最終話 天使の夜想曲《ノクターン》

 髪には白髪が混じり、無精髭の生えた、小汚い、ホームレスの中年男おじさん

 ソリストを諦めて、楽団からは追い出された、落ちこぼれのピアニスト。


 鍵盤に触れるのも久しぶりだ。


 多くの人の手垢にまみれた鍵盤は、黄色く日焼けしている。調律だけは誰かがしてくれているようだが、クセが強く、タッチも重い。鍵盤のレスポンスとしては最悪だ。


 しかし気分は最高。今にも吐いてしまえるほどに昂ぶっている。


 初めのインサートをイメージする。ファーストタッチで全てが決まると言っても過言ではない。


 譜面台には雪が降り積もり、真っ白な楽譜があるだけだ。


 頭に思い浮かぶ情景や色のイメージを音にする、それだけだ。


 彼はどうしようもなく自分勝手な音楽家だったと言える。自己主張が強く、自分のイメージはこうだ、人のイメージなんてどうでもいい。そんな音楽だから受け容れられなかったのだと、今は理解出来た。

 楽団に入って自分を圧し殺し、譜面通り弾いていれば、食べていけた。その頃には自分が演りたい音楽から、遠く離れていた。


 世間に見放されて、自分と言う存在意義や、生きる理由を失った彼は、自分の色なんてものは何も持ち合わせていない。今彼の中にあるのは。


 アンジェラの為にピアノを弾く。


 それだけだ。


 生まれて初めて人の為に弾くピアノ。


 それだけを一心に想う。


 これは彼女の音だ。


 目を瞑る。


 研ぎ澄まされてゆく感覚。


 ふうっ、と白い息を吐く。

 

 指先に全神経を集中した。


 開眼。


 絞られる瞳孔。


 鍵盤に合わせる焦点。


 聴け。


 アンジェラ!


〜♪


 ピアノ・ピアニッシモ極めて弱くコン・ソルディーノ弱音器を利用して、ソフトペダルを踏んで更に弱く。


 とても静かで、とても優しいタッチのインサートだ。


 音がしたのか、していないのか。水面にふわり、真っ白な羽が落ちたような、そんな音だ。


〜♪


 メゾピアノやや弱くブリランテキラキラ輝くような


 広場に水面が広がる。天使が水面に降り立つ。足先から広場に波紋が広がる。


ふわふわ、ゆらゆら、優しく、穏やかに、たゆたう様なメロディライン。


 空には雲に紛れて朧月。優しい光が白い羽を照らし、水面に淡い影を落とす。


──心地良い音が観衆の心を捉える。


〜♪


 突然のフォルテ強く


 びゅう、風が吹く。広場に波が起こり、羽が大きく煽られて、天使が水面みなもに足を取られる。

 そのまま波に呑まれて、ぷくぷくと、泡を立てて沈んでゆく。


 沈む、沈む、沈む、広場ごと水中深く沈んでゆく。やがて光は遠退き、闇が支配する世界へと、墜ちてゆく。


 どす黒い、重低音が響き渡る。


──息を呑む。


〜♪


 ピアニッシモ弱くからのアンダンテ歩く速さグラーヴェ重く、ダンパーペダルで深さと暗さを表現。


 静寂。音も、光も、温もりもない、広場を呑み込んだ闇の世界。


 何も聴こえず、何も視えない不安、肌を刺すように冷たい水、キラリと光る何かの目、恐怖。


 不協和音にも似た、不穏に揺らぐ音が、広場の空気が冷たく圧しかかる。


 彼女は何かしら呟いて、ぷくり、唇から小さな泡が昇る。


 天使の白い羽は朽ちて、いつしか硬い鱗が彼女の心と身体を覆う。


 自然とアンジェラの目に涙が浮かぶ。


──心を締め付ける。


〜♪


 クレッシェンドだんだん強く、複数のペタルを多様し音の凹凸を表現。


 やがて彼女は大海へと泳ぎ出す。右も左も判らず、ただ真っ直ぐに水面を目指して、暗闇を掻く。


 広場が大きな水流に呑まれ、大小色とりどりの音符が渦巻く。ストリジェンドだんだん速く、次第に速くなる旋律。

 マイケルの指が高速で鍵を打ち、撫でつけ、弾く。


 水がどんなに冷たくても、水面へけば月の光が届くはず、と信じて彼女は無我夢中で足掻き続ける。


 アンジェラは涙を拭き、マイケルが奏でる音に耳を傾ける。


──手に汗を握る。


〜♪


 フォルテッシモ強く


 泳げ、泳げ、泳げ。どんなに疲れても、傷ついても、くじけてなんていられない。立ち止まるな、振り返るな、再び闇に呑まれぬように。アレグロ速く、速く、速く。


 広場の暗がりの向こう、光が見える。光はいつも優しく、温もりと、希望を彼女に与えてくれる。あと少し、自分に言い聞かせ、歯を食いしばる。


──握りしめた手を胸に当てる。


〜♪


 デクレッシェンドだんだん弱く


 広場の石畳にコースティクスの光が網目模様を映す。


 彼女は泳ぎを緩やかに、期待を胸に水面へと顔を出す。


 水面は凪ぎ、朧月の光が優しく降り注ぐ。しかし、彼女の羽はもうない。頬を伝う一条の涙がきらり、月明かりに光る。


 アンジェラはその音にシンクロするかのように頬を濡らす。


──気付けば広場は、マイケルとアンジェラを囲むように、大勢の人で埋め尽くされていた。


〜♪


 一瞬の静寂。


 マイケルとアンジェラの視線が重なり、マイケルは優しく微笑んだ。『夢、見せてやんよ……』と言ったマイケルの言葉がアンジェラの脳裏にリフレインした。


 マイケルはひゅっ、息を吸う。


 振り上げた手が鍵盤を殴りつける様に強烈に叩きつけた。目で追えない速さの連打。連打。連打。巧みに踏みつけるペダル。目の覚めるような音の暴力。しかしそのどれもが美しい。


 フォルテ・フォルテッシモ極めて強くプレスティッシモより速くによる強烈なパッセージ。


 広場は霹靂へきれきに撃たれたような衝撃に襲われ、アンジェラの心を熱い風が突き抜け、頬を紅く染める。


 ピリピリとひりつく空気。


 マイケルは、グランドピアノの全てのオクターブを使い切り、緩急複雑な旋律を音に変えてゆく。全てのハンマーが絶え間なく上下して、無数の弦を弾き、ダンパーが巧みに動き、まるでピアノが彼の体の一部かのように、極彩色の声色を放つ。


 ぞくり、鳥肌が立つような身震いにアンジェラは自分の身体を抱える。


 マイケルの視線はアンジェラを捉えたままだ。


 楽譜は無い、あるのは真っ白な譜面台だけだ。


 これはマイケルが即興で創り出した、世界でたった一つ、アンジェラを想い、アンジェラへ贈られた、アンジェラの為の、夢のメロディだ。そして告白にも似た、愛のメロディ。


〜♪


 ドルチェ柔らかく、シューマン共振、F 分の一の揺らぎ。


 押しては返す波のように、音の波が彼女の背中をそっと押す。


 ふっ、とそよ風が吹き抜けて、硬い鱗がキラキラと風に舞う。


 彼女の背中にふわっ、と花が開くように、白い羽が咲いた。


 レジェロ軽く優美に


 気付くと、雪は大きな結晶を作り上げて、辺りは白銀の世界へと変わっていた。


 夜半が過ぎていて、街の灯は消えて辺りは薄暗くなってきているが、広場に集まる人は絶えない。寝ているはずの子供たちまで、親に連れられて集まっている。


 空から一条の光が降りてくる。暗い雲の隙間から覗く月光だ。


 雪が月光を浴びて、キラキラとその結晶を反射させる。


 広場に風がシュルルッ、と光の粒を巻き込んだ旋風を起こし、光の中から天使が現れた。


 アンジェラだ。


 突如広場に現れた天使に一同は感嘆の声をあげるが、何かしらの演出だろうと目を輝かせる。


 天使はばさり、一つはばたくとふわりと宙に浮き、二つはばたくと瞬く間に広場を見下ろす高さへ。


 マイケルの演奏はまだ終わらない。 その細い指先は黒白こくびゃくのステージを軽やかなステップを踏み続け、風に乗った音符が人々の間を駆け抜ける。


 その音符と踊るように宙を舞うアンジェラ。キラキラと降り注ぐ綿雪は、天使の綿毛の様に月光を纏い、風に揺られて舞い落ちる。


 マイケルの背中へ降り積む綿雪が、しゅわっと蒸気に変わって立ち昇る。既にマイケルの前にアンジェラはいない。上空のアンジェラに想いを馳せるように、マイケルは空を見上げた。


〜♪


 ピアニッシモ弱々しくアダージョゆっくり静かに


 上空の月光と共に消えるアンジェラを見届けたマイケルは、少し寂しそうに微笑んで、一筋の涙を流した。


 先程までの激情とも思える情熱的な音は無く。今にも消えてしまいそうな、儚く淡い音が、ぽろり、ぽろりと、涙を落とす。


 鍵盤の指は錆びた歯車のようにぎくしゃく動き、美しかった音色が軋んでゆく。光りに包まれていた広場は、切れかけのフィラメントのように明滅し。


 ぴたり、音が止む。


 暗転。


 マイケルの指は動かなくなった。

 

 観衆のすすり泣く声だけが聴こえる。


 ピアノは眠ったように静かで、雪だけがしんしんと降り続いている。

 

 しかし誰もその場を離れようとはしない。


 続く沈黙と暗闇。


 刹那。


 ぽわっ、と淡い光が灯る。


 見ると、冷たくなった鍵盤に眠る手を、優しく包む白い小さな手があった。


 光は次第に大きくなり、マイケルの背中からアンジェラが、覆い被さるように手を添えている。


 いつの間にかマイケルの背にも大きな羽が伸びている。


 アンジェラに気付いたマイケルは、アンジェラの手をとる。二人手を取り合う様に向き合い、互いを慈しむ様に見つめ合う。そして。


 ぽろん♪


 消えた。


 ……。


 ……夢。


 これは夢なのだと、誰もがそう思った。


 しかし、子供は言う。


「天使さんたち、行っちゃったね?」


 その親が応える。


「ああ、今日はクリスマスだ。きっとイエス様のところへ行ったのだろう」


──パチパチ……


「メリークリスマス!!」


 子供たちは満面の笑みを浮かべて、拍手と歓声をあげた。


──パチパチパチパチパチ……


「メリークリスマス!!」

「ハッピークリスマス!!」


 広場は大歓声に包まれて、それはしばらく鳴り止まなかった。








 黒い服を着たひとりの老人が広場の中央に歩み出た。


 彼がギターケースヘお金を入れたのを皮切りに、あっという間にギターケースはお金で一杯になった。


 ギターケースには孤児院の名前と『ガブリエラへ』と言う文字がアンジェラの字体で書かれていた。


 そのギターケースを有志が孤児院へと送り届け、投薬治療を受ける事が出来たガブリエラは、無事に快方へと向かったと言う。


 後日、広場のピアノを調律師が見たところ、どこもかしこも壊れていて、とてもまともな音の出せる状態ではなかったと解った。

 そこで募金により新しいピアノが設置されて、ミュージシャンの聖地として多くのアーティストが集まったと言う。


 広場でこの奇跡を観たのだと言う大勢の人たちは、この広場を『天使の広場』と呼んだ。









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