六日目

 いつも通り、ちょっと早めに家を出たが、運動公園には寄らなかった。

 七時四十分、学校到着。

 朝練にいそしむ陸上部やサッカー部と目が合わないように、こっそりと下駄箱を目指す。小走りになる程のはやる気持ちを抑えつつ、靴を履き替えて、早歩きで教室へと向かった。

 なんで自分があんなに急いでいたのか、理由はただ一つ。

 一秒でも早く、彼女と数学について話したかったのだ。

 完全数ことを調べていたとき、理解できなかった式や単語がたくさん出てきた。それらについて、彼女なら知っているだろうと思ったし、知らなかったとしても、それらがどういう意味だったのかを話し合ったりできるんじゃないか。

 彼女を疑うことは、一度もなかった。

 疑追うと思えばいつでも疑うことは出来たが、そのたびにあの寂しそうな顔がフラッシュバックして、最終的にいつも、疑うことが馬鹿らしくなった。そのうち、彼女は他の人間いきものどもとは違って、本物の人間なのだと、そう思い込むことにした。

 教室のある三階へと、一段とばしで駆け上がって、そのままの勢いで、教室の方へと走って曲がった。

 その時――

 ドンっ。

 曲がり角の先で、歩いていたメスの背中に勢いよくぶつかってしまった。そいつは膝をついて倒れて、俺は避けようと体をひねったが、結局そいつの足につまずいて転んだ。

「い、った! 痛えなあ、おい」

「あっすみません。ごめんなさい」

 ほとんど反射的に、両手を合わせて頭を下げた。相手は少しの間、四つん這いで固まっていた。

「おいてめぇ、どこ見て…………んだよ、おめぇかよ」

 そしてそいつは、こちらに首を向けて加害者の面を確認して、それから、何故かがっかりし始めた。ため息をついて、膝の汚れを払って立ち上がり、何事もなかったかのようにこちらを見下す。

「お前さ、サクラの前の席のやつだよな」

 何の話をしているか一瞬分からなくなり、二秒ほど経ってから首を縦に振った。サクラというのは、おそらく彼女の名前のことだろう。

「サクラはお前とは違うんだぞ。わかってんのか?」

 そう吐き捨てるように言い残すと、そいつはスタスタと歩き始めた。廊下の真ん中に取り残された俺は、そいつが俺と同じ教室に入っていくのを見送ってから、思い出したかのように立ち上がった。




 彼女はとても驚いていた。俺が真面目に彼女からの宿題をやったことに、そして、そのノートの内容が、彼女にとって信じられないぐらい分かりやすい解説であったということにも。

「えっ、これ、なんかのコピペ?」

「んなわけないじゃん」

 読み始めたとき、彼女は俺の不正を何度も疑った。自分がそこまでいい出来のものを作ったなんて、到底思えなかったが、彼女からしたら相当完成度が高いものだったのかもしれない。

 内容を読んでいる時、俺はずっと、彼女が次に何を言うのかを期待しながら待っていた。それこそ、完全数のような、俺の好奇心を満たせる新たな何かが、彼女の口から発せられるんじゃないかと、ワクワクしていた。

 しかし、彼女はしきりに「へえ」「なるほど」と感心していただけで、言葉らしい言葉を言わなかった。そして、じっくり読み終えたかと思えば、

「メルセンヌ素数と完全数って、そういう関係だったんだねー。うん、ありがと、わかりやすかった!」

と言って、そのノートをほかのノートの上に乗せて席を立った。

 俺は、混乱した。

 なんというか、もっと彼女の方からグイグイ来るものだと思っていたから、拍子抜けしてしまった。俺がきちんと彼女からの宿題をやってきたことは、彼女にとって喜ばしいことなんじゃないのか?

 何故だろう。

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