まるだろう。グエンもその場で射殺されてもおかしくない。何よりグエンはそこまで持たないだろう。


「必ず、なんて言葉……ここにも、あったんだな」


 グエンに言われて気がついた。今日明日を生きられるかの瀬戸際にあるシャドウタウンでは未来の約束はしない。ましてや「必ず」などという言葉ほど、信用できないものはない。


「おまえの弟に、殺されるなら、本望だ」

「おい、しっかりしろ! グエン!」


 目を閉じたグエンに呼びかけていると、階段を大勢の人間が下りてくる音がした。カイがこの場所の情報を誰かに売ったらしい。銃や防護盾を持った捜査員に取り囲まれ、霧島はグエンの体から手を離さずに歯を噛みしめた。


 床に這いつくばるカイを睨みつけると、彼は痛みに脂汗を流しながら霧島を恨みがましく見上げていた。


「おまえみたいな大人、父ちゃんが許すはずないからな」


 しばし睨みあいが続いていたが、それを打ち破ったのは場違いなほど高く軽い足音だった。


「危険です。こいつは凶悪犯です。あなたは下がっていてください」


 慌てたように制する男を軽く押しのけ、その女は快活なヒールの音を響かせた。


「危険ですって? これは千載一遇のチャンスよ」


 やがて防護盾の壁が割れ、女は臆することなく霧島たちに近づいてきた。彼女を呆然と見上げるカイを無視し、女は軽快に髪をかき上げる。


「あら、こんなところで思いもよらない拾い物ね。グエン君の顔を見るなんて」


 朦朧としているグエンをちらりと見て、ショートヘアの女――リーは事もなげに言い放った。


「副市長。あんたグエンを知っているのか」


 事態が把握できないなか、霧島はグエンの胸を押さえたまま李を見上げる。


「ええ、もちろん。裏切り者の顔を忘れるほど、わたしは馬鹿じゃないわ」


 報道で何度も見た顔がそこにあったが、ぞっとするような冷たさと鋭さは初めて見せるものだった。グレーのスーツに身を包んだ李は、スカートのままその場に屈みこむ。靴が血で汚れることもいとわず、霧島に顔を近づけて右手を差し出した。


「霧島誠司せいじ。私と取引しましょう」


 霧島の前には命のともしびが消えかけたグエンが横たわり、背後には銃を構えた人間が並んでいる。逃げ場も時間もない。霧島が唇を噛みしめると、鉄の味が口の中に広がった。自分の血か、グエンの血か。それとも、シャドウタウンが流してきた血か。


「脅しの間違いだろう」

「よくわかっているじゃない。ここで死ぬか。私と一緒に来るか」


 全てを蹂躙してきたネオンシティそのものである李の手を取ることは本能が拒否していた。だが霧島の取ることのできる手段は限られている。


「条件がある」


 霧島が血まみれの右手で李の手を握ると、彼女は口角を持ち上げた。

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