第二話 お金
男は自分でも取るに足らないと思えるくらいの、売れない音楽家だった。毎日何となくピアノを弾いて、その日泊まれる宿と、食べてゆけるだけのお金があれば良かった。
しかし、彼としても初めからそんな無頓着に生きて来たわけではない。
若かりし日の彼は意欲的で、様々な音楽を取り入れ、新しい音を追い求める、むしろ情熱的に音楽と向き合っていたと言える。
されど現実と言うものは残酷で、彼の情熱の一切合切を踏み躙った。彼の創り出す新しい音は、誰の心にも届くことはなく、無情にも酷評だけが積み重なり、社会の流れからはみ出して行ったのだ。
情熱は冷め、意欲を削がれ、ソリストの道を諦めた彼は、街の楽団所属のピアニストとして食べて行くことを決めた。
数年にわたり、その日暮らしを甘んじて受け入れていた彼だったが、流れる時間はそんなとりとめもない日常すら彼から奪った。
「彼が新しいピアニストだ。今日までありがとう。お疲れ様」
楽団のスポンサーが若い男を連れて来て、彼にそう言った。
紹介されたピアニストは見た目も良く、ソリストとしてもいくつかの受賞歴があるそうだ。年齢平均が高くなりつつあった地味な楽団に、華を持たせたかったのだと言う。
仕事を失った彼は、退職金代わりに持たされた古いギターを手に、楽団を去った。
仕事も、住む家も無い彼は、そのギターを二束三文で売り飛ばして端銭を手に入れ、
一方女は孤児院の出だ。身寄りが無く、孤児院で暮らしていたが、
偶然にも、雇っていた住み込みの給仕が辞めてしまった店を見つけ、居抜きで住み込むことになり、すぐに給仕や家の雑用などを任せられた。
住み込みと言うこともあり、貰える賃金はミミズの涙ほどもなかった。その代わりと言っては何だが、食事は支給されていたので、生きて行くには困らなかった。
ある日、食堂の女将さんが足りない食材を買いに出た時のことだった。食堂の掃除をしていた彼女の背後に店の主人がやって来て、彼女のお尻を触りながら言った。
「じっとしてろ。ババアには言うんじゃねえぞ?」
「旦那さま? あの、それはどう言った……」
「それをこれから教えてやる。声を出すんじゃねえ!」
「きゃあっ!」
彼女は店の主人にテーブルへ押し倒されて、服を乱暴に脱がされてゆく。そこへ店の女将が忘れ物を取りに帰って来て、どう言う事かと二人を問い詰めた。
彼女は怯えて何も言えず、店の主人がこの女に
彼女はすぐさま荷造りをさせられて、その日のうちに追い出されてしまった。
そのままでは凍え死んでしまうので、選別に女将のコートとほんの少しの支度金をもたせてくれた。
しかし彼女は、孤児院へ戻ると言う選択は考えもしなかった。已む無く彼女は住み込みで雇ってくれる店を、再び点々と探し歩いたが、世の中はそんなに甘くはなかった。
世間の冷たい風に晒された彼女は、覚悟を決めて自分の身体を売る事にした。見様見真似で安い服と化粧品を買い揃え、
そして
「なあ……」
「ん……」
「こうなったら山分けでどうだ? それなら文句もねえだろう?」
「……わかったわ、そうしましょう。先にそっちが手を放してくれる? 私が逃げてもあなたならすぐに捕まえられるでしょ? 逃げも隠れもしないけど」
「……ああ、じゃあ開けてくれ」
「……あんた、悪い人じゃなさそうね?」
「どういう意味だ? バカにしてるのか?」
「ううん。ちょっと安心しただけよ。……じゃあ、開けるわね?」
そう言うと、女は財布のフタを外して中身を広げた。
「……」
「……」
中には数枚のお札と小銭、そしていくつものカードがあった。
期待ハズレだ。お金以外はゴミでしかない。二人はカードの使い方など知りもしないのだ。
「ははは……」
「ふふふ……」
二人顔を見合わせて、目が合うと、プッと吹き出して、わははと大声で笑った。
「なあ、これは相談なんだが……」
「奇遇ね? 私も相談があるの……」
「これで何か旨いものでも……」
「これで何か美味しいものを……」
「決まりだな!?」
「決まりね!?」
「俺はマイケルだ」
「アンジェラよ」
ぐっと握手を交わす。
そうだ。二人は明日を夢見ることはない。
どうせお金を残したとて、明日、何か変わる訳ではないのだから。
こうして二人は、宵越しの金を持つより、今日、この時を楽しむことを選んだ。
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