二十九日目
彼女は、約二年前の十一歳の時、突発性難聴と嗅覚障害を患った。
原因は極度のストレス、らしかった。
彼女の両親はどうやら相当厳しかったらしく、小学校に入学する前から、塾での勉強と読書を強制してきたのだそう。
そんな生活に嫌気が差して、ゆうかは小学五年生の時に、テストでわざとめちゃくちゃ低い点数を取り続けることにしたそうだ。自分はこれ以上出来ない子だと両親が思えば、教えることを諦めてくれるかもしれないと、ゆうかは考えたのだった。
だが、これが永峯家に最悪の結末を招いた。
我が子が出来損ないなのだと気づくと、ゆうかの母親はうつ病を発症し、父親も酒に溺れて母親に暴力を振るうようになった。
ゆうかはこの頃から耳があまり聞こえなくなっていたのだが、病院に行きたいなどと言い出せるわけもなく、父親の怒鳴る音が遠くで響く中、小さな地下室に隠れていたのだそう。ちなみに学校は休みっぱなしで、ご飯は災害時のための乾パンなどを食べていたそうだ。
一ヶ月ほど経った、ある日のこと。
突然、上から物音が全く聞こえなくなったらしい。
ゆうかは大喜びでハシゴを登って一階に出た。きっと父さんが怒るのをやめてくれたのだと、そう信じて、彼女は地下室のドアをこじ開けた。
眩しかったので、目が慣れるまで少し待ってから、おそるおそる歩き出した。
リビングには、父さんが床で寝ていた。
最初、ただ酔いつぶれて寝ているのだと思っていた。父親は酒をあまり飲まない人だったが、母親から酒が強い人だと聞いていたので、相当飲んだのだろうと子供ながらに思ったのだそう。
「ゆうか……?」
その時、母親の声がして、リビングの奥の方に目をやった。母親は、割れた焼酎の瓶を片手で握りしめながら、地面に力無く座っていた。
駆け寄ろうとして最初の一歩を踏み出すと、ぴちゃっ、という音がした。
足が濡れた感じがして、びっくりしながら後ずさりすると、ゆうかは自分の足が真っ赤に染っているのに気づいた。
「ゆうか、ごめんね?」
父親は、殺されたのだ。この女によって。
そのことに気づいたらもう、ゆうかは、目の前の人間が母親だとは到底思えなくなっていた。
「やだ、やめて」
彼女はそう言い残して、地下室に走って戻った。
リビングから出たあたりで後ろから、
「あああああああああああああ!」
と聞こえて、息が止まるかと思ったそうだ。聞いたことないような叫び声と、ドタドタした足音が、かき消されるぐらい自分の心臓の音がうるさかったという。
地下室に入って、彼女は急いでドアの鍵を閉めた。内側に鍵がついていることに、心底感謝したそうだ。
その次の日の朝、地下室のドアの方から微かに喋り声や物音が聞こえたが、当然怖くて開けられなかった。その日のうちに近所の人が異変に気づいて、ゆうかはそこで保護された。
近所の人によると、ものすごい異臭がして、何かと思ったら、母親が地下室の前で首を吊っていたのだそう。
ゆうかはそれを聞いて、涙を流しながら、内心、耳だけじゃなくて鼻もおかしいのかな、と思っていたそうだ。
「なんでだかわかんねーけど、オレ、母さんが死んだこと、うまく悲しめなかったんだよな」
俺らはカラオケボックスをとっくに出て、帰路に就いていた。一段と大きい夕焼けに、街が飲み込まれているかのように、全てがオレンジ色に光っていた。
「薄情だよな、オレって」
そう言うとゆうかは隣で涙を拭い始めた。
彼女は一通り話し終えるまで、感情を全く表に出していなかったので、ここにきてようやく、涙を浮かべたことになる。淡々と、無感情で話を続けていた様子が少し怖かったので、俺は寧ろほっとしていた。
「ごめんな、ヒロト」
彼女は初めて、俺のことを呼び捨てにした。
「無理にとは言わねぇけど、できれば、今まで通り接して欲しい」
俺は、無理だと思った。
逆に、こんな話を聞いて、今まで通りに接して欲しいと頼むことが、間違っているのでは無いのだろうか。
「じゃあ、明日」
俺が何も言えずにいると、彼女はそう言い捨てて、歩いてきた道を走って引き返してしまった。
遠ざかっていくその背中を、俺は見つめた。
なんだか、自分はとことん情けないなと思った。
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