第1話 一瞬の日常
西暦2029(令和11)年9月13日 日本国東京都 内閣総理大臣官邸地下 内閣危機管理センター
3月の中旬、日本国とその周辺地域は突如として未知の異世界に転移した。文章に起こすと割と単純に記されるこの出来事は、想定外の苦難の始まりに過ぎない事を、第102代内閣総理大臣たる
「現在、国内の情勢は安定しておりますが、それでも予断を許さない状況にあります。特にインターネットが一時的に機能不全に陥ったのが大きいです」
先ず燃料たる石油に関しては、ミズホ王国の同盟国であるピルジア首長国連合より輸入が開始されるまで計画停電が行われ、原子力発電所のフル稼働によって不足分を補う事が行われた。食料のうち小麦やトウモロコシも、今は輸入の目途が立っているが、転移直後は2か月程パンが高級食材と化したのは記憶に新しい。
「しかし、東アジアで最も民主的な我が国が、独裁国家にも等しい手段を取らなければならないとは…民主政治の担い手である我々としては非常にしくじたる思いです」
「そう言わないで下さい、
天野総務大臣の呟きに対し、
そして国内では、言論やマスメディアを中心に筆舌に尽くしがたい混乱が治安悪化に拍車をかけていた。資源とエネルギーの適切な配分を名目とした『兵糧攻め』と『虚偽情報の流布による混乱の防止』を目的とした摘発は平時であれば下策であるが、1億2千万の国民の明日が個人ないし少数の愚行で失われる可能性を見過ごすわけにはいかなかった。
平時に政府に対して罵詈雑言の類を浴びせ続けるだけだった者達は、これまで自身の言動に責任を持たなかった報いと言わんばかりに吊るし上げられ、多くが獄中に放り込まれるに至った。今は適切な食料の配給により不満を抑えられているが、やはりミズホ王国を含む新たな『隣国』との貿易による経済の安定化が一番の特効薬となるだろう。
「ともあれ、今は日本国民に平和な暮らしを保証するための行動が必要です。その際の手段に対する批判は、10年後の未来にて甘んじて受け入れましょう」
森野は会議の参加者達に向け、そう言った。
・・・
9月16日 長崎県長崎市 長崎港
日本が未知の世界に迷い込んで6か月。大東洋諸国からの玄関口として開かれた港の一つである長崎に、ナーバ王国の貿易船が来港していた。埠頭を見渡せば、十数隻もの蒸気船が錨を降ろし、無数の段ボール箱や自分達が持ち込んできた木箱を用いて商品を積み込んでいた。
国交締結後、日本からの技術提供などで向こう側の国々には貨物コンテナを積み下ろしできる環境が整えられつつあるが、それはあくまでも日本から貨物船が来た場合のものである。向こうから商船が来た場合、貨物コンテナ発明以前の古臭いやり方で製品の輸出入を行う必要があった。
その船に乗せる予定の積荷に対して、長崎税関本関に属する税関職員が現物検査を行っている。職員はナーバ人の船乗りから渡された積荷目録を見ながら、念入りにチェックをしていた。
「主に陶器や織物などの工芸品、その他化粧品や書籍、軽工業品…目録と相違は見られませんね、ありがとうございました」
「ほなおおきに。ほれ、さっさと運び込んかい」
「へい、船長」
職員はそう言うと、積荷が封入されている木箱の蓋を閉じて、船乗り達に一礼する。税関の検査を受けたその木箱は、水夫達の手によって船の倉庫へと運ばれていった。その面々は多様であり、ゴブリンやオークが巨大な木箱を抱えて入っていく様子はまさにこの国が異世界にある事を痛感させてきた。
「それにしても陶器やら、織物やらの衣類が大人気ですねぇ…電気製品もそれなりに売れてはいますけど」
積み込まれていく木箱を見送りながら、職員はぽつりと呟く。すると彼の言葉を聞いていた、貨物船の船長を務めるナーバ王国の商人は、興奮した表情で口を開く。
「そら旦那、純粋に商品の質が良いからや。ローレシアで作られたモンもよう出来たモンばかりやけど、それでも良質な皿や衣服を安く、そして大量に仕入れる事が出来るんはこのニホンとタイワンだけさかい」
「成る程…」
異なる世界より召喚された人々の手によって蒸気機関が普及し、産業革命がある程度成されているとはいえ、生産力と生産物の品質はより国力のある列強国には遠く及ばない。しかもそういった国々は自国製品を高い関税で守りつつ、輸出品には法外な値段をかけて文明圏外諸国へ売り捌いているため、ミズホを含む多くの国々は良い生活を送る事が難しかった。
そのため、ある程度機械化された製法で量産され、その上比較的安価で手に入る日本と台湾の陶器類やガラス製品、衣料品は、とても魅力的な商品だった。日本の十八番である電機製品などは、電気が生活インフラに普及していない地域が多いのもあって売れ筋は微妙なのとは大違いである。理由は他にもあった。
「それに最近、サラニア王国が皇国に滅ぼされたせいで、今までの貿易路ではイストレシアの品物が手に入らなくなったさかい。せやから益々この国とタイワンとの貿易に精を出す商人が増えると思いまっせ」
「…サラニア王国?」
召喚者のもたらした影響だろう、関西弁ベースのナーバ訛りの説明から出てきた聞き慣れない国名を耳にして、職員は首を傾げる。
「おや、ご存知あらへんかったか。サラニアとはミズホよりさらに西、イストレシア大陸へ向かう航路の途中にある島国です」
ナーバ王国の商人は、新たな国についての説明を始める。サラニア諸島という島嶼地域を領土とするサラニア王国は、大東洋の貿易商人にとって、イストレシア大陸を支配する大国グラン・ローレシア皇国の生産品を手に入れる事が出来る重要な中継貿易港だった。
理由は単純だった。ローレシアと文明圏外諸国の間には、正規の国交・貿易関係が築かれておらず、大陸の物品を購入する為には、中継貿易という形で彼の国の商人から転売して貰うのが1番確実だったからだ。
「せやけどなぁ、彼の国は区分上、
ナーバ王国の商人は、うんざりした様子を見せながら、今までサラニア王国で行って来た商取引のことを回想する。彼らはサラニア人の貿易商人から、高慢な態度で『ヒト族の真似をするケモノ』『奴隷の末裔』と見下されながらも、先進国の産物を故郷へ持ち帰る為、その屈辱に長らく耐えてきたのである。今、日本へ来ている貿易商人は、そういった苦い思いをしてきた者達であった。
「ま、親分たるローレシアに対しても、そんな調子に乗った面見せてたんやろな。確か3か月ほど前に、彼の国は突如ローレシアの宣戦布告を受けましてね、たった1か月で首都を含む主立った都市の殆どが陥落した様で、彼の国の政府はわずかな王族と共にクロド王国に逃れることになりはったんです」
1か月足らずで完全に敗北し、国を追われたサラニア王国政府首脳の一部は東へと逃れて、今はミズホ王国の北西に位置するクロド王国の庇護下にある。皇国軍に捕縛された王族と高位の貴族は尽く処刑され、下級貴族を含む国民達は過酷な占領統治下に置かれているらしい。
「…ローレシアでは亜人族や召喚者は軒並み奴隷としてこき使われてましてな。我が国を含む大東洋の国々は、いずれ食指を伸ばして来るやも知れへんローレシアに備え、共同で軍の強化に当たっとります。万が一の時には、貴国の軍の力を借りたいものですね」
「…」
ナーバ王国の商人はそう言うと、長崎港に停泊していた護衛艦に視線をやる。彼に限らず、大東洋の文明圏外諸国に住まう人々は、日本が自分達の味方をしてくれることを大きく期待していた。
・・・
皇国暦129年9月16日 グラン・ローレシア皇国 皇都エストクエーテ
ミズホから更に西へ進んだ先に、歪な菱形の形状をした大きな大陸がある。その大陸イストレシアにはかつて数多の国があったが、今はその全てが一つの列強国グラン・ローレシアの領土となっている。そしてその支配は、周囲の大小様々な島々にまで及んでいた。
その首都である皇都イストクエーテには100万人の人口がうごめいており、この世界において5本の指に入る大都市である。その中心部には、この国を治める皇帝と皇族が住まうエストクエスタ宮殿があり、広大な領土や属領・属国を支配する権力の中枢となっている。
その皇都の中にある屋敷の一室で、一人の若い男性が一つの機械を前に報告を上げる。
「間もなく、皇国はミズホを含む大東洋の国々に対して戦争を仕掛けます。恐らくは政府が想定する以上の血が流れる事になりましょう…」
『それは想定の範囲内だ。それ故に、自衛隊としても無傷で勝ってしまっては困る。西の国々の様子はどうか?』
「こちらはすでに仕込みを終えております。いずれにしても、此度の戦争で世界はひっくり返るでしょう…果たしてうまく事が運ぶでしょうか?」
『運ぶさ。では、そろそろ通信を終えよう。我らに千年の栄光が在らん事を』
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