青物問屋の伊兵衛は菜切り包丁の使い手
ルーシャオ
とある藩で起きた事件
常人は花見の時期だと言うだろうが、
これこれこういうものをそろそろ売りに出そうと思うてまして、と持ってくる百姓や野菜売りのおかげで、昨日から水に浸けて灰汁抜きをしている筍がそろそろ煮える。醤油をかけて威勢よく歯ごたえと甘みと爽快な舌触りを堪能して、などと手元の仕事をおろそかにしてしまうほど、伊兵衛は楽しみにしていた。
冬は
しかし焼津の伊豆節を薄く削って筍にかけたい、と涎を垂らしかけている伊兵衛へ、
「旦那! あほづらしてっと帳簿に墨が垂れんぞ!」
四方吉は口が悪い。伊兵衛はもう直そうとは思わない、四方吉が十で奉公に来てこの三年、無駄だったからだ。
伊兵衛は筆を硯に置き、もう我慢ならんと立ち上がる。
「四方吉、筍は」
「煮えてるよ。味見しに行こうぜ」
「いや、おさとに鰹節を頼んでくれ」
「やだよ、俺が削るのやらされるんだから」
「そう言うな。筍に醤油を垂らして、鰹節を踊らせながら食いたいんだ」
そう言われると四方吉も想像してしまったようで、ぐっと唾を飲み込む。
「しょうがねぇな……俺の取り分寄越せよ」
「分かってる分かってる」
伊兵衛は知っていた。四方吉が女中のさとの手伝いをしょっちゅうやらされていて、その中でも料理が一番得意だと。三枚おろしをやらせれば見事に捌いてしまうし、人参の飾り包丁の上手さと来たら伊兵衛の妻の
いい鰹節が手に入るのも青物問屋の特権だ。乾物も取り扱うから、野菜と同じで出回る前の上物が口に入る。おかげでさとの作る味噌汁も吸い物も煮物も満足の味だ。伊兵衛がさとにそれを言ったら、こう言われた。
「旦那はん、それってうちの腕がええんやのうて、物がええさかい美味い言うてへん?」
ぐうの音も出なかった。大変に申し訳ない言い方をしてしまったと伊兵衛は平謝りだった。
奉公人に強く出られない伊兵衛は、もう我慢ならんといそいそとお勝手に足を運ぶ。筍が皿に盛られて座敷に上がるまで待てない。ちょっとでいいから一口味見だけでも、と廊下を急いでいたところを、しっかりと妻の藤に見咎められた。
「あんたさま? まだ
「いや味見を」
「さっきしました。美味しゅうございましたよ」
「なっ、先に」
「先にも何も、おさとに頼まれましたもの。ほら、戻る戻る」
こうして、伊兵衛の口に筍が入るのは、もう四半刻先になる。
それから夜半のこと。
伊兵衛はそろりと廊下を歩いていた。抜き足差し足、すっかり熟達した有様でかけらも音が出ない。
向かう先は、もちろん台所だ。腹が減った、朝餉のための筍の残りがあるとさとから耳にしていたのだ。
あれから冷めて醤油が染みた筍は、さぞ美味かろう。そう思うと心躍る。大丈夫、明日の分は残しておく。冷や飯はあったかな、なければないでまあよし。ほうじ茶もいるかな、などとせかせか考えていると、伊兵衛は台所から明かりが漏れていることに気付いた。
引き返そうか、とも思ったが、すでに腹も舌も筍を求めている。ここで取って返したところで、一晩中腹の虫が鳴き止まない事態になるだけだ。何、ちょっと見に行って様子を見てからでも遅くはない。そんなそろばんを弾いて、伊兵衛は台所に入る。
すると、そこには四方吉がいた。
「四方吉? どうした、こんな夜更けに」
「ああ、旦那か。さとが包丁を研ぎに出すっつってたからよ、うちでできるんじゃあないかと思ってやってみた」
そう言う四方吉の手には、すでに研がれた出刃包丁があった。そばに置かれている菜切り包丁も、鈍色に輝いている。濡れた砥石を雑巾で拭って、四方吉は片付けに入る。
四方吉の手際のよさを見て、伊兵衛は感心した。
「お前は器用だなぁ」
「取り柄なんでね。それよか旦那はどうしたんだ、腹が減ったのか?」
「うん、筍を食べようかと」
「そりゃいい。俺も食おう」
四方吉を巻き込んで、伊兵衛はさっそく夜食のために皿を棚から取り出す。台所の鍋の一つに、先刻煮られた筍があった。伊豆節はかかっていないが、十分に美味だろう。
箸で皿に取り分け、伊兵衛は四方吉と筍を分け合う。口に運べば、冷めても美味い筍がしゃくしゃくと歯ごたえよく崩れる。甘すぎず辛すぎず、夜分に食べてももたれない味付けは絶品だ。
「美味いなぁ。さとはよ、黙って料理作ってりゃ嫁の貰い手もいるだろうにさ」
「こら、四方吉。滅多なことを言うもんじゃない、おさとに飯抜きにされるぞ」
「こないだ入れ上げてた隣町の若い衆ってのはどうなったんだ?」
「……おさとのあの噂を聞きつけられて、近づいたら泣かれたんだと」
「あー、ほらな」
しみじみ、四方吉は一丁前に頷く。料理上手のさとは怪力自慢で、そのへんの男衆くらいなら難なく投げ飛ばせる。以前、手癖の悪い男たちと喧嘩になって投げ飛ばして全員川に放り投げた噂が、ここいら一帯にはすっかり浸透していた。だからこその、四方吉曰く、黙って料理を作っていれば、なのだ。
まあ、伊兵衛はさとが無闇に暴力を振るうことはなく、分別のつく娘だと知っている。
「ご馳走さん。そうだ、旦那」
「ん?」
「近ごろは、あちらさんの仕事のほうはどうだい?」
四方吉の唐突な伺いに、伊兵衛は少し悩んで、こう答えた。
「どうだろうなぁ。ないに越したことはないが」
「そうかい。まあ、出番があれば言ってくれよ」
「分かってる分かってる。ほれ、後片付けしておくから、もう寝なさい」
へいへい、と食べ終わった皿を置いて、四方吉は部屋へ帰っていった。
水で流して、拭いて、こっそり棚に箸と皿を戻して、伊兵衛もまた、寝所へ戻る。
■■■
すぐそこの料亭裏の小道で、早朝に一人の棒手振りが事切れた町人を見つけて、お役人が出張る事態になった。
そういう話は風よりも早く駆け巡る。しかし町人たちにできることはない、せいぜいが夜出歩かないように、戸締りはしっかりとしておく、恐怖の中でもそんなことだけだ。
ただまあ、奉行所も無能ではない。下手人はあっさりと見つかり、辻斬りだということが判明して、それから——手詰まりだった。
引っ張れないのだ。何せ、疑わしいとしたその相手は、武士だ。それも藩の家老の息子、とあれば皆二の足を踏む。だが何もしないわけにはいかない、次があるかもしれないからだ。せめて、それを止めなければならない。現状ではお
そういう事情を聞かされる、というのはどうだろう、と伊兵衛は客間で若干
青物問屋の伊兵衛を、だ。
「そういうわけで、一肌脱いでもらえんか」
「黒木様、ちょっとそれは……だって、あれでしょう。あたしに」
少し躊躇って、伊兵衛は頼まれごとの要約を口にする。
「辻斬りを誘い出せ、ってことでしょう」
我ながらとんでもないお役目を押し付けられそうになっている、と伊兵衛は内心ため息を吐いた。
黒木はあっさりと首を縦に振る。
「うん、そうなる」
「そうなるって、簡単におっしゃられますけども」
「頼むよお、お前くらいのクソ度胸がないと無理だろう?」
「そんなものありゃしません。でもまあ、他がまた殺されるよりはマシですかねぇ……」
伊兵衛とて、ほんの少しばかり、腕に自信はある。しかしそれは真っ当な剣術や体術ではなくて、あまり人の耳に入れたくないようなことだ。町人が剣術をやるのも珍しくないこのご時世だが、それにしたって伊兵衛の腕については家の外ではもう黒木くらいしか知らない。
「つけ込むようで悪いが、頼むよ。二度と辻斬りなんぞできないよう、痛めつけてくれればいい」
「またそういう注文をつける」
「大丈夫だ、お前ならできる! お前の包丁さばきなら、できる!」
包丁さばき、と言われてまた伊兵衛は心の中でため息を吐いた。
青物問屋の跡取り息子として、幼少のころから菜切り包丁を片手に育ってきた伊兵衛にとって、打刀や脇差よりも包丁のほうがずっと取り回しがよく、どうすればすっぱり切れるかを熟知している。別に菜切り包丁だけに限ったことではない、やくざが長脇差を差すように、伊兵衛は包丁を使うこともある。それが家の外で使ったことがあるものだから、黒木の知るところとなってしまった。それがもう、二十年近く前のことだ。
若気の至りとはいえ、下手にやんちゃをするものではない、心の底から伊兵衛はそう思う。
伊兵衛は問い返す。
「捕まえちゃあいけないんですか?」
「いや、捕まえられるんならそれでもいい。だが」
「何か事情がおありで? 家老のご子息でも、辻斬りの真っ最中に捕まれば言い逃れはできんでしょう?」
「いやそれはいいんだ。しかし、あちらもまあ、手練れみたいでな。ただでさえ無茶を頼んでいるんだ、そこまで高望みはせんよ」
「何、痛めつけるも捕まえるも一緒ですよ。五体満足かどうかはさておき、やれるだけはやってみましょう」
どのみち、伊兵衛は引き受けざるをえないのだ。黒木には世話になっているし、辻斬りを放っておけば身内に被害が出かねない。藤やさと、四方吉だけではない、青物問屋を支える棒手振りや販女、ご近所さんまでだ。それなら、さっさと自分が行って、用事を済ませてしまえばいい。
黒木は強面にほっと一安心、とばかりの笑みを漏らして、こう付け加えた。
「できれば五体満足で頼む」
「ほら注文が増えた」
もう伊兵衛は我慢しない。思いっきり、ため息を吐いた。
黒木は土産ついでの前金だ、と言って、上等な
「旦那、また仕事かい」
「ああ、そうだね」
「じゃあ、今日出るか?」
「うん、早いほうがいいだろう。何日か時間はかかるかもしれんが」
「いや、今日出ると思うぞ。何たって新月だからな、辻斬りにはもってこいだ」
四方吉は自信満々にそう言った。なるほど、悪党らしい、盗賊の考え方と同じだ。
伊兵衛は首を回し、一つ伸びをして、立ち上がる。
「やるか」
「だな」
もぐもぐと、伊兵衛の目の前で、四方吉は干菓子を一つ貪っていた。しょうがなく、手伝いの駄賃代わりとして、目こぼしした。
伊兵衛は寝所の押し入れの木箱を開けて、脇差よりも一回り短い、自前の包丁を取り出した。厳重に風呂敷に包んでいた菜切り包丁を持ち、ふむ、と頷く。
「うん、油乗りもよし、切れ味も落ちちゃあいないだろう。他に何か」
奥にあった畳んだ
部屋の入り口に、藤がいた。年嵩がいっても相変わらず美人なのだが、どこかしらっと、何ものも寄せ付けないような雰囲気に、二十年来連れ添った伊兵衛でさえ時折ハッとさせられる。そのせいで、伊兵衛はどうにも頭が上がらない。
「あんたさま? 今日はどこかへ行かれますか?」
「ああ、うん。ちょっと、黒木様のご用命でね」
「左様ですか。まあ、あんたさまなら危ないこともないでしょうけれども」
藤は素っ気ない。ただ、情がないわけではないと伊兵衛は知っている。
包丁をちらっと見て、あっ、と伊兵衛は声をこぼした。
「ひょっとして、包丁はお前が手入れを?」
「あら、やっと気付かれましたか。そのくらいはできますよ」
「いや、うん、助かる。最近忙しくて、かまけていられなくて」
「それでよろしゅうございますよ。そんなもの、野菜切りに使わないのなら、用なしのほうがよろしいかと」
「まあ、そうだね」
普段はまったく見せない妻の気遣いに、伊兵衛は少し嬉しくなる。
「今日は戸締まりをしっかりして、おさとにも外には出ないよう言いつけておいてくれ。四方吉は一緒に出るから、心配しなくていい。それから、朝までには帰るから、握り飯でも棚に作っておいてくれると助かる」
「はいはい。ちゃんとやっておきますよ」
他に言い忘れたことはないか、と思案して、何も思いつかないことを確認してから、伊兵衛は包丁を風呂敷で包み、提灯を手に部屋を出る。
「よし、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
伊兵衛は気持ちを切り替え、胸を張って出ていく。その後ろから、蝋燭は勝手口の棚にありますよ、と声が追いかけてきた。用意はしてくれないらしかった。
■■■
草木も眠る
ただ、新月の夜はいつもより夜が長い気がした。闇も深く、こそこそと動き回るには絶好の機会だ。近くには料亭、飯屋と人の出入りに事欠かないだけに、より狙われやすく、危険だろう。
伊兵衛は小道を歩いていた。ちょっとした石畳を敷き詰めた、人がやっとすれ違える幅の小道だ。このあたりには、こういった小道が蜘蛛の巣のごとく張り巡らされている。ついたあだ名は
その小道に、伊兵衛は商家の旦那らしく焦茶の
手元の提灯が頼りなく灯る。懐に隠した菜切り包丁は、とにかく頑丈さだけは折り紙付きで、作った鍛治屋も満足の出来栄えだ。たとえ名刀相手でも、折れはしない。達人相手となるとどうだか定かではないが、まあ大丈夫だろう。
上から四方吉の声が降ってくる。
「旦那、左手のほうから怪しいのが二つ」
「二つ?」
「ああ、だがこの夜中に笠被ってんだ。おまけにどっちも長物差してる」
「そりゃ怪しいね」
「行くかい?」
伊兵衛は動き出す。小道を左に、少し進んでずれた交差路の手前から、懐に提灯を持っていない右手を入れる。屋根の上からわずかに足音が聞こえた。四方吉もついてきているようだ。
角の向こう、人の気配と息遣いが耳に入ってくる。提灯の灯りから、こちらのことは向こうには知られているだろう。歩を緩めることはない、そのまま近づく。
それは一手として間違ってはいないが、相手に初手の選択を渡すことにもなる。
それでも別によかった。伊兵衛は角へと足を踏み入れ——ぬっと現れた影が、提灯へ伸びた。落とそうとしている、そう思った伊兵衛は、後ろに飛ぶ。灯りの軌跡に目を凝らして、影の正体を探ろうとすれば、墨のような艶のない着物を纏い、笠を深く被った輩だ。袖に隠れて得物の様子は見えないが、抜き打たれればこの距離ではどうやっても当たる。
ただ、まだ抜かれていない。相手が辻斬りの下手人だと確定するまで、伊兵衛も抜くわけにはいかない。
提灯ごと体を引き、足を踏ん張る。その間に、相手も体勢を整えた。右手が腰に吸い込まれていく。
伊兵衛は提灯から手を離した。懐の菜切り包丁の持ち手にするりと手が添えられる。
下に落ちた提灯の明かりを受けた、滑らかな一閃が放たれた。
伊兵衛は、すっと息を吐いた。
体は意図せずとも動く。ぬるりと襲いかかってくる刃に、上手いこと伊兵衛の菜切り包丁の刃が激突した。巻いていた風呂敷が破れてしまったことに伊兵衛はしまった、あとで藤に怒られる、と思いながらも、動きは止まらない。驚いた相手が手を震わせるほんの一瞬、伊兵衛は左手をぐいと差し出した。相手の右手首を掴んで、上に捻りあげる。
そのまま、伊兵衛の額が勢いよく笠ごと打ち抜いていく。相手の頭のどこかに、思いっきりゴツンとぶち当たった。
からからんと、相手の右手から得物が石畳に落ちた音がした。伊兵衛は左手を離し、しがみつかれないよう相手を突き飛ばす。辻斬りは、石畳に尻餅をついていた。
だが、それで終わりではない。もう一人いる。
伊兵衛が気配を察し、体を反らせながらまた後ろへ跳ぶ。顔があった場所を、突かれた刀身が通り過ぎた。
伊兵衛は、反射的に動く。
そもそも伊兵衛は剣術を習ったことはない。動物的とも言える勘と考えるよりも早く動く手足、そして体の延長上にある包丁が、勝手に動くだけだ。
ぐるりと体が左に回る。菜切り包丁を取り落とさないよう、伊兵衛は膝を突きながら石畳に着地する。
そのとき、暗闇に慣れた伊兵衛の目は捉えた。
最初の辻斬りが石畳の上にひっくり返っていて、起きあがろうとしている。もう一人は伊兵衛と辻斬りの間に割り込み、伊兵衛へ向けて刀を構えようとしていた。
伊兵衛は足に力を込める。草履がジャリと石畳を踏んだ、その瞬間、辻斬りの笠に石が飛んだ。
「うっ」
張り詰めた気をそちらに取られた辻斬りは、石のやってきたほうを睨む。屋根の上へ視線を取られたその隙に、伊兵衛は地を這うごとく飛びかかる。
下から上へ、菜切り包丁が払われた。切るためではない、辻斬りの刀の柄の先へ、正確に当たる。
ポーン、と刀は空へと飛んでいった。呆然とした辻斬りの腹へ、伊兵衛の足の裏がめり込む。
伊兵衛の後ろに、刀が落ちて塀に当たって止まる。その間にも、最初の辻斬りは起き上がり、もう一人を引っ張って逃げ出していた。
伊兵衛は追わない。やれやれ、と息を整えて、辻斬りたちが落としていった刀を二振、回収する。
四方吉が屋根の上から声をかけてきた。
「旦那、追っとく」
「うん、頼む」
屋根の上を、四方吉が軽々と駆けていった。
伊兵衛が潰れて燃える提灯をどうしようかとおろおろしていると、近くの料亭から下男が出てきた。
事情を話し、何だ何だと出てくる人々の目を避けるように、伊兵衛は刀二振を持って料亭の中に入らせてもらった。奉行所へ人をやってくれ、と頼み、やっとこさ縁台に腰を下ろす。
まもなく、奉行所から若い与力や同心たちが駆けつけてきた。黒木がちゃんと周知していたのだろう、赤浜という背の高い若い与力は理解が早く、辻斬りは二人いて格闘の末に刀を落としていった、四方吉が二人の行方を追っている、という伊兵衛の話を聞くなり、周辺の捜索を配下に指示する。
「いやはや、大手柄じゃないか。大丈夫かい?」
「ああまあ、ちょっとばかし息切れしたくらいで。寄る年波には勝てませんねぇ」
それを聞いた赤浜は、かっかっかと笑い飛ばして、伊兵衛へ休んでいるよう言い伝えた。伊兵衛はそれに甘えて、四方吉が帰ってくるまで待つ。
何やかんやと明け方まで留め置かれ、伊兵衛はあくびばかりしている四方吉を連れてようやく家に辿り着いた。
■■■
昼、黒木がまた伊兵衛の家へやってきた。
「困ったことになった」
「またですか」
顔には出さないが、いい加減、伊兵衛もうんざりしてきた。黒木は弱った顔を見せて、口を尖らせる。
「内密にな、さっきご家老に話を通したんだ。そしたらご家老も、子息の辻斬りを認めたんだが……どうにも、辻斬りは二人と言っただろう? そのもう一人が、逃げたらしい」
四方吉があの辻斬り二人を追跡した先は、確かにその家老の屋敷だった。しかしそのあとのことまでは分からない、四方吉は無事戻ってきて赤浜たちにその情報を伝えたのだから、仕事は十分にこなしたと言える。
「ご家老の子息によれば、そいつは名の知れた剣客の浪人で、こっそり剣を習っていたと。まあそれならやんちゃの範囲だったんだが、連れ立って辻斬りに出てやり方を習っていたってんならもう駄目だ。少なくとも、その浪人を捕まえて牢屋に押し込まないと、この件は解決せん」
それは黒木たちが奉行所の面子にかけて、やらなければならないことだ。家老の子息とやらは面目丸潰れだがさておき、辻斬りを指南する浪人などという物騒な輩を放置しておくわけにはいかない。
「ちなみに、その辻斬りをやってたご家老の子息は、懲らしめられましたか」
「ああ、痛い目を見て家宝の刀をあっさり取られたとあっては、反省せんわけにもいくまいて」
「なら、あとはその浪人だけ、ということですか」
伊兵衛はうーんと唸る。あのときもう少し粘っていれば、取り逃すことはなかったかもしれない。
だが、もう後の祭りだ。危機が去っていないとなれば、もう一働きくらいはしないといけないだろう。
伊兵衛は廊下に控えていた四方吉へ声を掛ける。
「四方吉、どう思う」
「もうとっくに逃げ出してるんなら、今頃南峠あたりじゃねぇかな。あっちは道が悪い、こっから走っていきゃあ追いつけないこともねぇ」
話を聞いていた四方吉は、淀みなく答える。
四方吉のいう南峠、というのは、この午鉄藩と他藩を結ぶ要衝へと繋がる峠の山道のことだ。便利は便利だが、お上に目がつけられないようわざと各藩が整備していない山道で、沿道の入り口にぽつりと茶屋がある程度、確かにそこなら足止めを食らっている可能性はある。
「それに、追っ手がかかることくらい分かってるだろうから、待ち伏せしてるかもな。茶屋なり何なり襲ってるかもしれねぇ」
「なるほど。なら、早く行ったほうがいいか」
ご迷惑のかからないうちに、と伊兵衛は己の不手際を心の中で詫びつつ、立ち上がる。
「黒木様、あたしらは先に行きますので、黒木様は与力の皆様を連れて南峠へ。万一、その浪人が暴れると面倒です。一気に片をつけましょう」
「おお、やってくれるか! よし分かった、すぐに皆を集める!」
黒木は弾むように駆け、さっさと伊兵衛の家をあとにした。ちょうど入れ違いになって、不思議そうなさとが茶を盆に乗せてやってくる。
「旦那はん、黒木様が出ていかれましたけど、お茶は」
「ああ、もういらん。すまないね、飲んでおいてくれ」
そう言いつけて、伊兵衛は四方吉を連れていこうとする。
その背中に、さとはこう言った。
「旦那はん、何や騒がしなっとるけど、奥様と家のことはうちに任せてもろうてかましまへんえ。安心して行ってらっしゃいまし」
さとは優しい娘だ。それに、腕っ節も強い。安心して、家の留守を任せることができる。
伊兵衛は立派に育ったさとに、少々感激しつつも、足を止めない。
「うん、そうする。じゃあ、任せた」
伊兵衛はできるだけ平静に、そう言いつけた。
昨日と同じ支度をして、伊兵衛は走る。四方吉が先導し、町内を抜けて南峠へと向かう。
午鉄藩は狭い。山に囲まれた盆地に城があり、城下町がある。流れる川は浅く、水量は潤沢だが舟は浮かべられない。
だから、南峠への道はほぼ一本道で、まだ足腰の衰えていない伊兵衛とすばしっこい四方吉なら、大して時間はかからない。
伊兵衛は四方吉へ尋ねる。
「四方吉、昨日の浪人の判別はつくか?」
「あの浪人の人相ならちったぁ憶えてる。暗闇でもあれくらいは分かるさ」
「そうか。よし、急ぐぞ」
懐の菜切り包丁を押さえながら、伊兵衛は慣れた足捌きで走っていく。
もともと、伊兵衛は治安の悪かった午鉄藩に蔓延る浪人や頻発していた辻斬りに対処するため、月ヶ瀬町の町人たちで結成した自警団にいた。若いころは喧嘩など日常茶飯事、抜き身を持ち出す輩は後を絶たない。しかし、町人たちは持ててもせいぜいが脇差、それも午鉄藩は次第に禁止のお触れを出していった。
となればどうする。自分たちの身を守る武器がいる、ごろつきや横暴な二本差しに対抗するためには、文句のつけようのない、手足のように扱える武器が必要だ。
そうなれば、青物問屋の息子だった伊兵衛は、商売道具を手に取った。大工は
それもいつしか、町人たちの辛抱強い戦いの記憶は過ぎ去り、伊兵衛は黒木と知り合い、血気盛んな連中も大人しくなっていった。午鉄藩は殿様の代替わりでようやく種々禁止のお触れは撤回され、町にごろつきが溢れることも、武士が偉ぶることもなくなっていった。
今となっては古い話だ。だが、今も伊兵衛には染み付いている。あのころ必死で争った所作が、肉を断つことに平然とある心が、懐の菜切り包丁を悟られまいとする足運びが、失われていない。
伊兵衛は嫌気が差した。それでも、役に立つのなら使わざるをえない。
町外れに辿り着き、林を抜ける。四方吉が声をひそめた。
「旦那、この先に茶屋がある。警戒しろ」
「うむ」
目端と気の利く四方吉がそう言うのなら、従うべきなのだ。できるだけ素早く、音もなく歩く。
やがて、上り坂の向こうに、茶屋の看板が見えた。小屋があり、人影もあり——四方吉は立ち止まって、伊兵衛を手で制する。
「あいつだ」
頷き、伊兵衛は四方吉を後ろに下がらせる。あとは伊兵衛の仕事だ。
伊兵衛はふう、と息を吐いた。気を取り直し、人影へ近づく。
目を凝らす必要もないほどに近づくと、艶のない黒の紬を着た、髷の乱れた男がいた。腰掛けに座り、いかにも慌てていた、とばかりの風貌で、しかし不潔感はない。旅支度は少なく、腰には脇差が一本あるのみだ。
ここまで来て、間違うこともない。
伊兵衛は愛想よく近づく。
「やあやあ、どうもどうも。お武家様ですかい?」
男は顔を上げた。
その視線が伊兵衛のつま先から上り、目と目が合った瞬間、男は腰掛けから飛び上がった。
「その面、やはり追ってきたか!」
男は躊躇うことなく、脇差を抜く。
伊兵衛は己の懐に右手を差し入れた。
「長物がないところを申し訳ございませんが、ここで大人しく捕まってもらえやしませんか」
少しばかりの睨み合いが続き、男が問う。
「お主、何者だ」
「へえ、月ヶ瀬町の伊兵衛と申します。青物問屋を営んでおりまして、包丁さばきには少々自信がございますれば」
すらすらとそう答えることも、昔のとおりだ。
伊兵衛の素っ気ない台詞に、男は憤慨して抗弁する。
「抜かせ。町人風情が、あのような動きをできるものか! これでも儂は剣術指南のお役目も受けたことがあるのだぞ、それを」
「そうはおっしゃりますが、辻斬り風情を斬る程度、町人の片手間でどうとでもなりましょう」
伊兵衛は思わず、自分の口から冷たく言葉が出るのを感じ取った。
ああ、まだ怒りは残っているのだな、と実感した。町を荒らし、人をいたぶった連中のような輩が、まだこの世にはいて、自分はそういうやつらに同情することは決してない。
伊兵衛はすうっと、息を吸う。
「刃物を抜いた以上は、同情いたしますまいよ」
その言葉が終わる前に、伊兵衛は動いた。腰を下げ、地から天へうねる龍のごとく、菜切り包丁が放たれる。
脇差を持つ手が下される。凡百の脇差と鍛えられた菜切り包丁、頑丈さなど比べるべくもない。
菜切り包丁の刃が、脇差へ食い込んだ。男は仰天する。そんなことがあってたまるか、そんな顔をしている。
伊兵衛は愉快だった。そして、そのまま菜切り包丁を振り抜き、脇差を振り飛ばした。遠くへぽーんと脇差が飛んでいき、山から転げ落ちていく。
あとはもう、菜切り包丁の刃を、男の首筋へ向けるだけだ。すでに男は戦意を失っている。呆気に取られ、すとんと地面に腰を落とした。
黒木たちがやってきたのは、それから四半刻も経たないうちのことだった。
■■■
くるくる巻いた首はだんだん真っ直ぐにくしゃくしゃとしてきて、おひたしにしても天ぷらにしてもいい。伊兵衛はさとの後ろから、涎を垂らさんばかりに釜の中を見つめていた。
「旦那はん、そないなところで突っ立っとらへんと、皿の用意くらいしてもらえへん?」
「あ、そうか。すまないね」
伊兵衛はそそくさと膳に皿を並べる作業を手伝う。伊兵衛の家に、男子厨房に入らずなどという家訓はない。美味いものを一刻も早く食うべく、伊兵衛も四方吉も台所に入り浸っている。
形なしの伊兵衛へ、藤が座敷から声をかけた。
「あんたさま、風呂敷が縫えましたよ。まったく、こんな大きな穴を作って」
「ああ、うん、助かるよ。ありがとう」
「どういたしまして。押入れに入れておきますから」
菜切り包丁を包んでいた風呂敷は、何度も抜き打ちをしたせいで、やはり切れていた。申し訳なく思いながら、伊兵衛は藤へ繕いを頼んでいたのだ。
幸いにして着物は切れておらず、雷を落とされずに済んだ。別に、昔も今も包丁で大暴れしていたことを藤に黙っているわけではないが、言う機会を逃している。まあ、知られずにいられるなら、それでいい。
「旦那、今度はたらの芽仕入れてくれよ。
「それもいいなぁ。美味そうだ」
「だろ?」
「二人とも、食意地ばっかり張って。四方吉、ご飯盛った?」
「今やってる」
伊兵衛も四方吉も、台所ではさとに頭が上がらない。座敷に上がれば、藤に頭が上がらない。
それはそれで幸せだからいいのだ。伊兵衛は今日も、美味いものに舌鼓を打つ。
青物問屋の伊兵衛は菜切り包丁の使い手 ルーシャオ @aitetsu
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