三十日目

 突発性難聴は、早期発見・早期治療が大事なのだそう。

「普通だったら、子供が親に耳の異常を伝えて、その流れで病院に行くので、遅くても一、二週間で元の聴力を取り戻せる」

と、ネットには書いてあった。それに続けて、

「治療を始めるのが遅くなれば遅くなるほど治る確率も減っていき、発症から一ヶ月ほど放置してしまうと、もう聴力は元には戻らない」

とも書いてあった。

 ゆうかが地下室にこもっていたのも、約一ヶ月。

 つまり、彼女がご近所さんに助けられた時には、もう治すこと自体が不可能だったということになる。

 これを知った時、彼女はどんな心境だったのだろう。

 想像したくもなかった。

「…………はぁ」

 時計の針はちょうど、朝八時を指していた。

 重い腰を上げて、俺は玄関へと向かった。

 朝食のトーストは、一枚目を少しかじって、あとは残してしまった。




「おーはよっ! 桜!」

 重度ではないとは言え、彼女は障がい者だ。

「昨日さ、雷やばくなかった!?」

「やばかった!」

 なぜ彼女は、正常な人間のように生活できるのだろう。

 社会の一般的な人間にとって、彼女はなのだ。社会に出たらお荷物扱いされるだろうし、立場も悪くなる。そんなこと、ゆうかは重々承知なのだろう。

 今だけでも、正常な人間として生きてみたい、ということなのだろうか。

 障がい者なのに。

「びっくりしたもん。音もうるさかったし」

 これからも、彼女は自分の耳のことを隠し続けるのだろう。

 じゃあ、俺は?

 俺はどうすればいいのだろう。

 昨日のように、目も合わせずに、このまま気まずい関係でいることしか出来ないのだろうか。

「ひ、ヒロトくんは、昨日大丈夫だった?」

「……うん」

 いや、そんな関係で終わらせない。

 終わらせたくない。

「あのさ」

 俺は勢いよく振り返って、ゆうかの方を見た。

 そして、ゆうかと目が合って、そのまま、俺は止まってしまった。

 勇気を振り絞ったはずなのに、彼女の無邪気な表情の下には複雑な感情があるのだと考えると、なぜか何も言えなくなった。

 耳が悪いってこと桜は知ってるの?

 なんでみんなに言わないで、俺にだけ言ったの?

 ゆうかは何がしたいの?

 聞きたいことが次から次へと出てきたのに、どれも聞いちゃいけないような気がして、結果、何も喋れなくなった。

「どうしたの?」

「いや、やっぱなんでもない」

 怪訝そうにこちらを覗いていた桜を無視して、俺は前を向いた。

「なんだそれっ! 変なのー」

 ゆうかの陽気な声が頭の後ろから聞こえて、俺はいよいよ居心地悪くなって席を立った。そして、彼女たちと目を合わせないように、逃げるようにトイレへと向かった。

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