第1章 沈む世界

第1章 沈む世界 第1-1話 ある警察官の日常 

「おはようごさいます!」

「おはようー、行ってらっしゃい」


 5月下旬、GWも終わり、新しい学年にも慣れた小学生たちの元気な登校風景。

 時刻は7時半を回ったころだろうか。

 

「お疲れさまでした」

 

 ここ数年日課となっている、駐在所前での小学生の朝の見送り。朝の一仕事を終え、近所の旗当番のお母さんと別れる。

 何ともない、いつもと同じ一日の始まりの朝。

 

 男の名前は、仁代星斗じんだいせいと40歳。警察官として駐在所に勤務するしがない巡査部長である。

 

「駐在所」とは、警察官が初めに配属される「交番」のようなものだ。

 警察署の地域課に所属し、自分の担当地区を持ちながら「警ら」、「巡回連絡」、「交通取締」、「検挙活動」或いは「情報収集」を行う分掌である。

 1つ「交番」と「駐在所」に違いとすれば、駐在所は「家族で住み込みながら仕事をする」交番であるということだろうか。

 基本的には夫婦、或いは家族で居住するスペースがあり、普段の仕事を行う事務所が併設されている。また、比較的田舎の警察署や島嶼部とうしょぶに配置されており、一昔前の「村」単位で受け持っていることも多い。


 もう1つ「巡査部長」とは、警察官の階級であり、「巡査」、「巡査部長」、「警部補」、「警部」、「警視」、「警視正けいしせい」、「警視長けいしちょう」、「警視監けいしかん」、「警視総監けいしそうかん」とある階級の下から2番目である。

 まごうことなき下っ端の主任だ。

 ちなみに「巡査長」は階級ではなく、「巡査長たる巡査」という巡査の中の区分に過ぎず、警察庁長官は役職であり階級ではない。


 そんな下っ端が日々守っているのが、県内でも比較的事件・事故の少ない警察署の更に平和な、ここ七元ななもと駐在所である。

 

 朝の一仕事を終えた仁代星斗は、駐在所の事務室に戻りパソコンで日誌を付けながら警察署へ向かう準備を始める。


「さて、今日は署で毎朝教養まいちょうきょうように出てから青切符の補充しに行かないと」

「佐藤のばぁさんが野菜取りに来いって言ってたけど、この時期なにがあるんだ?ネギはもうとうが立って硬いぞ」

 

 1人ごちりながら不在の札を入り口にかけ、電話を警察署に転送する。

 準備を終えたところで住居となっている居間の方から少女の声が聞こえてくる。


伊緒いお!私の髪留め知らない!?」


 慌てた声で叫びながら、何やら探し物をしているらしい。


「知らないよ、そんもの……、真理まりの部屋じゃないの?」

「何で分かんないのよ、何となく分かるでしょ!」

「えぇ……」

 

 呆れながら答えるのは少年の声。


「真理さん、洗面所に置いて在りましたよ」

珠代たまよさんありがとー!あ、珠代さんそのネックレスかわいいー!いいなー私もこういうの欲しいなー、伊緒買ってよ!」

 

 落ち着いた声で真理に髪留めを渡す女性。

 髪留めを受け取り、長い髪を後ろでひとつにまとめるながら珠代のネックレスを見て、それを伊緒にねだる真理。


「朝から何を騒いでいるんだか……珠代さん何時もすみません」

「いえ、大したことありませんから」


 相変わらず落ち着いた表情と声で答えるのは、躬羽珠代みはねたまよ36歳。駐在所のお隣に住む女性であり、2年前に星斗の妻、仁代美夏じんだいみかが亡くなってから、仁代家のことを何かと手伝ってくれている。

 

「なんで俺が買わなきゃいけないんだよ。ひかるさんにでも頼めばいいじゃん」

「それいいわね。あとで頼んでみよ!あっ!お父さんが来たってことは、もうそろそろ行かないと不味い時間じゃない!伊緒!急ぎなさい!」


 朝から元気に騒いでいるのが、仁代真理じんだいまり16歳。星斗の長女であり、双子の妹である。


「そんなに急がなくても、れいもまだ来てないし……」


 気だるげに答えているのが、仁代伊緒じんだいいお16歳。星斗の長男であり、双子の兄である。

 伊緒は窓越しに空を見上げながら呟く。

 

「伊緒くん、真理ちゃん。そろそろ時間だよ、準備できてる?」


 そんな二人に玄関から声を掛けてきたのは、躬羽玲躬羽玲みはねれい15歳。珠代の長女であり、双子の幼馴染である。

 3人は同じ市内の高校に通っており、ここから自転車で30分かけて高校まで行かなければならない。

 

「ほら、玲が来ちゃったじゃない、先に行くからね」

「はいはい、こっちはとっくに準備できてるからね。あぁ、自転車面倒くさい、空飛べたらいいのに……」


 伊緒がいつもの現実逃避をしながら立ち上がる。

 

「伊緒、真理、お母さんと亜依あいにも挨拶したか?」

「あ、まだだ!お母さん、亜依行ってきます!」

「行ってきまーす」


 居間に飾られた写真と位牌に向かって声を掛け、慌ただしく出掛けていく3人。


「行ってらっしゃい、車に気を付けるんだぞ」

「玲も気を付けて」


 星斗と珠代が子供たちを送り出す。


「はーい、行ってきます。ほら伊緒、玲、行くわよ」

「分かってるよ……行ってきます」

「行ってきます」


 嵐のように登校していく3人。

 

ひかるにあんまり高い物ねだるなよー」

「はーい」


 星斗は親友の教師に若干の申し訳なさを感じつつ、ねだることは止めない。

 残された星斗と珠代。


「それでは、私も出かける準備をしますので」

「今日は横浜でしたっけ。そのネックレス、お似合いですよ」

「――はい、友人に呼ばれて、久しぶりに出かけてきます」


 感情の起伏の少ない珠代が、若干声色を高めながら答える。そのままそそくさと出かける準備をするために自宅へと戻って行った。

 珠世を見送りながら星斗は居間に上がり、写真と位牌の前に座って手を合わせる。


「もう3年か……」

 

 写真は30代の女性、位牌は2つ。

 写真の女性は、仁代美夏じんだいみか享年37歳。星斗の妻であり、双子の母親である。

 位牌はその美夏のものと、次女として産まれるはずだった仁代亜依じんだいあいのものだ。

 3年前、2人を同時に亡くしてから失意に沈む間もなく、必死に子供達と過ごしてきた。


 目を閉じれば今もあの時の光景が浮かぶ。


 ◆◆◆

 

 病院の一室で美夏の手を握る星斗、それを弱々しく握り返す美夏。

 伊緒は必死に涙を堪え、真理は嗚咽を上げながら美夏に縋り付すがりついている。

 

「――伊緒、真理ごめんなさい。星斗さん……あとのこと、よろしくお願いします……」

「――っ大丈夫だ――任せとけ――だからっ!」

「「お母さん!!」」

「先生呼んで!胎児もバイタルが!」

 

 ◆◆◆

 

「――行ってきます」


 星斗は静かに立ち上がり、警察署に向かうためバイクの準備を始める。

 荷物を荷箱に詰め、ヘルメットを被り、愛車のカブに跨がると警察署に向けて走り出す。


「今日は大分暖かいな。昼間は活動服いらないな」


 まだ梅雨には早いが、大分気温も高くなってきていた。そろそろ夏服に衣替えして、ノーネクタイになりたいところだが、6月までは上着を脱いで暑さを凌ぐしか無い。脱いだところで鉄板の入った防刃衣ぼうじんいは脱げないので、どのみち暑いのは変わらないが。


 警察署までの道のりをバイクで爽やかな風を切りながら走る。新緑の若葉を広げる紅葉の木を見て、ふと星斗が昔から通っている古武術の師匠の事を思い出す。

 

「師匠の所の紅葉も新緑で綺麗だろうな。てか、そろそろ顔出さないと、殺されるな……」


 プープープー

『埼玉本部から熊山……|猪の目撃情報現場げんじょう熊山市……』

「お隣、猪出たのか。大変だろうなー」


 無線から聞こえる110番指令を聞かながら、自署あるいは駐在所管内での事件・事故でないことを確認しつつ、警察署を目指す。


「――おはようございます」


 警察署の地域課に顔を出して挨拶しつつ、七元駐在所のレターケースから配布物を漁っていたところ、やや年下の同僚から声をかけられる。


「仁代部長、おはようございます」


 七元駐在所のお隣の駐在さんである、森岡巡査であった。


「森岡か、おはよう」

「部長、このあと取り締まりやりませんか?今月まだ切符切ってないんですよね」

「お前交通取り締まり嫌いだもんな、俺も好きじゃないけど。まぁやらにゃしょうがない、で切り上げていいならやるぞ」

「へへ、助かります」

「とりあえず毎朝まいちょうに行こうか」


 2人は毎朝教養まいちょうきょうよう(朝礼と同義)を受けるため、裏庭へと足を運ぶ。

 昨日の当直の取扱い事項や、署長以下幹部のありがたい指示を聞き、更に地域課内で地域課長や直属の上司に当たる横山係長(警部補)から細かい指示を受ける。


「昨日の当直扱いでもあったと思いますが、近隣署で拳銃使用のコンビニ強盗が発生しています。受け持ちのコンビニは元より、管内のコンビニ、金融機関警戒をお願いします」


 話題は最近発生しているコンビニ強盗へと移る。

 

「被疑者は男1名、黒色キャップ帽、黒色サングラスに白色マスク、回転式の拳銃を所持。昨日は店内で1発発砲しています」


 お決まりの様な人着にんちゃくの被疑者だが拳銃はよろしくない。

 

「拳銃所持なので無闇に現場臨場することなく、無線報告の上で受傷事故防止資機材を着装してから現認臨場してください」

「いきなりチャカぶっ放したらしいぞ」

「マジっすか、かなりヤバいやつですね」

 

 余所の管内と言うことで、イマイチ緊張感に欠ける会話である。

 

 (てか拳銃強盗とか珍しいな、ヤクザもんの犯行かね)


 拳銃はそう簡単に手に入るものではない。それなりの伝手がなければ手に入らないものであり、年に何回も発生するような事件ではないのだ。


「うちの署でも発生したら、駐在所からも捜査員として引き上げられるかもしれないので、警戒の程よろしくお願いしますよ」

「まじですか。一課の特捜とくそうとか行きたくないんですけど」


 森岡が物凄く嫌そうに呻くうめく。他の駐在所勤務員も一様に同じ表情になる。

特捜とくそう」、正式には「特別捜査本部」又は「特別捜査班」という。「特別捜査本部」は「捜本そうほん」「特捜本部とくそうほんぶ」等と呼ばれる、所謂「殺し」や「立て籠り」等の重要犯罪や社会的反響の大きい事件で立ち上がるものである。


「今回はチャカ使用で丸暴まるぼう絡みかもしれないから、捜本立ち上がるかもな。一課か四課かは分からないけど……」

「うへぇ……」


 星斗も森岡も、特捜には行きたくないようだ。特捜に引き上げられてしまうと、暫くの間、駐在所の仕事が滞ってしまう。しかもその間、駐在所は勤務員が居なくなってしまうため、住民から「はよ帰ってこい」とせっつかれてしまい、大変なのである。


「強盗もですが、お隣の熊山署管内では猪が出没しています。あと堀居署管内では熊も目撃されたみたいなので、何かあったら速報してください。拳銃なんかじゃ止まりませんからね、ハハハ」


 野生動物等への拳銃使用は認められている。だが動きが早くて的が小さいため、当たるのが難しい。当たったとしても動きは止まらない可能性があることから、動物相手に拳銃を使用する機会はまずないだろう。

 それより喫緊きっきんの問題は拳銃強盗である。動物よりも怖いのは人間である。さらに怖いのは、今月の実績である。


「強盗も大変だが、切符もやらないとな。金融機関警戒がてら行ってみるか」

「了解!青切符補充して行きましょう」

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