#4

 霧島の背に汗が伝う。気配から察するに相手は三人、いや四人。ナイフを隠し持った霧島が正面から戦って制圧できない数ではないが、助けを呼ばれたり厳戒態勢にされたりするのは避けたかった。元来た扉は鍵がかかっている。スライド式扉のため、開いた扉の影に身を隠すことはできない。


 やはり一瞬で制圧するしかなさそうだ。覚悟を決めた霧島は腰につけたホルダーからゆっくりとナイフを引き抜く。長く息を吐き出し腹に力を込め、ひと思いに扉を開く。


 少しもやがかった部屋の中で、職員は全身白い防護服をまとっている。予想していた通り、ドアのすぐそばには二人の人間が立っていた。驚愕の表情を浮かべた若い男に飛びかかりナイフで首をく。理解が及ばず血飛沫を浴びたもう一人も、霧島が頸動脈を引き裂くと床に倒れこんで痙攣した。その様子を見ていた残りの二人は慌てふためいて部屋から出ようとする。


「動くな」


 霧島は低い声で告げた。向けられたナイフ、そして床に広がっていく鮮やかな血だまりに、二人は動きを止める。


「おまえたちはここで何をしている」


 口を開くのに妙に労力が要った。どうやら何かを吸ったらしい。


 ガタガタと震えるばかりで何も言わない男の首をナイフで搔き切ると、白い壁に鮮血が飛び散った。通常であれば紙を切るように切れるはずだが、今回は違った。使い慣れたはずのナイフは手になじまず、自分の腕も死体のように重い。


 三人の職員を始末したところで、霧島はへたりこんだ中年の男の方を向いた。腕に薄い端末を抱え、胸には赤いバッジをつけている。他の三人には見られなかったことから、主任と呼ばれていた人物らしい。


 霧島は異変を悟られないよう、自然に膝をつこうとしたが、がくりと崩れ落ちるような形になった。膝を強く打ったはずだが、不思議と痛みは感じない。


 それを見た男はにやりと不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。


「私が作った薬の効き目は素晴らしいだろう」


 霧島の手からナイフがすべり落ち、男がそれに手を伸ばす。


 すぐに立ち上がって動かなければ。頭では理解していたが体は鉛のように重い。


『……しま』


 四肢に力が入らない。かすむ視界は暗闇に落ちていく。


『……りしま!』


 眠い。もう全てがどうでも良い。頼むから寝かせてくれよ。


『霧島! 寝るな、この馬鹿!』


 耳元からは怒声とともに、身の毛がよだつような高い音が聞こえてきた。


『おまえがくたばろうが心底どうでもいいけどな、金払えっつってんだよ!』


 吠えるようなグエンの声にはっと目を開くと、ナイフの刃先が胸の数センチ手前まで迫っていた。


 考える間もなく体が動く。男の腕をねじり掴んでナイフを叩き落とす。立ち上がりざまに顔面を蹴り飛ばすと、男は呻いて仰向けに倒れた。


「た、助けてくれ」


 先ほどまでの霧島を蔑むような表情は影を潜め、そこにあるのは恐怖と懇願の色だけだ。変わり身の早いことだ。


 霧島は何も言わずに男の首に腕を回す。左腕で首を固定したまま、右手で腫れあがった顎をつかむ。霧島が力をこめるとごきりと首の骨の折れる音がして、男の体から力が抜ける。


 事切れた男の体を床に放置し、霧島は荒い息を繰り返した。


 部屋は惨状というよりほかなかった。防護服を着た死体が四つ。うち三つは血で真っ赤に汚れている。倒れていたシャドウタウンの住人は三人。ぼろきれを身にまとった老人の口元に耳を当てると、規則的な呼吸音が聞こえてきた。どうやら薬で眠らされているだけらしい。とはいえ連れて行くわけにはいかないので、眠りから覚め次第自力で逃げてもらうしかない。途中で捕まってしまうのであれば、そこまでの命だったというだけのことだ。


『終わったか』

「いや、これからだろう」


 霧島は膝をついた。体のだるさはまだ残ってはいるものの、自分の意思でコントロールできる程度なので問題ない。


『おまえ、やっぱりシャドウなんだな』


 遠慮がちに告げたグエンの言葉に霧島は首を傾げた。


「何を言っている。最初からそうだろう」

『ためらいが無かった』


 グエンが口にしなかった主語は容易に想像がついた。


 主任と呼ばれていた男の防護服を脱がせながら、霧島は淡々と答える。死んだ男の目は開いたまま固まっていたが、少しも心は動かなかった。


「気分の良いものじゃない。そこまで落ちぶれてはいないさ。らなければ殺られる。それだけだ」

『いかれてやがる。まともな人間なら躊躇するもんだ』

「シャドウタウンにはまともな人間なんて一人もいない。そういうやつから消えていくからな」

『狂ってやがる』

「ああ。狂わずにはいられない、この社会そのものが狂っているんだ」


 グエンから返答があるまでには少し間があった。ため息をついたグエンは、何かを吹っ切るように決然と告げる。


『昼寝しているヒマはない』

「助かった。単身で乗りこんでいたら、今頃殺られていたのはこっちだっただろう。礼を言う」

『顔でも洗ってさっさと目を覚ますんだな』


 霧島が死んだ男の身をまさぐると、ポケットの中からクリアケースに入った社員証が見つかった。


『引きがいいらしいな』


 グエンはパチリと指を鳴らす。「三田村製薬 野木」と書かれたそれはグエンにも思い当たる節があったらしい。


『さっきの話の続きだが、貨幣を持ちこんでいたのは三田村製薬だった』


 グエンが得意げに報告するのを聞きながら、血まみれのコートを脱ぎ捨て防護服を上からかぶる。


「名前からして三田村の親戚か? 選挙で手を回してもらっていたなら、むしろ三田村が金を払いそうなものだが」


 上下ともに少し窮屈だが仕方ない。いずれこの部屋の異変は気づかれるだろうが、少しくらいの時間稼ぎにはなるはずだ。


『その時点で真っ黒だけどな。やっていることを見るに、事態はもっとひどそうだ』


 野木の服でナイフの血を拭き取り、ホルダーに差しこむ。いつでも利き手で引き抜けるように、野木が持っていた端末は左手で抱える。そっと部屋の外の様子をうかがうも、近くに誰かがいる気配はない。足音を立てないように気をつけながら部屋を後にした。


 向かって左にエレベーターがあったが、その隣の階段を使う方が賢明だろう。一つ下の階に降りると、防護服姿の職員や霧島の膝丈ほどのロボットが滑らかに動いていた。


 グエンの指示に従いながら、霧島はさも当然のように廊下を歩く。防護服の中は暑く、緊張も相まって汗だくだ。怪しまれないよう、しかし何一つ見逃さないように注意深く視線だけを動かす。視界に映りさえすれば、画像は録画されている。


 分析室と書かれた部屋には顕微鏡や用途不明の機械が所狭しと並び、職員がそれを操作していた。実験室Hと書かれた部屋には多数のベッドが並び、そこに寝かされた患者は多数のチューブで繋がれている。


 汗が背中に流れるのを感じていると、早足で近づいてきた小柄な人物に声をかけられた。


「野木主任。例の状態の悪い被験者ですが」


 顔を凝視されないよう早足で進む。女は手に持った端末を見ながらも横をついてくる。


「もうこれ以上は持ちそうにありませんね。あの薬の副作用が強く出ていると言えるでしょう。予想していた通り、良くも悪くも細胞の分裂を活発化させるため、病気を悪化させることにも繋がるようです」


 女の言葉に霧島は足を止める。多数の職員が霧島に会釈をしながら横を通り過ぎるが、誰一人怪訝な表情はしなかった。むしろ恐れているかのように慌てて散っていくのは、霧島にとっては都合が良い。平然と横を通り過ぎていくのは白いロボットだけだ。


「ああ、あの患者か。あいつがいるのはC研究室だったか」


 咳払いをして、天井を見上げながらしゃがれ声を作る。女は疑う素振りも見せずにあっさりと答えた。


「いえ、下の実験室Aです」

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